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「姉様に触るな」
さらに怒気を含めてファウストはラガロ様を制すると、そのまま階段を駆け降りてわたくしの側までやって来ました。
「彼に何かされたのですか?」
涙を溢し続けるわたくしの頬に躊躇なく触れ、心配そうな灰紫の瞳がわたくしの顔を覗き込みます。
「っ」
口を開くと本格的に泣いてしまいそうで何も言えないわたくしに、ファウストは傍らに場所を譲ったイザイアに目を向けました。
「イザイア」
「まだ何も」
わたくしの意思を守って、「何もなかった」ことは継続してくれましたが、その言い方ですと、これから何かされそうだったと聞こえてしまいますわ。
ラガロ様に殺意の籠った視線を投げかけるファウストに、わたくしは慌てて首を振りました。
「ちが、うのっ」
ああ、やっぱり口を開いてはいけませんでしたわ。
涙に濡れた声は、哀れなほど掠れて、ファウストが痛ましげにわたくしの目元を親指で拭います。
ここ一年で、ファウストはわたくしの背を越しました。
キレイに切り揃えたシルバーブロンドは胸元まで伸びて、窓から忍び込む月光に共鳴するように煌めいて見えます。
涙に滲んだ世界でも、ホッとするその輝きにわたくしは心を少し落ち着けて、ファウストの手をとりました。
「へやに、」
「はい、戻りましょう」
みなまで言わなくても、ファウストはわかってくれます。
これ以上、この場に留まりたくはありません。
いつお父さまたちのお酒が切れて、こちらへ来ないとも限らないのです。
こんなふうに泣いている姿を見られたくはありませんもの。
何か言いたげだったラガロ様を完全に遮断し、ファウストはわたくしを守るように連れ去りました。
*
立ち去る二人を見届けて、イザイアは詰めていた息を吐き出した。
ルクレツィアの泣き顔に衝撃を受けて何も出来なかったなど、自分でも信じられない失態だった。
「おい」
隣で間抜けヅラをしていたヤツがいたからまだマシに見えていただけで、大差ない醜態だと自分で自分が嫌になる。
「おいっ」
その間抜けに話しかけられて、応える義理はあるだろうか?
いや、ないな。
ファウストはただでさえ人より聡いのが、姉のこととなればさらにその能力を跳ね上がらせるから、ラガロが側にいて、自分が姿を現している状況となれば、「何もない」わけがないことはお見通しだろう。
姉の言葉に従って「何もない」ように彼はするだろうが、言葉の細部まで伝えることはせずとも、「何かは起こらなかった」程度に公爵にあらましを伝えるのはイザイアの仕事だ。
そうなれば、この伯爵子息が公爵家にとってどのような存在になるか、火を見るより明らかだった。
相手にする価値もないと思い、イザイアはそのまま暗闇に姿を消そうと思った。
気配を絶って、イザイア独自の魔力を少し操作すれば、誰の目にも触れない影になることができた、できるはずだった。
───金の眼が、邪魔をしなければ。
まだ使いこなせてもいないが、あの眼は使いようによっては他人の魔力を相殺することもできる。
間抜けはそんなことも知らずに無意識でそれをしているのだから、資質のまったくないヤツなのに、とんだ宝の持ち腐れだなとイザイアは呆れるしかない。
「ラガロの星」
面倒だが、もう少し心を折ってやろう。
イザイアは、鋼の瞳で、所在ないような金の眼を静かに見つめ返した。
「満足か?」
「……っ」
突き放すような冷たい刃の瞳に、ラガロは批難される理由をすでに思い知っていた。
「お嬢様は、私が仕えてからこれまで、あんな風に泣かれたことはない。
常に幸せであるようにと、愛されて、大事にされて、そうして過ごされてきたんだ」
「そんなのっ…」
「そう、恵まれているんだろうな、そうして暮らしていられる、ということは。
だが、その何がいけない?」
開き直りとも取れるイザイアの言葉だが、「何がいけない」と問われれば、ラガロは返す言葉を見つけられなかった。
「貴様はただお嬢様を羨み、妬み、そのつまらない恨みつらみを関係のないお嬢様にぶつけただけだ。
それで、期待どおりに気丈に振る舞っていたお嬢様を泣かせることができたんだから、さぞ満足だろうな」
低くなった声には、蔑みも混じった。
貴族だろうがそうではなかろうが、それぞれ歩んできた人生が違うのは誰のせいでもない。
生まれてきた環境をどうにかするには、自分の意志と外側からの少しの援助が必要だが、「ラガロの星」こそ人から羨まれる才だろうに、ないものばかりを見て自分を可哀そうがっている愚かな男だ。
そんな男に、果たしてレオナルド・リオーネの後継が務まるのか、イザイアは本気で不思議でならない。
「自分ではなぜダメなのか」
「っ」
イザイアはさらに、ラガロの奥底の心理に刃を突き立てた。
イザイアは知っている。
王城で、ルクレツィアを取り巻く少年たちがどんな目で少女を見つめているか。
少女の影になり守っているイザイアには、手にとるようにわかった。
真面目実直の皮を被り、さらにその下では苛立ちに隠しながら、ラガロの金の眼もそれと変わらない色をしてはいなかったか。
「リオーネ伯爵に取って代わるつもりだったなら、あまりに滑稽なやり方だったな。
お嬢様が貴様のものになることはないだろう」
ついに光を消した金の眼に、イザイアはようやく溜飲を下げた。
星の力はもうイザイアの邪魔をしない。
言葉もないラガロを顧みることなく、イザイアはするりと闇に消えた。
ルクレツィアの影となりそのすべてを守るためにあるこの力が、愚かだった男唯一救いあげてくれる力だったことを、神に感謝しながら。
