弐
慶応四年(1868)、一月、京都――伏見。
そこはまさしく戦場という名の地獄だった。
吹き荒ぶ血風と鉄粉。
銃声と断末魔が途切れることなく鼓膜を揺らす。
濃密な死の臭いに、鼻がひん曲がりそうだ。
そんな阿鼻叫喚の中に――咲き誇る一輪の花があった。
鮮かで気高い薊の花だ。
浅葱の隊服を翻し、燃えるように紅い髪を靡かせて、その女は声高に叫ぶ。
「――薄汚い長州の狗共! 薩摩の腹黒奸賊共! 貴様ら、一兵たりとも故郷の土を踏めると思うなッ!!」
彼女の言葉に逆上した薩長の兵卒が押し寄せる。
憎悪に瞳をぎらつかせ、侮辱を吐いた女の口を塞ごうと、いきり立って飛び掛からんとする。
「――鉄之助ッ」
名前を呼ばれるよりも早く、僕は地を蹴っていた。
彼女の前に躍り出るや、抜き打ちざまに一閃。
「――がっ!?」
倒れこむ敵兵には目もくれず、返す刀でもう一閃。瞬く間に二人を切り伏せる。
刀を振り切ったのを隙と見たか、大上段に構えた三人目が、
「覚悟おおおおおおおおッ――――!?」
しかし彼の裂帛はあっけなく途絶える。
がら空きになった喉を、白刃がざっくりと抉っていた。
「――油断するなよ、鉄之助」
刀を突き出した格好のまま、彼女がぽかりと僕の頭を軽く叩く。
僕は唇を尖らせて抗弁した。
「大丈夫ですよう、土方さん。ちゃんと避けられましたって」
「おいおい、本当かよ?」
土方さんは無造作に足を持ち上げると、敵兵の屍を蹴り飛ばし強引に刀を抜いた。
栓を抜いたように噴き出す血飛沫を全身に浴びて、彼女はむしろ興奮するように嗤う。
「――沖田! 斎藤!」
「なんじゃらほい?」
「ちっ。煙草の一本くらい、のんびり吸わせてくれよ」
呼び掛けに応じ、二人が戦場を切り抜けてこちらへやってきた。
敵味方が入り乱れる戦場において、味方の声を聴き分け、すぐに参上する。
彼らは容易くやってのけたが、その実、恐ろしいまでの集中力と胆力、剣の実力がなければ叶わない芸当である。
新撰組の一番・三番隊組長の肩書は伊達ではないのだ。
土方さんは、愛刀である〈和泉守兼定〉の切先をぴたりと敵陣に定め、
「お前らは隊を率いて奴らを右翼から切り崩せ」
ひょいと肩を竦め、口をへの字にする沖田さん。
「うへえ。鬼の副長様は部下使いが荒いなあ」
「まったくだ」
「うるさい、うるさい! いいから行くんだっ」
「「了解」」
彼女は続いて伝令を呼ぶと、こう言付ける。
「長倉に連絡だ。二番隊を敵の左翼に当たらせろ」
僕は伝令役を担う山崎さんの背中を見送りながら、訊ねる。
「土方さん。僕らはどうします?」
すると彼女は、「決まってんだろ」と鼻を鳴らして。
「伸び切った敵陣を真ン中から分断する。これは命令だ――まさか嫌とは言わないよな?」
全身の血が沸き立つような感覚。
荒れ狂う狂奔の衝動に身を委ね、歯を剥いた。
「――ええ。地獄の底までお供しますよ。僕は貴女の小姓ですから」
「いい返事だ。――行くぞッ」
「応ッ」
僕らは息を合わせ、銃弾と刃の雨に身を投じてゆく。
この頃はまだ、僕らは無敵だと思っていた。
勇猛果敢にして冷徹聡明、眼の覚めるような魅力。
土方さんについていけば間違いはないのだと、僕はそう信じて疑わなかった。
この人の刀として生涯を費やせるのだと、そう信じて疑わなかった。
――だから気づかなかったんだ。
破滅の足音がすぐそこまで忍び寄っていたことに。
地獄の窯の蓋は、もうとっくに開いていたということに――。
◆
藤田さんからの依頼を受けた、翌日。
僕は朝一番から早速、“辻斬りの噂”の調査に励んだ。
……と、言いたいところなのだけれど。
「……」
くろがね探偵社の二階は、僅か二名の従業員が生活する居住空間になっている。
僕はその廊下を進み、お嬢様の部屋の前で立ち止まった。
ドアを強めにノックし、声を掛ける。
「……お嬢様。朝ですよ、お嬢様」
返事はない。まあ、いつものことだ。
念のため、もう一度ノックをして……それでも返事がないことを確認してから、ドアを開けて室内に足を踏み入れた。
決して広くはない、質素な部屋。
面積の四分の一を占める、欧州製の寝台に歩み寄る。
「おはようございます、ひかりお嬢様?」
「……うう」
