陸
「ところで、私たちはどこへ向かっているの?」
「とある人を訪ねようと思います」
東京府の中央近くに位置する氷川町。
僕らはそこへ続く道並みを歩いていた。
「……氷川? あの辺りって、確か……」
「ええ。政府のお偉いさん方の屋敷が並んでいるあたりです」
うへえ、と顔を渋くするお嬢様。
「あの辺りには近寄るなと言ったのは鉄之助、貴方ではなかったかしら」
「ええ。お一人では近寄らないでくださいね」
裏の帝都とは違った理由で、お嬢様がこのあたりをぶらつくのは好ましくない。
なにせ、氷川には元幕府の要職に就いていた人間も多く住んでいる。
その中には、お嬢様の顔立ちに心当たりのあるものもいるだろう。
嗅ぎつけられれば十中八九、面倒な事態になる。
「ですが、今回は例外です。どうしても、会わなければならない人がいるのですよ」
「意外ね、鉄之助。貴方にそんな知り合いがいたなんて」
「……その言い方ですと、僕が知人の少ない寂しい男だと言っているようにも取れますね?」
「好きに解釈して構わないわ。で、その屋敷というのはまだ遠いの?」
なだらかとはいえ上り勾配の続く氷川坂は、出不精のお嬢様には少々きつかったみたいだ。
僅かに呼吸を乱し、眉間に皺を寄せる彼女に苦笑しつつ、僕は前方を指し示す。
「もうすぐそこですよ――と、見えましたね」
それは閑静な街並みにあって、ひと際地味で寂びれた雰囲気の平屋だった。
これを武家屋敷と呼んでいいのかわからないほどに飾りのない、質素倹約という表現がぴったりの門構えを見て、お嬢様が気の抜けたような顔をする。
「……はぁ。鉄之助、本当にここで合っているの?」
「ええ、間違いありません」
ざり、と砂利の敷き詰められた庭口に踏み入る。
昨日の朝、来訪を告げる手紙を出しておいたから、中にいてくれるはずなのだけれど……正直、相手は行動が読めない人なので確証はない。
どうか気紛れに出掛けていませんように――そう祈りながら、僕は扉の向こうへ大声で呼び掛ける。
「先生、先生! 僕です、鉄之助です。只今参りました、いらっしゃいますか!?」
すると中からバタバタと慌ただしい足音。
建てつけの悪そうな引き戸ががらりと開いて、中から一人の男が顔を見せた。
「――よォ、久しぶりじゃあねえか、鉄之助」
真っ白に染まった頭髪を後ろに撫でつけ、無精ひげを生やしたその男は、着古して皺のついた濃緑色の和服をだらしなく揺らしながらニヤリと笑った。
「ご無沙汰しております、先生。お変わりないようで」
「馬鹿たれ、変わったわ。まあええ、そんで、そっちが――」
硝子玉のような大きく丸い目を爬虫類じみた動作で回転させ、僕の隣に立つお嬢様に向ける。
瞬間、彼の表情に驚愕が走った。
「……へえ、こいつァ驚えた。まるで瓜二つだ」
じろじろと全身を舐めまわすように観察してくる男の視線に、お嬢様は不快感を滲ませた口調で問う。
「……鉄之助。このおじさまは、一体どなた? 本当にこの方を訪ねに参ったの?」
僕は物怖じしないお嬢様の態度に苦笑しつつ、男に軽く一礼してお嬢様の失礼を詫びる。
もっとも、この程度で気を悪くする人ではないとわかってはいたけれど。
「ええ、ええ。勿論ですよ。というか、見覚えはありませんか?」
「残念ながら、無いわね。少なくとも私の知り合いではないわ」
「知り合いだったら驚きますよ。そうではなく、遠くから見た覚えはないですか? あるいは人相書きとか……それこそ、新聞かなにかで」
僕の言葉に、お嬢様はしばらく首を傾げていたが。
やがてその端正な顔がじわじわと歪んでいく。
「……ちょ、ちょっと、待って。まさか――」
「はい、そのまさかです」
僕は一歩踏み出すと、お嬢様と男の間に立ち、取りなすように両手を広げた。