───その後、置いて行かれたラガロがどんな顔をしていたのか、誰も知ることはない。
クシャリと前髪をかき乱し、自嘲の笑いを浮かべた「ラガロの星」が、泣きそうに顔を歪めても、誰も見る者はないのだ。
* *
「姉様、平気ですか?」
客室に連れ帰り、わたくしを寝台に座らせたファウストは、しゃがみ込んでこちらの顔を覗き込んできます。
首を縦に振っても、まだ涙はポタポタと落ちてきますから、とても平気には見えませんわね。
「そんなに泣いては、目が溶けてしまいます」
和ませるための言葉ではなく、本当にそうなってしまわないか、ファウストは真剣に心配してくれているようです。
はじめはハンカチで涙を拭ってくれていましたけれど、すぐにダメになってしまいましたから、今は冷たいタオルを擦らないように優しく頬に当てて、心が落ち着くように片手はわたくしの両手を握ってくれています。
「……ファウ、スト」
ダメですわね。
やっぱり息を吸うと、しゃくり上げるような呼吸音がして、わたくしの涙はさらに溢れてしまいます。
「止め方がっ、わからないの……っ」
どうしてこんなに泣いているのか、自分でもわかりません。
ずうっと、我慢をし過ぎたのでしょうか。
五年分、枯れるまで、この涙は尽きないのかもと不安になって、ファウストの手を握り返す力が強くなってしまいました。
「明日、は、レオナ…さま、の結婚式、なのに、泣いて腫れたっ、お顔で、は」
「母上に、治癒の魔法を少しかけていただけば大丈夫です」
「おとう、さまにはっ」
「はい、知られないように」
優しく、根気強く、ファウストはわたくしの零す言葉を拾い上げて、ひとつひとつ丁寧に、安心させるように返してくれます。
「ファ、ウスト」
「はい」
呼べば必ず答えてくれる、優しい義弟に、今は甘えるしかありません。
「涙が、止まるまで、いてく、れる?」
「はい」
「ずっと?」
「はい」
「朝になっても?」
「はい」
その優しさにつかえがとれて、まだこんなに体に水分があったのかというくらい、涙は止めどなく溢れてきました。
「おそばにいます」
ウソのない真心の言葉が、少しずつわたくしを癒やしてくれます。
「ありが、とう」
そう言って頭を下げれば、慣れない手つきではありますが、ファウストがわたくしの頭を撫でてくれて、まるでいつもとは逆の立場ですわね。
その感触が気持ちよくて、すりと、自らも頭を擦り寄せましたが、驚いたのか、ファウストは手を離してしまいました。
「…………」
わたくしはなんだかそれが大層不満で。
「足りま、せんわ」
拗ねるようにファウストを見上げれば、困ったように眉尻を下げているのがとても可愛らしい。
「ファウスト」
「ハイ」
「わたくし、泣いているの」
「ハイ」
「なぐさめっ、なくては、いけません…わね」
「……ハイ」
「こうい、ときは、ハグ、するものよ」
「はぐ」
困らせたいわけでもないのですけれど、好きに甘えてワガママを言えるのは、アンジェロかファウストだけですもの。
横暴な姉らしく、ファウストにハグを要求すると、ファウストの眉毛はこれ以上ないくらい下がってしまいました。
「して、くれないの?」
泣き顔のまま首を傾げれば、ファウストが折れるのは知っています。
年頃の男の子ですもの、姉とハグなんてきっと恥ずかしいでしょうけれど、わたくしは今とても弱っていて可哀想なのだから、いいのです。
「しま、す」
おずおずと、ファウストから手を伸ばしてくれて、そのまだ薄い肩にわたくしの頭を抱えてくれました。
部屋着のシャツに、涙の染みがついてしまいますが、構わないでしょうか。
(そういえば、ファウストはなぜあそこに来たのかしら)
そんなことをぼんやり思いますが、人肌より少し熱いくらいのファウストの体温が心地よくて、わたくしはぎゅうと、その背にしがみつきました。
涙はしとどに落ちてきますが、一人で泣く夜よりはずっと心強くて、どこかほっとしています。
「ねえさま」
ファウストがわたくしを優しく呼ぶ声に、心が少しずつ凪いでいきます。
応えるようにすりと頬を擦れつければ、ファウストは仕方がないというように、また頭を撫ではじめてくれました。
トントンと、もう片手であやすように背で拍子を取られるうち、涙が落ち着いてくると同時に、わたくしはすっかり泣き疲れて眠りに落ちていきました────
*
「ねえさま……?」
すうと、落ち着いた呼吸に切り替わった頃、そっと声をかけても、姉からの返事はなかった。
顔を覗き込めば、赤い目元が痛々しいが、穏やかな顔で眠っている。
(よかった……)
姉がリオーネ伯爵に恋に落ちた瞬間から今日まで、ずっと側で見守っていた。
姉にここまで思われて応えないあの男はどうかしているんじゃないかと思っていたが、姉がそれでかまわないと言うなら、それでいいのだとも思っていたのに。
腫れた頬に触れると、熱くて可哀そうだ。
冷やすために指先に少しだけ魔力を込めて、冷気をまとわせる。
起こさないように、そっと。
もう少ししたら、寝台に横たわらせて、それから。
「………さま」
姉が譫言のように何かを呟いた。
起こしてしまったかと思ったが、そうではなかった。
ぎゅうと、自分に縋りつくように力のこもった姉は、
「……レオナルドさま」
この五年、想い続けた男の名前を呼んでいるのだ。
「……っ」
そう気が付いたとき、ファウストの心には、これまで感じたことのない、言いようのない感情が急激に湧き上がっていた。
心のあちこちを刺すように暴れ回るそれが、「姉」に持ちうる感情ではないことを、ファウストは知っているのか────




