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 ──ザザーッ、ザザーッ……


 寄せては返す、波の音が響いている。

 痛くも苦しくもなく、ただゆらゆらと水の上に浮かんでいるような気分。


 ──ザザーッ、ザザーッ…………


 閉じた瞼の裏には光が溢れている。

 暗く閉ざされた場所ではない。


 ──ザザーッ、ザザーッ………………


 ここはどこ?

 夢を見ているの?


 脳裏に浮かぶのはガラッシア領の別荘地、サダリ湖の静かな湖畔に広がる白い砂浜のはずで、それ以外を知らないはずなのに。

 暗い色の堤防が延々と続いて、大きな消波ブロックに砕かれた波しぶきが白く泡立って散り、どこまでも遠く、丸みを帯びた水平線が青く輝いている。



 これは、故郷の海────



 ルクレツィアが見たこともないはずの海の景色、波の音が、これは忘れていたはずの前世の記憶の一部だと繰り返し囁いてくる。


 灰色の会社員の記憶しか取り戻せていなかったルクレツィアの、その前世の、「わたし」の記憶。



 ────母親の姿がぼんやりと浮かんでくる。



 海辺の古びた家で、いつもとても疲れた顔をしていたような気がするが、こちらを拒絶する背中のほうをよく覚えている。

 父親は、ほとんど家に寄りつかない。

 兄妹はなく、「わたし」の遊び相手の友だちは、「わたし」以外の誰にも見えない。


 幼い頃から見えざるものを見ている「わたし」に、母親はなんとか普通の子供になるようあれこれ心を砕いていたけれど、それも、あるヒトの言葉によって手を放されてしまった。

 そのヒトは、高名な占い師だということだった。

 見えないものばかりを見ている「わたし」をなんとか治そうと、母親の最後の頼みの綱だった。

 けれどその占い師は、「わたし」を視てこう言ったのだ。


「この子はコチラの子じゃないね」


 どういうことかと詰め寄った母親に、異なる世界の魂が間違って紛れ込んでしまったのだと、だからこの子はコチラのものではないものを見るし、死ぬまでにこちらに馴染めたらいいほうだね、と告げたのだ。

 占い師のその言葉に、母親の心は折れた。

 間違った子が、自分の子供に取って代わって生まれてきてしまったのだと、そう理解した。


「お前は私の子供じゃないんだ」


 そう呪詛のように言い聞かされて育った「わたし」は、結局いつまでも「コチラ」に馴染めずに、見えないものを見る「わたし」には友だちもできず、腫れ物のように扱われ続け、高校を卒業すると同時に家を、故郷の町を出て行った。


 ────ここではないどこか。


 本当の自分がいるはずの世界がどこかにあるのだと、ぼんやりと、それだけを追い求めて。



********



(走馬灯…………)


 何回かに分け、はじめに前世の記憶を思い出した時と同じように、夢の中でもう一度その人生を追体験いたしました。

 でも五歳の時と違って、死ぬ前に見るこれまでの人生のように、強く印象に残っている出来事をダイジェストで振り返る内容でした。

 倒れてから何度目か目が覚めた時、これは走馬灯なのではないかと思い至りました。

 もう起き上がるだけの気力はなくて、お母さまの癒しの手やお医者様のお薬でどうにか抑えてはおりましたが、発作のような痛みは絶えずわたくしを襲ってきます。

 その度にわたくしを励ますお父さまやお母さま、ドンナたちの表情を見ていれば、わたくしはもう助からないのだと悟ったのです。


(ここではないどこか……)


 前世の世界では明らかな異物として人生を過ごし、馴染めないままこちらに戻ってきた、ということなのでしょう。


(あちらでの名前も結局思い出せないのは、仮の名前だったからでしょうか……。どうして死んだのか、そのあたりも思い出せません……)


 自分のはあるべきはずの場所を求めるように、異世界ものの小説やゲームばかりを貪るように繰り返していたのですから、その記憶ばかりが生まれ変わって思い出されたのかもしれません。


 走馬灯は、前世の世界での「わたし」の在り方を思い出させてくれましたが、思い出せば思い出すほど、胸の奥の異物感が顕著になって、同時に痛みとなってわたくしの正気を奪おうとします。