「この方の御名前は、勝安芳海舟殿。元幕府外務大丞、海軍卿、現政府元老院議員官などをお勤めになっている、いわば新政府設立の立役者です」
数秒後、日川の家々にお嬢様の悲鳴が木霊した。
◆
「こ、この度はとんだご無礼を……っ」
場所を移し、勝先生の邸宅の一室。
畳に額を付けて土下座するお嬢様の声は震えていた。
「まさかそれほど立場のある方だとは露にも思わず……誠に申し訳ありませんっ」
「気にすんなよ、お嬢ちゃん」
一方、対面に座る勝先生は鷹揚な態度でお嬢様の謝罪を受け入れた。
それどころか、明らかにこの状況を楽しんでいる様子だ。
「今の俺は元老院も辞めちまって、ただの一町民だ。そう畏まるこたぁねえ」
「し、しかし……」
「心配しなさんなって。その程度、一々気にする心算もねえ。俺ァ面白いと思った奴なら、それが例え俺を殺しに来た刺客だろうと茶を一緒にしばきたいくらいでね。だろ、鉄之助?」
「……はは」
含みのある言葉に、乾いた笑いが漏れる。
彼の言は全くもって冗談ではない。彼は本当にそれをやってしまう人だ。
額を上げたお嬢様が、青ざめた顔で流し目を送ってくる。
「……鉄之助、貴方。まさか……」
「…………昔の話です、昔の」
目を逸らし、誤魔化すように出されたお茶を啜る。
そんな俺たちのやり取りを、勝先生はどこか嬉しそうに眺めていた。
「思ったより、上手くやっているみてぇじゃねえか。骨を折った甲斐があったってもんだ」
「……なんの話をしてらっしゃいますの?」
疑問符を浮かべるお嬢様に説明する。
「六年前、僕らが多摩からこっちに引っ越すとき、便宜を図って下さったのが勝先生なんですよ。先生がいなければ、僕たちは今頃路頭に迷って、そこらの道端に骸を晒していたかもしれませんねぇ」
「……そういう大事なことは、もっと早くに言いなさい」
「すみません。お伝えするのを忘れていました」
「何だ、女子の尻に敷かれるのは相変わらずだなァ、鉄之助?」
「勘弁してくださいよ、先生……」
ぼやく僕を肴にお茶を一口嚥下してから、勝先生が居住まいを正す。
「……それで、今日は何の用だ? って、聞くまでもねえけどな」
お前の内心などお見通しだと言わんばかりのしたり顔で続ける。
「怨嗟の鬼と化した、沖田の亡霊……お前さんの目的は、悪霊祓いだろう?」
「その通りです」
「だが、如何にして捕まえる? 幽霊に足はねえぞ」
「それについても、考えがあります」
頷き、僕は懐から紙束を取り出す。
藤田さんから受け取った資料と、天草姐さんから手に入れた資料、そして僕らが集めた情報。
それらを纏めて、僕独自の推論を書き留めた書類を差し出す。
読み終えた勝先生は、天を仰いで嘆息した。
「…………鉄之助。お前さん、とんでもねえな?」
「と、言いますと?」
「惚けんな。お前の推測は、おそらく正しい。だが、同時に……恐ろしいぜ、俺はよ。こんなもんを持ってきやがって……さてはお前、阿保みてえな難題を俺に押し付けるつもりだろ?」
「……流石ですね」
書類を一見しただけでこの先の展望までを見抜く理解力、洞察力に舌を巻く。
これが勝海舟という男。
かつて幕府軍軍艦奉行を、そして陸軍総裁をも務めた男。
僕は湯飲みに残っていた最後の一口で唇を湿らせると、慎重に言葉を選びながら要求を伝えた。
「……本日、ここへ来た理由はふたつ。ひとつは、情報の裏取り。要職を退いたと言えど、政府内に多くの伝手を持ち、実質的な家老役である先生ならば、僕の推測の真贋をはっきりさせてくれると思いました。そして、その上で……次を教えて欲しいのです」
「……その言葉の意味が、わかってんのかよ」
「できるのは勝先生、あなただけです。あなたにならば、可能なはずだ」
