【閑話】もうひとつの人生──ラファエロ
「やはりお前を呪われたガラッシアへなど嫁がせるのではなかった……」
エレオノーラの亡骸を前にヴィジネー侯爵が放った悲嘆の言葉を、ラファエロは死んでも忘れることはない。
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一千年に及ぶステラフィッサ王国の歴史の中で、建国王から続く王家とその妹姫から続くガラッシア公爵家、そして十二貴族の血統は途切れることなく繋がれ、また序列が変わることはない。
それぞれが縁を結び、また離れを繰り返して植物の根のように広がり殖えた家門が今のステラフィッサの貴族ではあるけれど、彼らとそれ以外には厳正な線引きがされ、純然とした血が残され続けてきた。
そしてこの純然と続けられて来た血族で、長い歴史の中で決して交わらなかった二家がある。
ガラッシア家とヴィジネー家である。
ガラッシア家が王族に嫁いでも、また他の十一の貴族を迎え入れても、ヴィジネー家に王族が降嫁しても、ほかの十一の貴族と縁戚を結んでも、ガラッシア家とヴィジネー家の直系同士が婚姻した実績は過去にひとつも存在しない。
偶々と言うにはあからさまなその事実に気が付いた時、ラファエロは衝撃を受けた。
ヴィジネー家の娘であるエレオノーラに出会ってはじめて光が差した彼の人生で、何も手に入らないものはないと羨望されるガラッシア家の嫡男という身分で、本当に欲しいものだけが手に入らないかもしれない。
その直感は、父のガラッシア公爵にエレオノーラを婚約者に迎えたいと申し入れた際、現実になった。
*
ガラッシア家に伝わる「宙の瞳」を持って生まれた息子を、ラファエロの父である公爵は不憫に思っていた。
呪われた瞳。
言葉では理解しているつもりだったが、実際に幼い我が子がその瞳の力に瞬く間に飲み込まれてまだ育ってもいない自我を失った時には、この子はどんな人生を歩むことになるのか、諦念を息子への献身に置き換えることしかできなかった。
目も開ききらない赤子の頃から、その異常さは際立っていた。
常に周囲を気にするように落ち着きがなく、言葉を知らないうちは意味にならない音を発し続け、泣いて、疲弊し、ようやく眠りに落ちたと思ってもすぐに何かに目を覚まされるように泣き出した。
ひどく泣く時には、短い手を顔の前で振り回し、何かを振り払っているようだった。
ほとんどの赤子はよく眠るものだと思っていたが、ラファエロは眠らない。
いや、眠れないのだろうか。
常に無数の何かに囁きかけられているような、そんな印象を公爵は持った。
このまま衰弱してしまうのではないかと不安になる度、公爵はもうすでに亡い妻を想う。
血の近い従姉妹で、美しい銀髪を持った線の細い女性だった。
従姉妹と言っても、「海凪の巫女」の血は入っていなかった。
だからだろうか。
ガラッシアの血が濃すぎたのか。
生まれた子供が「宙の瞳」を持っていると知り、公爵は愕然とした。
そしてその傍らには、生まれたばかりの赤子を抱くこともなく、その生命力ごと根こそぎ奪われてしまったように力尽きた妻が横たわっていた。
その夜を思い出しながら、公爵はガラッシア家当主として、父親として、息子を守らなければならないと強く思い直す。
特別な瞳を持つものこそが真のガラッシア家当主である────
公爵自身も、その絶対の理を植え付けられて育った、ガラッシア家の一族であった。
*
公爵の懸念を他所に、ラファエロは日に日に育っていった。
一歳を過ぎる頃には泣くこともなくなった。
けれどそれは、彼が自分自身を守るために目耳を塞いだ結果のようであった。
実際にそうしたわけではなく、心を閉じた。
何も見ないし、何も聞かない。
そうすれば煩わしいことがなくなると、幼い息子は悟ったのだ。
この頃にはもう、ラファエロの人格は定まってしまったように思う。
ラファエロとしての人格ではない、「宙の瞳」そのものが形成した、生きていき易い姿とでも言おうか。
これが本来の自分の息子のあるべき姿なのか、それすらも公爵にはわからない。
けれどこうなってしまったからこそ、大いなる瞳の力は発揮されたのだ。
ラファエロの頭脳は常軌を逸していた。
