日常
初恋の人が帰ってくるらしい
「そういえば、アレク君戻ってくるみたいよ」
母の何の脈絡のない言葉が、朝の喧騒の中で、一筋の風のように突き抜けた。
波一つない水面。深い青色をした水面を風が突き抜ける。風音が消えても、あたかも何もないかのように見えるが、その一瞬後、静寂な水面が割れ、波立ち、平衡が崩れる。徐々に内面まで渦巻いて、ぐちゃぐちゃに混ざり合った。
「え?」
母に問いかけようと声を出したころには、母はバッグを片手に玄関を飛び出していた。あわただしい人だが、残された私は呆然とするしかない。
母がそんなことを言った理由もわからない。母親としての慧眼なのか、それとも井戸端会議での成果報告をしたかっただけなのだろうか。
あぁ、こぼれる声はため息に似ている。
「アレク…君、と呼べばいいのかな」
いやいや、呼ぶことはない。そんな接点ないでしょ。
彼は私の初恋だった。
時が経った今だから言葉になる。
初恋の人が帰ってきた。
私の初恋は終わっているのに、
朝の忙しい時間帯に考え事なんてするもんじゃない。
えぇ。えぇ、遅刻するかしないかのギリギリラインですよ。
もともと余裕をもって行動するタイプじゃないから、余計に後悔が増してくる。
速足で歩いているはずなのに、いうほどスピードは上がってないのに、体力だけが削られている気がしてきた。毎日歩いているはずの道で、息が上がっている。
歩くことに集中していたのか、視野を足元にしか向けていなかったせいだろう。
目の前に、人がいるのに気づくのが遅れた。
…振り返るにも遅く、道を変えるにも、遅すぎた。
たくさんの荷物を抱えた年若い男性が立っていた。ここのあたりでは珍しい上質なスーツが良く映えていた。
その背姿は、私の知っているものとは確実に違うのに、どうにも見つめてしまう。
誰かを待っているのだろう、手持ち無沙汰に空を見上げたり、腕時計をのぞいたり、落ち着かない様子だ。目立つつやのあるはちみつ色の髪に、長い脚、あの頃よりも広くなった肩幅だけど凛と伸びる背筋が変わっていない。
悲しいくらいにおぼえているのは、私だけだろう。
誰もいない田舎道、すれ違えば存在ぐらいは認識される。
それでもきっと気づいてもらうことはないだろう。
それぐらい、時が経ち、距離ができ、道が違えた。
もう、終わったことなんだから
このまま通り過ぎるしかない。
私は彼をよぎった。
彼は空を見上げていた。
視線は絡むわけもない、二人とも違う方向を見ているのだから。
私の足音と強い風が吹きすさぶ音だけが響いていた。
息苦しさで、ようやく我に返る。
肩で呼吸をしているのがなんだか笑えてきた。
これだけ離れれば、もう大丈夫だろう。
全身にめぐる熱しすぎた血が急激に冷えてくる気がする。
ほら、彼は感知もしていないでしょ?
風景になってしまえればいいと思ったのに、その通りになったことが何よりむなしくてしょうもない。
私の初恋はもう終わっている。