(乙女ゲームとか、本当は関係なかったのかもしれませんわね……。

 わたくしは断罪されて処刑される悪役令嬢でもなんでもなくて、ただ死にゆく運命だっただけ……ただ、それだけ……)


 胸の奥にあるという魔法を使うための器官は、前世の世界にはないものでした。

 魔法とは、その器官を通して魂の力で行使するもの。

 それが、前世の異世界で過ごした魂が混じってしまったことで、こちらの体と拒絶し合っているような、そんな感覚がわたくしを苛んでおりました。


 今は前世の夢を繰り返し見ておりますけれど、ルクレツィアの人生を見始めるようになったら、本当に死期が近いのかもしれません。

 まだ、前世の記憶だけですけれど、走馬灯が、ルクレツィアの人生を映し出したら……。


 たまに目覚めても、痛みと、死の気配に怯える心にわたくしは鬱いでいく一方で、もう目を覚ましたくないとすら思うようになりました。

 痛みも何もない、光の中で、波に揺られながら何も考えずにいられたなら、どれほど幸せなことでしょう。

 お父さまやお母さまの辛そうな顔を見なくてもすみますもの……。


「…………ごめん、なさい────」


 必死にわたくしを繋ぎ止めようとしているお父さまとお母さまにそれだけを絞り出して伝えました。

 たくさん愛してもらったのに、幸せであれと願われたのに、先に逝かなければならないのは、わたくしも辛い……。

 けれど耐えるだけの力がもう残っていなくて……。


「ティア!

 わかるかい?お兄さまだよ?」


 目覚めてもまたすぐに夢の中に戻りそうなわたくしの手を握ってくださっているのが、お母さまでもお父さまでもなく、お兄さまになっていたことに驚いて再び瞼を押し上げました。


「おに、……ま?

 おか……り、な……い」


 わたくしが倒れる前に旅立っていたお兄さまが、青い瞳を哀しげに歪ませてわたくしの顔を覗き込んでいました。


(よかった……お兄さまにも、会えましたわ……)


 もしかしたら、間に合わないかも、と。

 そんなふうに思ってもいました。

 倒れてからどれくらいの時間が経っているかもわかりませんが、わたくしの時間がいつまで続くのか、その終わりのほうにばかり気持ちが向かってしまいます。


(おにいさまが帰ったのなら、ファウスト、も……)


 どうにか意識を保っていたかったのに、わたくしの体からはまた力が抜けていきます。

 お母さまの治癒の力とは違い、お医者様のお薬は痛みを抑える代わりに強制的に眠らされてしまうのです。


(ふぁうすとは?)


 そう尋ねるより先に、わたくしの意識は沈んでいき、またキラキラと光の跳ねる海の景色と、波の音に引きずり込まれていきます。


「ティア?ティア……っ」


 お兄さまに握っていただいて手が、力の抜けるまま、すっと滑り落ちていくのを、意識の片隅に感じながら────




*****




 アンジェロは、力の抜けたルクレツィアの手を再度握りしめ、それから母──エレオノーラとその場所を代わった。


 つい先ほど、ビランチャ領から帰ってきたばかりで、ほんの少しだけルクレツィアの意識が戻ったのは幸運だった。

 ほとんど意識のない状態で寝込んだままだという妹は、ビランチャ領に旅立つ前より一回りも小さく、やせ細って、まるで生気が感じられない……。

 その姿を目の当たりにして、鋭い慟哭が込み上げてくるのをアンジェロはどうにか堪えるしかなかった。

 それでもルクレツィアは、なんとか口元を微笑ませて、自分に「おかえり」と言ってくれた。

 それだけで、堪えていたものが決壊しそうになったが、そんな情けない姿を見せるまでもなく、ルクレツィアは静かに瞼を下ろしてしまった。


 込み上げくるものを辛うじて飲み込むと、アンジェロはルクレツィアの寝台の傍に持ち込んだ椅子に腰掛けて黙ったままの父──ラファエロに向き直った。


「ファウストは、まだ見つからないのですか?」


 リチェルカーレから帰る道すがら、何度も問いかけたことをもう一度確認するために。


 


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