何も見ていない真っ暗な目で、誰に教えられるでもないはずの、国のすべてを知っていた。
実際に見聞きした精度で、把握している。
公爵やビランチャ家の宰相でさえ知らないような知識や知見を持って、常に百二十点の正解を導き出す。
見た目こそは幼児であっても、その中身はすでに成熟した大人であった。
乳母や執事、そして公爵を介してその能力はすぐに国政に取り入れられ、淡々と実務を処理していく様は異様ですらあった。
もちろんラファエロの差配ということは公爵家と王家以外は知らされず、片付いた案件はすべて公爵の功績とされた。
傍目には、感情の起伏のない人形のような息子を連れて、公爵が登城しているだけのように見えていた。
生まれてすぐに母親を亡くした息子を憐んでだとか、あるいは心の病を抱えた欠陥品の嫡男を心配して、片時も離れずに世話をしているのだと、そんな噂話が吹聴されるような状況だった。
公爵は、そんな中傷めいた憐憫も甘んじて受け入れていた。
誰がなんと言おうと、ラファエロ・ガラッシアが真なるガラッシア家当主であり、その大いなる力と呪われた瞳のことは秘匿されなければならない。
そうして王家にもまた、ガラッシア家に「宙の瞳」を持つ子供が生まれれば、畏れを持って遇しなければならないという、そんな不文律が存在していた。
謂れはわからない。
けれどステラフィッサ王国が建国された千年前から、ガラッシア家の呪われた瞳について王家に言い伝えられている証跡が残っている。
実際に何代かごとにその瞳は現れ、そして扱いを間違わなければ、国にとって有益な助言を与え、ステラフィッサ王国の繁栄を支えてくれていた。
その所以から、ガラッシア家の代々の当主はステラフィッサ王家の「相談役」とされ、役職には就かないが、実質宰相よりも実権を持った、貴族家の筆頭であり続けたのだ。
*
ラファエロの人生は、黒く塗り込められていた。
気が付いた時から目の前は真っ暗で、確かに視覚から入る情報はあるのに、それに何の意味があるかを感じることはない。
知覚して、要不要で処理する。
それだけの用途にしなければ、とっくに頭の中身は焼け落ちていただろう。
聴覚は、もっとダメだ。
始終五月蝿くて仕方ない。
こちらで取捨選択をしなければ、膨大な質量の「音」が止めどなく押し寄せてくる。
夜は特にひどくて、眠ることなど出来なかった。
空が白みはじめると少しマシになって、それでもラファエロの視界は色の無い世界だった。
苦しいと思うことも、悲しいと思うこともないが、つまらないという、倦んだ気持ちは心の底に降り積もっていたかもしれない。
ただもう少しマシな生き方になるようにだけ、目の前の情報を処理する────
死ぬまでそんな毎日が続くのだろうと、それすらも予め知っていた。
知らないことはなくて、すべては予定調和で、人生は思い通りにしかいかない。
それが当然で…………、だから、その少女をはじめて見た時、ようやく見つけたと思った。
探し当てた、と心が歓喜したのを強く自覚した。
目の前の闇が晴れていく。光が差した。暁光を見た。心が震える。世界に色がつきはじめ、夜が明け朝がやって来る──────
少女──エレオノーラ・ヴィジネーは、眩い金髪の、青空を溶かし込んだ瞳で、世界中の光を集めたような微笑みを自分に向けてくれたのだ。
そこから、ラファエロは一変した。
生来の人外の能力は、人として頭ひとつ優秀なくらいにまで落ち着き、真っ暗な瞳は素直な少年らしい輝きに満ちた。
その変化を、公爵は何よりも喜んだ。
「宙の瞳」の人格ではない、ラファエロ本来の自我が生まれたのだとすんなり納得した。
これまでのラファエロの能力による功績に執着はない。
ラファエロが幸せに満ちた人生を歩めるのなら、それこそが本望とばかりに、ラファエロのすべてを肯定した。
エレオノーラを前にしたラファエロの側で、普通の人の父親らしく振る舞うこともできた。
ラファエロは、少年らしい初々しい初恋を象り、エレオノーラは生来の純粋さでそれに気付かず、その業の深い執着は陰に隠れる。
吟遊詩人が歌う物語がはじまった。
優しい幼馴染の少年と、治癒の力に溢れた少女。