勝先生がとびきりの苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……ああ、できる。できるとも……鉄之助。だがな、俺ァ……お前らに、もう……」
「先生の心配はわかっています。ですが、これは最早僕個人だけの問題じゃない。相手が新撰組の名を騙った以上、僕はやります。必ず、やります。先生のご助言を頂けるかどうかは、それが早いか遅いかの違いでしかない」
「…………お嬢ちゃんは、それでいいのかい」
僕を説得することは不可能だと悟ったか。
勝先生は、お嬢様へ水を向ける。
「構いません。それが鉄之助の決めたことならば、邪魔をするつもりはありませんわ」
「……そうかよ。そうまで言うなら、仕方ねえ」
勝先生は吐き捨てるようにそう言うと、いかにも気が進まなさそうに頭を掻いた。
それから、彼には珍しい憂いを帯びた表情で、
「けどな、これだけは言っておくぞ、鉄之助。くれぐれも、《鬼》には気を付けろ。俺ァもう、二度と桃太郎ごっこは御免だぜ?」
僕は先生の忠告に、黙って明後日のほうを眺めた。
庭先に立つ、背の高い柿の木。枝先に生った実を、鴉が突いている。
啄まれ続けた柿はやがて落ち、てらてらとした果肉を地面に塗した。
◆
函館。五稜郭が燃えていた。
僕らが守るべき、最後の砦。
その城門が今、轟々と火を噴いていた。
「……終わりだな」
今まさに崩れ落ちんとする城門を前に、土方さんが呟く。
土方さんの言葉通りだった。最早、僕たち旧政府軍に勝利はない。
白旗を掲げて膝をつくか、沼底を攫うように一人残らず打ち倒されるか、そのどちらかだろう。
願わくば、後者でありたい。そんな考えが頭を過る。
けれど、直後に土方さんが発した台詞は、冷や水を浴びせるかのようなものだった。
「鉄之助。お前は逃げろ。逃げて、生き延びろ」
「お断りします」
……今更、何を言い出すんだこの人は?
「言ったじゃないですか、土方さん。地獄の底までお供しますよ」
僕はおどけた口調でそう言った。
けれど土方さんは、ぴくりとも笑わなかった。
「ならん。これは命令だ」
「その命令は聞けません」
「いいや、聞いてもらうさ」
ぎらりと土方さんの瞳が剣呑な光を放つ。
まずい、と思った時にはもう遅かった。
雷電の如き速度で踏み込んできた土方さん。
彼女の愛刀、和泉守兼定の黒い柄が、僕の鳩尾に埋まっていた。
「――ッ、は」
ぐらり、と体が傾ぐ。
肺の空気を全て吐き出さんほどの衝撃に、視界が急速に狭まってゆく。
完全な不意打ちを受けた僕の身体は、驚くほど呆気なく意識を手放そうとしていて。
……嫌だ、嫌だ。絶対に嫌だ。
このひとを、一人で逝かせるのだけは、絶対に――ッ!
薄れゆく世界の向こう。
翻ったコートの裾と、炎のような赤い髪。
僕はそれを掴もうと必死に手を伸ばすけれど、思うように動かない右手はただ空を切って。
「……あとは任せたぜ、鉄之助。オレの娘を――よろしくな」
遠ざかっていく背中。
嗚呼、これを見送るのは何度目だろう。
その度に僕は、彼女を行かせまいとして――けれど必ず失敗する。
そして夢は、いつも同じ終わりかたで醒めるのだ。
土方歳三という人間が、生涯最後に遺したこの言葉で。
「――お前だけは、オレを愛してくれよ……クロ」
◆
「…………ッ、ッは、はぁ、はぁァ……ッ!」
覚醒と同時、全身を貫く痛みと熱。
夜の帳に包まれた部屋は暗く、しかし月明かりだけでは説明がつかないほど不自然に明るい。
僕だ。
僕の全身が滾り、高熱を孕み、ぼんやりと赤く光っているのだ。
「――ッ、ぐっ、……か、ぁ……がぁッ」
激しく空嘔吐きを繰り返すが、熱は一向に冷める気配がない。
