壱
蝋燭の火が激しく揺らめいた。
薄暗い室内を這いずり回る影。
傍目にもひどく慌てふためいている。
「……ひっ、ひぃいッ……!」
恥も外聞もなく、必死の形相を浮かべて床を這うのは、上等な生地の和装に袖を通した一人の男だった。
彼は突き破らんばかりの勢いで襖を開き、屋敷の奥へ、奥へと向かう――否。追い立てられていく。
しかし逃避行も長くは続かない。
やがて突き当りの部屋に辿り着いた彼は、恐る恐るといった様子で背後を振り返った。
「……い、いねえ……?」
「――いいや。俺はここにいるとも」
男の耳元で、掠れ声が囁く――。
同時、白刃が煌めいた。
「ッぎぃいいいいぃぃぃいいいッ!?」
肩を割られ、のたうち回る男。
血と汗、涙、涎。
およそ人体から分泌しうる、あらゆる液体を撒き散らし絶叫する。
その様相を、まるで芋虫の死に様でも見るかの如き視線が見下ろす。
「……っ、いぃい嫌だ、嫌だあァ……ッ、死にたくねェ……!」
「……」
「頼むうぅぅウウッ、なんでもする……命は、命だけはァ……ッ」
「――ならねェ」
返答は簡潔にして冷徹だった。
命乞いをしていた男の顔に絶望が張り付き、理不尽な暴虐への憤激へと転じる。
「おッ……なんッ、なんなんだお前はッ……! なんで俺が、こん――がッ!?」
男の叫びは、ひゅひゅひゅッ――と奇怪な風切り音に遮られた。
噴き出した血飛沫が畳を汚す。
混乱と驚愕、不理解に目を見開きながらも、男は血反吐混じりに吐き捨てた。
「………………この、鬼が」
男の身体が傾ぎ、湿った音を立て転がる。
僅か数秒前まで人間であったソレは、既に物言わぬ肉塊と化していた。
「…………」
血濡れの凶刃を握りしめたまま、下手人は暫しそこに立ち尽くしていたが――不意に、弾かれたように顔を上げた。
「――ヒッ」
部屋の隅。
襖の後ろから僅かに顔を出し、こちらを覗いていたのは、まだ年端もいかぬ幼い少年だった。
「…………」
鍔鳴りが聞こえたのだろう。少年は唇を真っ青に染め、喉を鳴らす。
彼の濁った瞳は、諦念の先の末路を予見してしまっていて。
少年が短い人生の最後に見たのは、愉悦に歪む紅の三日月だった――。
◆
明治八年(1875)。
江戸――改め、<東京府>。通称、<帝都>。
市井の間を風のように駆け抜ける、とある噂があった。
――帝都の夜に潜み、影とともに犯行を繰り返す“辻斬り”。
曰く、その正体こそは、かの新撰組一番隊組長、沖田総司その人である。
無論、彼は既に病で他界している。
しかしてその魂は未だ安らぐことなく、荒御霊として現世に留まっているのだ。
なればこそ見よ、亡骸の胸に刻まれた三つの傷痕を。
これこそが、かの天才剣士による犯行であることの証左に他ならない――。
帝都の安寧が破られつつあった。
◆
「――その噂については、僕も耳に挟んでいますよ。藤田さん」
僕は付き合いでしか吸わない煙草をふかして続ける。
「下らない、不愉快な噂です」
「まったくだ」
帝都の一角に居を構える、<くろがね探偵社>の応接室。
応接用のソファーに深く腰かけた男は、紫煙を燻らせつつ、吐き捨てるように同調した。
がっしりとした長身を濃紺の制服に押し込め、髪は短く刈り込み、目つきは鋭い。
研ぎ澄まされた刃物のような雰囲気を纏っている。
彼の名前は藤田五郎。
明治政府が昨年新設した<警視庁>の巡査部長である。
そして僕とは、それ以前からよく知る間柄でもあった。
藤田さんは表情を引き締め、重々しく口を開く。
「だが、この噂……単なる与太話とも言い切れなくなってきた」
「どういうことです?」
「二日前。警邏に出ていたウチの巡査が二人、やられた」
「ウチの……ですか」
皮肉を込めた僕の横槍を、藤田さんはすました顔で受け流す。
「ああ。その死体を改めたが……偽りなく、同時に三度突かれて殺されていやがった」
「普通に突き殺した後で、死体を嬲ったのでは?」
じろり。藤田さんが睨みつけてくる。
「その区別が、俺につかないと思うのか?」
「……すみません。冗談です」
諸手を挙げ、降参の意を示す。
僕とて最初から本気で言っているわけではなかった。
生きた人間を斬った傷口と、死体に後から加えた傷口。
