序章 夏の始まり 始まりの夏
「・・・・・くーん」
「…倉…太郎くーん」
「…倉章太郎くーん」
「大倉ぁ!!」
「うわっ!、、え?」
辺りを見回すと、天井や壁が薄汚れた教室が、もっと言うとクラスメートの冷たい視線(特に噂好きの女子)が目に映った。
「え?じゃないでしょ。あなたのことを呼んでるの。今はなんの時間だと思ってるの?」
「あ、あぁ、、、なんでしたっけ」
くすくす、と周りから聞こえてくる。
「今は成績表を渡す時間。早く来ないとあんたの成績みんなに開示するわよ」
「あっちょっ待ってください先生!」
「また寝てたのかよ。今年はもう百回越えか?」
夕焼けの中、村川がいつものおどけた調子で安定のイジリを見せてきた。
「まだだっつーの」
「ありゃ、そりゃ残念だ」
「なんかの真似か?」
「そう思っとけ」
「あそ」
いつものように無駄話をしていると、突然村川が声のトーンを下げてきた。
「つーかお前、成績大丈夫か?こないだもテストで赤点取ってたし」
「学年順位一桁台のお前には言われたくなかったぜ」
村川はこれでもかなり勉強ができるのだ。
「そうか、すまんな(棒読み)」
「本当にそう思ってんのか?!」
村川は無視して続けた。
「でも俺はお前が心配なんだ。マジでな。何かあったら必ず言ってくれ」
「まぁ、なんというか、ありがとな」照れ臭くなって、章太郎は言葉を濁した。
「おう。どんとこいやぁ!」
口調がいつも通りに戻ったところで、二人は各々の帰路についた。
一人で食べる夕飯。一人で見るテレビ。一人で眠る寝室。章太郎はいつも一人だった。
そう。章太郎にはもう母親も父親も兄弟でさえもいなかった。
兄弟は元々いなかったが、両親は章太郎が三歳の時に突然理由もわからず姿を消したのだ。
三歳の少年にはその事実は重すぎて、それから何年かは夜中にずっと泣いていた。
でも、今の章太郎にとってはもうそれが普通となってしまっていた。
両親のかわりとして祖父母に育ててもらっていたが、高校生になったら一人暮らしをしろと言われていたため、高校の近くに引っ越してきたのだ。
一人暮らしを始めてから私生活が劣悪になった章太郎は、少し痩せ気味で、ボサボサした髪の間からほっそりとした自信なさげな目がのぞいている、いわゆる浮浪人のような風貌になっていた。
さらに部屋もところどころに物が散乱していて、人ひとりがやっと眠れるスペースしか床が見えない。面倒な時は布団も敷かずに床につく。
このような生活力ゼロの私生活をなんとなく送り始めていた。
そんな中で、高校一年生の春、村川実と出会った。というより、村川が話しかけてきたのだが。
恵まれた体格に、いかにもモテそうな整った顔、人気イケメン俳優がしてそうなイカした髪型、ザ・陽キャとも言えそうな村川が話しかけてきたのだ。元々陰キャ気味だった章太郎にとってそれは意外なものだった。
なぜ話しかけて来たのか後に聞いたところ、章太郎を見てビビッときたらしい。相変わらずよくわからんやつだ。
しかし村川は本当は優しい奴なのだ。
とある放課後、二人でとりとめのない話をしていたときに、村川の口調、言葉遣い、身振り手振りから、章太郎はその村川の根の優しさに気づいた。その瞬間、章太郎の心のどこかで抑えていた気持ちがダムを決壊させるがごとく溢れ出してきたのだ。その勢いに乗じたのか、章太郎は無意識に自分の家庭環境について語っていた。
村川はそれを聞いた後、
「そか」
とだけ言って、それからその日は章太郎と一緒に帰路に着いた。いや、着いてくれた。
二年生になった今でも二人で毎日一緒に登下校をしている。
今日の発言だって、章太郎を心配して言ってくれたんだろう。まるで母親のようだ。
でもそれは、章太郎の心に響いた。
すごく嬉しかった。
自分を認めてくれる存在がここにいるような気がするのだ。
しかし、章太郎は心に何かが足りないような気もしてならなかった。