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「ねえ、おにいさま」
マナーや王国史など、必要なお勉強の時間の合間、兄妹三人でいつもくつろいでいる子どもたち用の部屋で、アンジェロが一人掛けのソファで本を読んでいる膝にとりつきながら、わたくしは「今世では素敵なオトモダチを作るのですわ大作戦」を決行しておりました。
後ろには、たくさんのクッションに埋もれて眠そうに座っているファウストがおります。
「どうしたんだい、ティア」
本から目を離したアンジェロが、優しく応えてくれました。
「ベアトリーチェおねえさまは、次はいつ我が家にお見えになりますの?明日?明日とか?明日ですわよね?」
ベアトリーチェ様は、アンジェロの婚約者となったアクアーリオ侯爵家のご令嬢です。
婚約に際して、顔合わせのため我が家に招いてお茶会を開いた折にはじめてお会いしましたが、その時は当たり前ですが兄ばかりがお相手をして、わたくしはそれほどお話ができませんでした。
侯爵家の方々がお帰りなられたあと、わたくしはそのことについてアンジェロに散々拗ねて見せておりました。
「ティアはもう7歳になったのに、他のご令嬢より少し幼いようだね」
困ったように笑いながら本を閉じると、アンジェロはわたくしの髪を撫ぜ、耳にかけてくださいました。
それはわたくしが精一杯幼く見えるように振る舞っているせいですが、たしかにベアトリーチェ様はわたくしとひとつしか歳が違いませんのに、婚約者の家に招かれたこともあってか、かなり大人びて見えました。
なるほど、この世界の7歳はもう少しませているのですわね。わかりましたわ。情報をアップデートいたします!
「ティアもファウストのおねえさまですもの、もう大人ですわっ」
もちろんそんなにすぐには改めません。
こういうのは、違和感をもたれないように、徐々にです。
「です、ワ」
胸を張って言ったわたくしの後ろで、ファウストも語尾をまねてたどたどしく同調してくれました。
単に、「ファウストの姉である」ということを力強く訴えていたことに対する健気な追従のようですけれど。
「わたくし、だよ」
自分はもう大人だと言い張る幼い妹の一人称を嗜めながら、アンジェロはファウストにもおいでおいでと手招きします。
ゆっくりと頷いて立ち上がったファウストは、わたくしとは反対側のアンジェロのひざに取りつきました。
それに柔らかく笑みを深めたアンジェロは、ファウストの頭も優しく撫でて、言葉を選ぶようにわたくしに言い聞かせました。
「婚約者になったといっても、そう簡単に屋敷を行き来できるわけではないのはわかるだろう?
私たちがもう少し大きくなって、学園に通う頃になれば毎日でも顔を合わせることになるけれど、今はまだ、ベアトリーチェ嬢とは手紙でやりとりをすることがほとんどなんだ。
だからお手紙にティアとファウストが会いたがっていることを書いて、また我が家に遊びに来てくださいとお願いしてみようか」
結局は弟妹に甘いアンジェロは、そう言うとすぐに手紙を書く準備を侍女に言いつけました。
両親にも、今度は改まった席ではなく、もっと私的なお茶会を開いてくれるようにお願いしてくれるはずです。
さすがアンジェロお兄様。
その行動力が素敵です。
わたくし自身がベアトリーチェ様とお友だちになりたいという願望が強いですが、アンジェロが婚約者と過ごす時間も増えれば、将来クソヤローになる可能性も低くなるはずということも考えておりますのよ。
我ながら完璧な対策。
わたくしたちには言いませんが、アンジェロなら卒なく、弟妹をダシにするだけでなく、自分も会ってもっと話がしてみたいとか、婚約者の気を惹くような文句をお手紙に書くことでしょう。
なんて罪作り。
もちろん婚約したばかりのアンジェロは素直にそう感じているかもしれませんが、「こう書いておくものだ」という模範回答の考えも、彼の頭の中にはあるように思います。
ですから、二人で過ごす時間を増やし、ベアトリーチェ様にはできるだけ兄を理解してもらい、将来アンジェロがヒロインに転ばないように、しっかりと捕まえておいてほしいのです。
はじめてお会いしたベアトリーチェ様は、ブルネットの濃い色の髪にアクアマリンの瞳が印象的で、お母さまのアクアーリオ侯爵夫人にとてもよく似ていて、しっとりとした美人に成長しそうでした。
気の強い悪役令嬢というより、芯を持った好敵手のようなキャラクターなのかもしれません。
ヒロインに嫉妬して嫌がらせをするのではなく、自分を磨き、見つめ直し、最後は結局アンジェロの幸せのために潔く身を引くような。
(なんとしてでもお友だちになりたいですわ!)