その違いは見る者が見ればすぐにわかる。
そして藤田五郎という男は、その分野に関しては第一人者だ。
「とはいえども、ならばこそ摩訶不思議ですね。三段突き……同時に三度のお突きを繰り出すあの業は、そう易々と真似できるようなものではありませんから。だからこそ、沖田さんの切り札だった訳ですし」
無明剣とも呼ばれた、剣豪沖田総司の必殺剣。
あれを前にして生き延びた攘夷浪士はほぼ居なかった。
藤田さんは左手の吸殻を、ぐりぐりと灰皿に押し付ける。
僕も彼に倣って火を消した。
「本来であれば、すぐにでも真相を暴き立ててやりたいところだが……この一件、俺はあまり大っぴらに動く訳にもいかなくてな」
苦々しい口調から、彼の背後にある事情がなんとなく察せられた。
「まあ、上方からしてみれば、藤田さんは極力関わらせたくないでしょうねえ。折角苦労してつけた手綱を、引き千切られかねませんし?」
「下らない話だが、そういうことだ。そこで、クロ」
藤田さんは制服の内ポケットに手を突っ込み、札束を取り出した。
分厚いそれを、ばさり、と無造作にちゃぶ台の上へと放り出す。
「五十円ある。これで噂の調査と解決を依頼したい。無論、これは前金だ……成功すれば、更に同じだけ払う用意がある」
五十円といえば、贅沢さえしなければ半年は生活できるほどの大金だ。
お世辞にも繁盛しているとは言い難い、我らが〈くろがね探偵社〉にとっては、願ってもない話なのだけれど……。
「はあ……」
ちらり、と視線を部屋の入口に走らせる。
若い男の警官が一人、ドアの横で直立不動の姿勢を取ったまま控えている。
藤田さんに付き添ってきた巡査だ。
「……いいんですか? 堂々とこんな取引をして」
これは間違いなく、職務規定違反というやつだろう。
新政府のお歴々に露見すれば、まずタダでは済まないはずだ。
ただでさえ、藤田さんは曰くつきの経歴だというのに……。
そんな僕の心配を他所に、藤田さんは太々しく唇を釣り上げた。
「気にするな。高橋は俺の直属だ」
「と、当方は何も見ていないし、聞いてもいないでありますッ」
敬礼する警官――高橋さんの表情は、一目でわかるほど緊張していた。
上官の違法行為を眼前にして、だらだらと冷や汗を流している。
ああ、僕も昔はあんな感じだったなあ……。
彼にちょっぴり同情と共感、そして懐かしさを覚え、
「……かわいそうに。藤田さん、あんまり部下をいじめちゃいけませんよ」
ついそんなことを口走ってしまう。
藤田さんも、僕の内心を見透かしたのだろう。二本目の煙草に火をつけながら、少し砕けた口調になって、
「ほざけ。そう言うお前は、いつまで一人でやっていくつもりだよ? そろそろ社員の一人でも雇ったらどうなんだ」
「部下を持つ自分の姿というのが、なかなか想像できないんですよねえ。それに一応、名目上は一人、助手もいますし」
「その助手は、姿が見えないようだが?」
室内をぐるりと見渡す藤田さんに、僕は苦笑を浮かべた。
「お嬢様曰く、『あの人が来ると部屋が煙草臭くなるから嫌』だそうで。今頃は最近出来たと噂の喫茶店で、かふぇらてでも飲んでるんじゃないですか?」
僕の台詞に、藤田は目を丸くし、やがてくつくつと小刻みに肩を揺らした。
「あのたくあん狂いの娘が、かふぇらて、ときたか。十年前なら、士道不覚悟で切腹ものだな」
「いいじゃないですか。お嬢様は、あの人とは違います」
「あの子には甘いんだな、相変わらず?」
「そうですかね。これでも自分では厳しくしているつもりなんですが」
「阿呆。本当の厳しさってのがどういうもんかは、お前が一番知ってるだろう」
「……」
僕は黙り込む。
藤田さんは、「やれやれ」と首を振り、煙草を消して立ち上がった。
「兎に角、頼んだぞ、クロ。後で使いを出す。何としても、解決して見せろ――誠の旗を、これ以上汚させるな」
依頼と宣いつつ、最後は命令口調で〆る。
そんな藤田さんに、この人も変わらないなと思った。
◆
藤田さんと高橋さんを見送って、しばし後。
入れ替わるように探偵社の扉を開けたのは、件の名目上助手だった。
「……うわ。臭い、煙草臭いわね。酷いわ」