それどころか、増々勢いを増す幻の炎が目蓋の奥でちかちか明滅する。
――焼け。殺せ。何もかもを。
「っがぁ、は、あ“、うッぐぅぅううううッ!!」
獣の如き唸り声を上げ、両手の爪で寝台を引っ掻く。
歯を食いしばり、こみ上げる破壊衝動を必死に堪えようとする。
――壊せ。呪え。何もかもを。
――あの女が、そうしたように。
「――――――ッ、ぼ、僕は……ッ」
真っ暗な夜の闇に、ぼんやりと像が浮かび上がる。
敵も味方もなく、手にした刀であらゆるものを薙ぎ払う。
自らの傷を厭わず、流血なんぞ意に介さず、嗤いながら命を喰らう。
頭部から髪のように長い、真っ赤な炎をたなびかせて戦場を荒らしまわるその女の姿は、まさしく《鬼》そのもので。
僕は、その虚像に手を伸ばす。
『ああなってしまえば楽になれる』と骨肉が訴える。
『ああなってしまえば同じになれる』と魂が訴える。
その訴えは熱と渇きの焦熱地獄の中にいる僕にとって、これ以上ないほど甘美な福音の如く響いて――。
「――辛いのね、鉄之助」
「…………お、じょう、さま」
はっと意識が揺り戻される。
真っ暗な部屋の真ん中。
ベッドに倒れ悶える僕の傍らに、ひかりお嬢様が立っていた。
彼女がそっと僕のほうへ手を伸ばす。
咄嗟にその手を振り払った。
「ッ、だ、めだ。今、はぁ、ああ……っ」
この熱がお嬢様を傷つけてしまう。
今こうしている間にも、頭の中には破壊と殺戮を促す声ががんがんと響いているのだ。
だけど、お嬢様は僕の抵抗を意にも介さず。
そっと僕の頬に手を添わせる。
「……馬鹿。やっぱり、無理してるじゃない」
「ッ、がぁああっ、ふぅ、ふうううううっ」
「こうなる前に、といつも言っているのに……貴方はいつも、我慢してしまうのね」
お嬢様が自分の肩に手をやる。
ぱさりと軽い音がして、身にまとっていた薄い絹の襦袢が取り払われた。
白い下着姿になったお嬢様が、僕の耳元に唇を寄せる。
そして、囁いた。
「――辛いでしょう、鉄之助。いいわ。私を、喰らいなさい」
「ッ、ッがぁ、っ~~~~~~!」
「躊躇は要らないわ。これは……」
僕を見下ろすひかりお嬢様の姿が、思い出のあの人と重なる。
「――――これは、命令よ」
次の瞬間にはもう、最後の一線を留めていた理性の箍が吹き飛んでいて。
僕は彼女の両肩を掴むと、寝台に押し倒した。
絹の肌に爪を立て、傷跡を刻む。
ぷつぷつと浮かび上がった血の珠を舐め取ると、芳醇で鮮烈な味わいが鼻腔いっぱいに広がった。
旨い。ああ、旨い……もっと喰らいたい。
血の一滴から毛髪の一本に至るまで、全てを奪い、蹂躙して貶めて、壊してしまいたい。
破壊という行為によって、完膚なきまでに僕の所有物であるのだという不可逆の烙印を刻みつけるのだ。
本能に衝き動かされるまま、白木のような首筋に両手を掛ける。
か細くて、容易く折れてしまいそうだ――ならばさっさとそうしてしまえばいい。
殺して、裂いて、血肉を喰らわば、きっと至福の甘味に違いないのだから。
紅い髪が婆娑羅に広がる。
懐かしい香りに脳髄がぐらぐらする。
「…………ッ、土方さん、土方さん……ッ!!」
視界が激しく明滅する。もう何も考えられない。
ずっと憧れていた。
ずっと追い焦がれていた獲物が、目の前に無防備を晒している。
ならば何を我慢することがある?
今すぐにこの女を余すことなく喰らい、壊し、浴びて。
一分の隙も無く、完膚なきまでに、俺だけのモノに――。
――目が合った。
まさに己の命が手折られんとする瞬間にあって、彼女は優しく微笑んでいた。
「――貴方を愛しているわ、鉄之助」
――その一言が、まるで破魔の一矢であったかの如く。
僕は彼女の名前を思い出し、昏倒した。