後半は妄想ですが、わたくしの意欲は俄然高まりました。
「わたくし、お父さまにお願いしてまいりますわ!
ベアトリーチェおねえさまに早くお会いしたいわってお願いしたら、明日にも遊びにきてくださるかもしれないですものっ」
無邪気さ全開で跳びはねるように立ち上がり、ワガママを貫こうとするわたくしに、アンジェロは思わずといったようにクスクスと笑い出しました。
「本当にティアはベアトリーチェ嬢が気に入ったんだね。
わかったよ、明日は無理かもしれないけれど、できるだけたくさん遊びに来てもらえるように、私も頑張ってみよう」
家同士で決められた婚約者としてではなく、心を通わせる相手として兄がベアトリーチェ様を見てくれたら、こんなに素敵なことはないと、わたくしは満面の笑顔で喜びを表し、その言葉を後押ししました。
「父上はまだお仕事から帰っていらっしゃらないから、まずは母上に話を通しておこう」
やはりお兄さまの行動力は素敵。
お手紙といっしょにお茶会の招待状を添えられたら、きっとすぐにでもベアトリーチェ様は我が家にいらっしゃるはず。
早速三人で根回しをしにいくと、エレオノーラお母さまはちょうどお出かけの準備をしているところでした。
「お母さま、すてきなドレスねっ」
朝焼けのグラデーションをそのまま織り上げたような、光によって濃い空色から橙色へと複雑に表情を変えるドレスは、首からデコルテ、手の甲までを繊細な銀糸のレースが覆い、金色の髪が楚々と結われて、編み残した一房だけが片側に流されていると、ステラフィッサの至宝と言われる母の清らかな美しさが殊更に際立たつようでした。
天使というより、朝日とともに生まれた女神のよう。
「ティアちゃん、それに二人も一緒ね。どうかして?」
母の身支度の場に立ち入ることを遠慮したアンジェロと、それに倣ったファウストは入り口で立ち止まっていました。
ファウストは目をパチクリとさせて、お母さまを見上げて呆けているようでした。
わたくしだけが同性の娘という気安さで侍女の間をすり抜けて母の側に寄ると、お母さまはアンジェロとそっくりな仕草で、入り口の二人を手招きしました。
「母上、お出掛け前の忙しい折りに申し訳ありません」
アンジェロが恐縮した様子で歩み寄ると、お母さまはにっこりと、鮮やかな微笑みを浮かべました。
朝日が一気に地平線から顔を出したように、それだけで辺りを眩く照らすような。
「かまわなくてよ。
そのお顔は、何かお願いごとがあるのでしょう?」
身を屈めてアンジェロの頬に手を添えるお母さまは、すべてお見通しのような優しく温かい眼差しです。
何度見ても、慣れないほどの美しさ。
アンジェロもわたくしもその遺伝子を明確に受け継いでいますのに、この泉が湧き出るような清冽な佇まいを身につけるには道のりは遠く、我が母ながら圧倒されてしまいます。
さらに養子のファウストにとってはとても近寄り難いようで、わたくしのドレスの影からおそるおそる覗くように見上げるだけで精一杯のようです。
そんな様子の義息子にもしっかりと目線を向けて微笑みかけるお母さまからは慈愛が溢れ過ぎていて、何をお願いしに来たのか一瞬忘れてしまいそうでした。
「母上は、今日はどちらへ?」
アンジェロがようやく訊ねると、
「ビランチャ侯爵夫人にお呼ばれしているのよ。私の好きな東国の紅茶を取り寄せてくださったのですって」
お母さまが嬉しそうに笑うと可憐な少女のようで、これは多少無理をしてでもお母さまの好きなものを買いあさってしまう方が出てきても不思議ではありません。
ビランチャ侯爵はステラフィッサ国の宰相職を勤めている方なので、夫人が遠く離れた東国の品物を取り寄せることなどはきっと朝飯前でしょうけど。
(宰相……というとだいたいその子息が攻略対象のメガネ枠ですわね)
「シルヴィオのところですか。エンディミオン殿下のところで知己を得ております」
ほら、アンジェロが親しげに名前を出しましたわ。
「ええ、あなたのひとつ下のご子息ですわね。
とても利発で、きっと気も合うでしょう」
「お母さま、アクアーリオ侯爵夫人はいらっしゃいませんの?」
そのメガネの話はここで終わりです!