「おや。おかえりなさい、ひかりお嬢様」
あどけなさの残る端正な顔を忌々し気に歪め、見るからにご機嫌ナナメ。
比較的生地の薄い和服の袖を、ひらひらと顔の前で扇ぎながら、
「これだから、あの煙草中毒者は嫌いなのよ。お母様の旧い同僚だかなんだか知らないけれど、社内で吸うのは止めてほしいものね」
この場にいない藤田さんに、ぶつくさと陰口を言うお嬢様。
よくよく注視して見ると、特徴的な長く赤い髪が頭頂部を中心にやや乱れている。
風に煽られたというよりは、まるで誰かに頭を無遠慮に撫でられたような……。
「……ははあ。さては、鉢ち合わせましたか」
「ええ。ちょうど喫茶店の出口でね」
……藤田さん、待ち伏せたんだな……。
あの人のやりそうなことだ。
特に昔の藤田さんは、相方と組んでその手の悪戯をするのが好きだった。
「藤田ときたら、出合い頭にいきなりわたしの顔を見て噴き出すわ、ぐしゃぐしゃ髪を掻き回してくるわ、もう散々だったわ。子供相手ならいざ知らず、わたしはもう十八よ? 乙女の髪を、一体何だと思っているのかしら」
尚も忌々し気に言い募るお嬢様を、「まあまあ」と宥めにかかる。
「堪忍してください、お嬢様。藤田さんにとって、お嬢様は、なんというか……子供、とまではいかずとも、孫のようなものなのです」
「血は一滴も繋がっていないはずよね?」
「精神的な意味で、です」
僕の言葉を「なにそれ。意味が分からないわ」とばっさり切り捨てたお嬢様は、しかしふととある一点に目を止めたその瞬間、カチンと凍り付いた。
彼女の視線が向かう先には、ちゃぶ台に置かれた五十円の札束。
それをじっと凝視するお嬢様の体が、次第にふるふると震えだす。
「――ちょ、ちょっと、鉄之助。そ、そ、それ、そのお金」
「藤田さんから依頼を受けまして。これはその前金です」
「……嗚呼、なんてこと。前々から藤田のことは、出来る男だと思っていたのよ。流石、お上から警視庁へ直々に招聘されただけのことはあるわね。いやっほーい!」
鮮やかに手の平を返したお嬢様は、札束を掲げて燥ぎ回る。
その姿はまるで年端もいかない童女のようで、これでは藤田さんがお嬢様を孫のように扱うのも無理ないなぁなどと思ってしまう。
ともあれ、お嬢様の世話役としては、そんな年甲斐のない仕草を見過ごすわけにもいかない。
僕は独楽のようにくるくる回転するお嬢様から、素早く札束を取り上げた。
「ちょっと、なにするのよっ」
「はしたないですよ、お嬢様。着物の裾が乱れています」
「あら、気になるのかしら? 普段は唐変木を気取っている癖に」
悪戯っぽい表情を浮かべ、裾をわざとらしく持ち上げるお嬢様。
白く細い脚をちらつかせての挑発に、なんだかもう、頭が痛くなってきた。
「お嬢様。僕がどうかではなく、世間一般から見たときの話をしています」
「だったら問題ないじゃない。ここにはわたしと鉄之助、あなたしか居ないわ?」
「……窓が開いています。外から覗いている人がいるかも知れません」
「なら閉めて。今すぐ閉めて」
「煙草の臭いを少しでも和らげようと換気している最中なのですが」
「ぐぐぐ。ああ言えばこう言うわね……」
僕のよく回る口は、お嬢様との日々の中で培われたものなのだけれど。
武士の情けでそれは言わないでおいた。
お嬢様は不満げにぷっくりと頬を膨らませ、反抗の意を全身で示すように「やあっ」とソファーに飛び込んだ。
「皺になりますよ」という僕の注意にも「どうせ安物だもの、構いやしないわ」と耳を貸さず、まるで子猫のように体を丸めて横になる。
「それで、藤田からの依頼って、具体的な内容は?」
「……ちょっとした、噂の情報収集です。大したことはありませんよ」
言葉を選びながら返す。
余計なことを言って、いらぬ心配を掛けたくはなかった。
「……そう」
けれど母親に似て聡明なお嬢様は、それだけで大まかな依頼の内容と、僕のところへ回ってきた経緯までもを悟ってしまったのだろう。
大きな鳶色の瞳を揺らし、上目遣いに僕の表情を窺ってきた。
「……鉄之助。あなたは、大丈夫なの?」
「ええ。何も問題ありません」
……今のところは。
意図的に呑み込んだその一言が、胃の底にこびりつくようだった。