どちらも美しい容貌と心の持ち主で、淡い恋が、形になって実るまで、国と聖国を巻き込み、少年の親友の騎士の力添えがあってようやく婚約までたどり着くハッピーエンド。
…………千年の間、一度も結ばれなかったその縁が何を意味するのか。
知るものは居ない。
「宙の瞳」ならあるいは。
けれど、ラファエロの中で眠っている能力は何も告げない。
父にヴィジネー家へ婚約の申し入れをしたいと言った時も、それが叶わないかもしれないと知った時も、何が何でも王家の力を使ってでもエレオノーラと結ばれたいと願う気持ちしか、ラファエロの中にはなかった。
ヴィジネー家にも、ガラッシア家と婚姻関係になってはいけない、という具体的な理由はなかった。
ただ、ずっと避けられてきた。
ずっと────千年もの長い間。
だからどこかで忌避する気持ちがあったのだ。
これは結ばれてはいけない縁なのだと、頭の中で誰かが囁く。
けれど確かな根拠もないまま、王家を味方につけたガラッシア家に抗う術がない。
当のエレオノーラも、ラファエロ・ガラッシアに惹かれている。
エレオノーラの父であるヴィジネー侯爵は、祖父であるドナテッロと、ガラッシア家という「相手が悪い」という強烈な印象だけを共有し、結局は婚約の申し入れを呑むしかなくなった。
どこかで聞いた、ラファエロとエレオノーラが出会う前、まだエレオノーラが登城できる年齢になる前の、ガラッシア家の噂を思い出しながら。
────ガラッシア家の息子を見たか?
────ああ、あそこは昔から呪われてるんだ。
────あんな気味悪い子供が、たまに生まれるのさ。
呪われたガラッシア家。
どうして、娘の幸せそうな笑顔を見るたび、そんな心無い言葉を思い出すのだろう?
その答えは、ある日唐突に残酷なカタチで現れた。
「お前を、呪われたガラッシアへなど嫁がせるのではなかった…………」
無惨に殺された愛しい娘は、もう二度と瞳を開かない。
手を添えた頬の冷たさに、公爵家を詰る言葉が溢れてしまう。
ガラッシアになど嫁がなければ、娘がこんな目に遭うことはなかったのだ、と。
傍に黙って立ち尽くす娘婿がどんな思いだったかなど、ヴィジネー侯爵は知る由もなかった。
***********
────時が満ちた。
(こうなるのは、はじめからわかっていたダロウ?
手に入れた!手に入れた!手に入れた!
あとのいちばん星がそろったら、ようやく願いも満ちるノダ!
すべてそろったら、ようやく積年の思いが遂げラレル)
そうだ。はじめからわかっていた。
あとひとつの星がどうしてもほしかった。
闇の子供を迎え入れれば、幸運を奪われた両親に悪魔が囁くことは。
王家とこれ以上絆を深めれば、悪魔たちが輪になって踊り、本当の悪魔を呼び起こすことを。
何もかも、思い通りだ。
(…………いったい、だれの)
綻んだ隙間を縫うように、ぬるりと這い寄る陰に、飲み込まれるのがわかるのに立ち尽くすことしかできない。
すべて失った。
もう戻れない。
もう二度とこの手に戻らない。
それなら、何をしたって、どうせ同じだ────
(誰かの思うとおりに、全部飲み込まれてしまえばいい)
はじめから、そうなるはずだっただけのこと。
首の皮一枚で保っていた最後の意識も砕け散るように、すべてこの手の指からするりとこぼれ落ちていったのに。
「……────を救うために、貴方の力が必要です」
救う?どうやって?
小さなその身で何ができるのか。
真っ直ぐな目が、そのためならなんでもすると告げていた。
そうか。もう、何度も試みたのか。
すでに魂はボロボロだ。
これが、最後の一回。
私ですらしなかったのに。
それが俄かに可笑しくて、ほんの余興のような気持ちで、その賭けにノってみてもいいかと思った。
何をしたって、どうせ同じことなら。
例え魂が砕けて消えるだけだとしても。
────お前が、それをするというのか。
可笑しくておかしくてたまらないのに、どこかで、期待する声が聴こえる。
もうここからは戻れない。
誰も救えない。
結末は決まっている。
だが、お前なら越えられるのか。
救えるのか。
もう決まっている結末から、星を越えて飛び出し、魂が砕け散って欠片になっても、その願いを叶えるために。
箒星の流れる先を、ラファエロはただ見つめていた。