もぞり、と掛け布団が蠢き、中から細く白い腕だけがにょきっと生えた。
ふらふらと虚空を彷徨い、僕のシャツを探り当て、摘まむ。
「……眠い。まだ眠いわ、鉄之助」
盛り上がった布団の中からくぐもった声。
情けない訴えに、僕はため息をついた。
「はあ。ですが、もう七時ですよ? 起きていただかないと困ります」
「……なら、もっと困らせてやろうかしら」
「僕が困るのではなく、お嬢様が困るのですよ……。いいんですか、あと半刻で僕、出かけてしまいますよ? そうしたら、誰がお嬢様の朝食を用意するんです」
「……」
「お嬢様」
そこでようやく観念したのだろう。
お嬢様が、芋虫のように布団から這い出てきた。……下着姿で。
「……ふぁ。おあひょう、鉄之助」
可愛らしく小さな欠伸をするお嬢様だが、髪はぼさぼさで肩紐はずり下がり、あろうことか口元には涎の痕。
これではとてもではないが淑女とは呼べまい。
世話役として、不甲斐ないこと頻りである。
「せめて襦袢をお召しになってくださいと、いつも言ってるじゃありませんか」
惰性になりつつある注意をすると、例によってお決まりの返事がくる。
「だって、面倒なのだもの。そもそも、この洋風の下着は窮屈なのに。その上からさらに服を着るだなんて、とてもやってられないわ」
「我慢してください。今はまだ珍しいかもしれませんが、あと十年もすればそれが普通になりますよ。流行を先取りしておくことは、決して損にはなりませんから」
お嬢様は胡乱気に首を傾げる。
「本当かしら? 単に、貴方の趣味というだけではなくて?」
「違いますとも。例えば十年前に主流だったゲベール銃は、今では型落ちの骨董品です。そんなものを担いで戦場に向かえば、あっという間に新式スナイドル銃の餌食ですよ?」
「それは例えになっているのかしら……。ああ、眩しい」
窓から差し込む日光を嫌って、部屋の隅っこに縮こまるお嬢様。
まだ半分寝ぼけているらしく、肌のほとんどを晒したあられもない恰好のまま膝を抱える。
まさか意識はしていないだろうけれど、胸元を大胆に強調するような体勢だ。
白いレースの下着越しに、初めて出会った頃はなかった、くっきりとした峡谷を見つけてしまい……僕はさりげなく目を逸らした。
「……意気地なし」
「なにかおっしゃいました?」
「いいえ、なんでもないわ。それより、いつまでそこにいるつもり? もうちゃんと起きたじゃないの」
「そう言って、僕が離れるといつも二度寝してしまうではないですか。お嬢様がきちんと着替えて、身だしなみを整えるまで、ここで見届けさせて頂きますね?」
渋面を浮かべたお嬢様は、吹っ切れたように万歳をして、
「――なら、貴方が着替えさせて頂戴? ほら、早く」
なんて言うものだから、僕は彼女の華奢な肢体を横目に見つつ、もう少し恥じらいを持ってくれないかなあ、と頭を悩ませるのだった。
◆
お嬢様の着付けを手伝い、朝食を用意。
それから、尚もぐずるお嬢様の説得をしつつ、外出の用意を済ませて。
ようやく調査に繰り出したのは結局、もう十時になろうかという昼前のことだった。
「それで、まずはどうするのかしら?」
大通りの喧騒から身を隠すように、僕の背中にぴったりと張り付いたお嬢様が上目遣いに訊ねてくる。
僕は脳裏にいくつかの候補を思い浮かべながら、
「そうですね……。普段なら、まずは瓦版屋……いえ、最近は新聞と言うのでしたっけ。そこからあたるのですが……この時間だともう、売り切れてしまっているでしょうねえ」
帝都で情報を集める手段として、最も手軽かつ確実なのが新聞だ。
ここ数年で、全国整備されつつある郵便制度。
その存在も相まって、新聞は近所の噂から遠い蝦夷や九州での事件まで、広く浅く情報の手がかりを掴むのに最適な媒体となっている。
ただし新聞は安価な娯楽、兼、情報源として非常に人気が高い。
基本的には早朝に売り出されると、九時ごろには完売してしまうのだ。
「それは残念ね。どうしてもっと早く出発しなかったの?」
「………………」
「じょ、冗談よ、冗談。そんなに怖い顔をしないで頂戴」
「……はあ。そういうわけなので、まずは堅実に現場を回ってみようかと」
僕の方針に、お嬢様はあからさまな難色を示す。