続きそうな宰相子息の話題を遮り、わたくしは強制的に話の矛先をもとに戻しました。
目的はベアトリーチェ様、攻略対象がやはりエンディミオン殿下の周囲に集まっていることだけわかれば充分ですわ。
「オルネッラ?ええ、もちろんいらっしゃると思うわ。
アリアンナ様の集める外つ国のお茶は、私もオルネッラもずっとファンですもの」
アリアンナ・ビランチャ侯爵夫人も、オルネッラ・アクアーリオ侯爵夫人も、お母さまとは学園時代からのお知り合いなのだそう。
アリアンナ様は二つ先輩で、オルネッラ様とお母さまが同じ学年で親友同士。嫁ぐ前のもともとのお家柄も、容姿もともに目立つ三人で、何かと気の強いアリアンナ様に、しっかり者のオルネッラ様が、これでもかという美貌を持ちながらおっとりとしているお母さまを守っていらしたとか。
その縁で今回のアンジェロの婚約も決まったようなものだと聞いておりますから、わたくしの嫁ぎ先にビランチャ侯爵家というのも候補にあがりそうな話です。
王子の婚約者になるよりはマシなような、結局は攻略対象なのでやっぱり避けたいような、難しい選択なので、ここはやはり触らぬ神に祟りなし、ですわ。
「お兄さまっ」
お母さまの答えに、わたくしは期待に満ちた目をアンジェロに向けました。
「母上、できるだけ早く、ベアトリーチェ嬢とまたお話する機会をいただきたいのですが……」
「あらっ、まあ、そう?
うふふ、それはオルネッラも喜ぶと思うわ」
お母さまはお兄さまの恋バナを聞いたようなはしゃぎようで、華やいだ声をあげました。
「それでは、今度一緒にアクアーリオ家を訪ねてみますか?」
お母さまお一人でなら頻繁にオルネッラ様のところへ行き来しておりますから、気安くそんなことも提案できたのでしょう。
「いえ、我が家に。
ティアもファウストも、ベアトリーチェ嬢と仲良くしたいようで」
そう、それが重要です。
お兄さまもお忘れでなくてよかったわ。
わたくしが強く頷くと、ファウストもコクリコクリと一生懸命頷いて援護してくれました。
「まあ、ティアちゃんもファウストちゃんもベアトリーチェ様を気に入りましたの。
ティアちゃんは年の近いご令嬢とお会いしたのがはじめてでしたもの、そうね、きっとそうなりますわね」
いくら懇意にしている同士といえど、年少の子供はあまり外には出されないのがこの国の貴族の慣例です。
それこそ王族からの召喚、婚約者同士の訪問、でなければ一族の行事の折だけ。
ガラッシア公爵家はほとんど招く側になりますし、お母さまの開くお茶会には、間もなく社交デビューというプレ参加のご令嬢やご子息がいらっしゃる時はありますが、前世でいう中学生ほどの年齢で、これから入学する王立の貴族学園に入学するために、同じ年頃の方たちでお友だちを作るので精いっぱいという感じです。
ですので、わたくしの周りにいる子供はお兄さまとファウストだけということになり、ベアトリーチェ様とお友だちになりたいというのは、わたくしにとってかなり切実なことなのです。
わたくしの勢いに、お母さまは納得したようにひとつ頷きました。
「わかりましたわ。
オルネッラに、ベアトリーチェ様を近々またお招きしたいこと、伝えておきますわね」
そう言って、侍女に羽飾りの付いた扇を渡されると、お母さまはいよいよお出掛けになりました。
これで根回しは完璧。
あとは、お父さまですわ!