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浅い眠りが訪れた頃、朝は何事もなくやって来た。
カーテンの向こうの空は夜の濃紺から段々と色を薄くし、山々の間から湧き立つ朝靄がすべての悪意を隠すようにピエタの町を覆いはじめた。
朝の早いうちは視界が霞むほどだったが、東の山頂から太陽の黄金色が射し込むと、町を覆っていた靄はゆっくりと消えていき、夏らしい鮮やかな緑が薫るような風景が戻ってきた。
その頃になっても状態が回復せず、眠り続けるマテオをそのまま邸の中でルチアーノとメロに任せることにして、エンディミオンたちは緑の中を再び町へ下っていった。
相変わらず虫の声はせず、昨晩が嘘のように風はぴたりと止んで、馬の呼吸と蹄の音だけが、この世のすべてのようだった。
坂を下りきり、白日に照らされた参道は今度こそ物音ひとつせず、エンディミオンたちは聖堂の正面にたどり着いた────
*
真上で輝く太陽が、聖堂のステンドグラスをじりじりと灼いていた。うるさいほど反射した光を振り撒いて、キラキラと音が聞こえそうなほど、あたりはしんと静まり返っていた。
誰が出迎えるわけでもないのに、普段観光客の出入りする門扉は開け放たれていて、聖堂はエンディミオンたちをすんなりと招き入れようとしている。
「聖堂を覆うような幻術は感じられないな」
警戒を怠らず、ラガロが様子をうかがったが、昨日あれほど感じていた生ぬるい気持ち悪さは今はない。
「ご自由にお入りくださいってワケ?」
扉の奥を覗き込む真似をしながら、ぬかりなくフェリックスも探知を行う。
「魔物も鳥も、影も形もないないねー。
昨日の地下みたいな、遮蔽の魔法のかかった扉とか部屋でもないかぎり、ダぁレもいないみたい」
隠すものなど何もないのだと、あけすけなまでにありのままで門戸を開いているのがかえってうさんくさいが、そうは思ってもここから踏み入らなければ何もはじまらないので、より用心をして中に入るしかなさそうだ。
「何もない、ということはないからね。気をつけて進もう」
わかりやすいほどの見せかけの安全に注意を払いながら、エンディミオンが先へ促す。
頷いたラガロを先頭に、ゆっくりと聖堂へと踏み込んでいく。
聖堂の入り口からすぐは円形のエントランスだ。
壁には千年前の星の奇跡を物語仕立てに描いた絵画と、ステンドグラスを嵌め込んだ窓が交互に並び、ところどころに赤い紐で区切られた中に彫刻が立ち、神の住まう聖堂というよりは美術館のような趣きになっていた。
本来なら、芸術性の高いそれらをひとつひとつ見て回り、奥の扉を抜けて、花の絶えない中庭を見渡せる柱廊の間をとおり、礼拝堂へ──聖堂の中心となる泉に浮かぶ御堂へ詣でるのがピエタ聖堂の正しい観光方法だ。
今日という日も、星神の神託がなければ、参道は祝祭を楽しむ観光客でごった返し、聖堂の周りを大勢の人々が取り囲み、水が溢れてくる合図の鐘を待っていたはずなのだ。
それが今は、エンディミオンたち少人数で閉ざされた商店ばかりの寂しい参道を抜け、怪物が口を開けて待っているような聖堂の奥へとものものしく突き進んでいる。
聖堂の内装が美しければ美しいほど、人気のなさが薄ら寒く感じられた。
ゆっくりと、だが確実に歩を進め、エンディミオンたちは聖堂の最奥──礼拝堂に入った。
「……きれい」
そんな場合ではないとわかっていても、セーラの口から素直な感想が漏れた。
太陽は聖堂の真上にあり、御堂を囲む泉にステンドグラスの色とりどりの輝きが注ぎ込み、見たこともない絶景がそこにあった。
すり鉢状につくられている泉もまだ溢れるほどではなく、縁に沿って底に向かうように設られた階段が数段見えている。
この町に起こっている恐ろしいことを考えなければ、その静謐で神々しい景色はいつまでも見ていられるほど、この世のものとは思えなかった。
「────間もなく正午だ」
我を忘れて見入りそうな空気を断ち切り、懐中時計を確認したシルヴィオが厳かに言った。
祝祭の儀式でもはじめるような雰囲気だが、その時間こそ、きっと自体が動き出す瞬間だと全員が知っていた。
カチリと、シルヴィオの時計の針がひとつになる。
────ゴーーーン、ゴーーーーンッ……
昨日聞いたそれよりも大きく響き渡って、鐘の音が鳴った。
礼拝堂から奥まった敷地に、神官たちの宿舎や貴人用の別棟、そして鐘塔がある。
町を挟んだ向いのヴィジネー邸で聞くよりも強く、鐘の音はエンディミオンたちの鼓膜を打った。
「……っ」
全員が思わず耳を押さえた先で、御堂を囲む泉の水嵩が勢いよく増しはじめる。
御堂の真下が湧き水の噴出口のようで、そこを中心に大きな波が立っている。ステンドグラスの模様は、次から次にできる波紋にかき消されてしまった。
グラーノによれば、膝下まで水位が上がるように造られており、この勢いならすぐに礼拝堂の床は水で満たされるはずだ。
星は、間違いなくこの泉に降るはず。
しかし聖堂の屋根を突き破るものなのか、巫女がこの世界の大聖堂に降り立ったときも流星が星神像の手のひらに飛び込んだと言うからあるいは。
エンディミオンが考えを巡らせている間にも、水は泉と礼拝堂の床を区切る柵のところまで溢れてきていた。
「いったん外へ……」
水の勢いに押され、そう言って礼拝堂の入り口を振り返ったアンジェロを、ラガロが渾身の力で引き留めた。
「……!?」
「来るぞ」
すでに体勢を落とし、剣の柄に指をかけているラガロは戦闘体勢だった。
「魔物……じゃない?!」
柱廊と繋がる両開きの入り口に整然と並んでいたのは、鳥の魔物ではなく。
目を見開いたエンディミオンの前に立ち、ラガロが舌打ちをする。
「どこに隠れてたわけ……?」
フェリックスの苦い呟きの先には、顔色のない、王立騎士団の制服を着た騎士たちが、剣を抜いてこちらへ向かっていた。