「ちょっと待って。現場を回るって……一体、何ヶ所あるのよ?」
僕は昨日、藤田さんが帰り際に置いていった資料に目を通しながら、『辻斬り』の事件現場を数え上げる。
「ええと、三、四の……全部で六件ですね」
「――帰るわ」
「お嬢様。それはどうかと」
踵を返そうとするお嬢様の肩を掴んで無理やり引き留める。
彼女の細身で抵抗できるはずもなく、すっぽりと僕の腕の中に囚われの身となったお嬢様は、それでもいやいやと首を横に振った。
「だって鉄之助、六件って貴方、どれだけ歩くつもりなの? まさかこの広い帝都中をくまなくお散歩して回ろうって言うんじゃないでしょうね」
「必要とあらば」
「やっぱり帰るわ。貴方一人で好きにして」
「お嬢様……名目上とはいえ助手ですのに、僕だけに仕事をさせるつもりですか」
「なら鉄之助も一緒に帰りましょう? 近所の菓子屋に、かすていらが入荷したと聞いたわ。帰って一緒に食べましょう?」
「それは非常に魅力的なお誘いですが……そのかすていらを買うお金の為にも、まずはきちんと働きましょう」
「いいじゃない、もう五十円は貰ったのだから。藤田には適当に『調べたけどわかりませんでした』とか伝えておけばいいわ」
「あの一刀斎に、お為ごかしは通じませんよ。それに僕自身、藤田さんの頼みを無碍にしたくはないですねえ」
なにせ藤田さんには、彼の名字がまだ斎藤だったころから、随分とお世話になった恩がある。
僕が無数の死線を経て、こうして五体満足でいられるのも、多くの仲間のお陰だ。
仲間の殆どは、今はもうこの世にいない分、せめて生き残った藤田さんにはしっかりと恩返しをしていきたいと思うのだ。
けれど、僕の態度がお嬢様にとってはいたく不満だったようで。
せっかく形のいい眉根に皺を寄せ、こんなことを言い出した。
「貴方、私と藤田、どちらが大事なの?」
「もちろんお嬢様です。しかし、お嬢様の為を思えばこそ、ここは労働に精を出すべきかと。働かざる者食うべからず、ですよ、お嬢様。それに、引きこもって食べてばかりいると……」
そこまで口にすると、お嬢様はさっと顔を青くした。
「い、嫌。それ以上はいけないわ、鉄之助」
だけどここは、心を鬼にして、あえて厳しい言葉を投げる。
「……食べてばかりいると、肥えますよ? 最近、少し二の腕に肉がついたんじゃありませんか?」
「最っっっ低!!」
涙目になったお嬢様が、ぽかぽかと僕の胸板を殴る。
なお、全然痛くない。相変わらずお嬢様は非力である。
「いけないと言ったのに! 意地悪! 冷血! 鬼畜! 貴方、自分の立場をわかっているの!?」
「僕はお嬢様の世話役です。お嬢様の健康を維持するのも役目の内ですね?」
「ぐぐぐ……」
悔しそうに唇を噛むお嬢様。
その姿は、何処か栗鼠や兎のたぐいを連想させた。
母親の凄みのある美貌とは違う、小動物じみた可愛らしさだ。
……こういう比べるような考え方は駄目だ。反省しないと。
「……ごほん。納得していただけたようでしたら、そろそろ動きましょう。このままでは新聞を買う前に、僕らが明日の新聞に載ってしまいそうですし」
「え? ――あ」
そこでお嬢様ははっと周囲を見回して、ようやく自分たちが衆目を集めていることに気づく。
ただでさえ人通りの多い帝都の大通り。
道端で白昼堂々男女が抱き合い、あるいは女が男に縋り付くようにして、大声で言い合っていては、注目されるのも当然だった。
特に帝都の人間は、祭りと火事と他人の噂話が大好きなのだし。
「……い、行きましょう、鉄之助。早く最初の現場まで案内して」
ばっ! と慌てて身体を離すお嬢様。薄っすら冷汗を掻きつつも、平静を取り繕おうとする。
僕はそんなお嬢様の手を取った。まるで恋人が連れ立つように、あるいは親が子の手を引くように。
「ちょ、ちょっと、鉄之助?」
動揺するお嬢様に、僕はちょっとした朝方の意趣返しも込めて、
「急に他人行儀になったら、それこそ不自然ですよ? それに、帝都は人が多いですから。逸れないようにしませんと」
「……本当に意地悪ね、貴方」
僕の理論武装を破れないお嬢様が、拗ねた口調で詰る。
けれど、決して振りほどこうとはしない。
むしろ僕の手を握り返してくる感触に、自然と頬が緩んだ。