03
彼が、私と知って、ことに及んでいるとは思えない。だから、心がツキっと痛んだ。それをもう少し、自分を騙してみよう。夢中で抱かれた。翻弄されて、まるで自分の事のように思えないほど、啼かされた。
ぐったりといつの間にかまどろんでいると、ぎしっとベッドがきしんで、目が覚めた。それはちょうど、彼がそっと部屋を出て行こうとしていた時だった。
なかなか、部屋に戻ってこない。今頃、後悔しているのかもしれない。今まで私のような女と、付き合ってこなかったことも承知しているから。面と向かって、苦い顔をされたくなかった。急いで洋服を着た。震える手でボタンを留めて、髪の毛を整える。バッグを探して、部屋を出ようとした時に、彼がドアを開けた。心臓がぎゅっと苦しくなることを悟られないように、必死に言葉にする。
「じゃあ、帰るね。今日は、ありがとう」
彼の横を通り過ぎて行こうとすると、
「泊って行けよ」
と、思ってもいないことを言った。言ったそばから、彼は、後悔して舌打ちしてる。私は、本当は、心臓を鷲掴みされるほど苦しいのに、もう一度だけと神様に願って、くすっと無理に笑った。
「でも、このままじゃ、明日出勤できないから。じゃあね」
と、玄関へ向かう。膝ががくがくと震えていることに、気づかれていないようにと願いながら。
次の日、彼は出社時間ギリギリに、部屋に入って来た。私と会いたくなかったのだろう。
「珍しいですね。梶さんがギリギリに来るなんて。昨日は、結構飲んでましたもんね」
と、後輩の山根君が彼に声をかけていた。
そのまま、数日がたったけど、当然、彼からは何も言ってこなかった。大丈夫、このまま終わらせられる。私が、なにも無かったような態度を取り続ければ、あの日のことを否定されずに、私にとって「幸せな出来事」として、良い思い出に残せると、思っていた。
彼と二人きりにならないようにと、注意して1か月が過ぎたころ、新しいプロジェクトが準備段階に入いり、企画会議が少し長引いて、あいにく帰るころには、彼と二人きりになっていた。気まずい空気が流れ、なんとかごまかして、帰ろうとすると、彼が言った。
「今日、どう、家に来ないか」
私は、自分の目が泳いでいることに気付いて目を伏せた。
―何か理由をつけて、断らないと、貴女が傷つくのよ!―
それなのに、実際、自分の口から出た言葉に、呆れた。
「良いんですか?」
言った瞬間、彼に腕をつかまれた。私はハッとして、彼の手を振りほどいた。だって、
「ここは、会社よ。どんな噂がたつか。だめよ」
彼は、泣き笑いのような顔をして、強引に私と手をつないだ。それが、何かの始まりになるのか、終わりになるのか、その先が怖いと思うよりも、もう、走り出してしまった彼との関係は、行きつくところまで行かないと終わらないと、私は覚悟していたんだと思う。そうやって、私と彼の同居は、始まった。
さっきまで彼に激しく抱かれていた。
―ああ、早くベッドを出なければ、私と一緒のベッドでは、寝ることもできないだろうーーそれでも、少しだけ彼との余韻を感じていたい。―
ひんやりとした寝室のせいではない。心が冷えていくことを彼に気付かれないように、ベッドを抜け出した。
「じゃあね。おやすみ」
と、軽くキスをしてドアを閉めると、涙があふれた。
―私は、こんな生活をあとどれほど続ける気なのかー
―ううん、続けることが出来るのかー
やりがいのある仕事。彼とのプロジェクトを続けて行くためには、重い女になってはいけない。だからこそ、会社の帰りに外食しようと言われても、断った。当然、休日のデートもしなかった。だって、会社の人と会わないとも限らない。この関係を少しでも長続きさせたかったけど、きっと別れるだろう。ずっと続くことは無い。だからこそ、同僚としての関係だけは、壊したくなかった。だから、彼が、休日に一人で出かけることに、不満はなかった。
-これって、恋人といえるのかな?-
-言えないよね。身体だけの関係じゃない。良いの?麻衣?-
―判ってる。知ってるよ。ここへ住むって決めた日から、覚悟しているからー
休日の昼過ぎ、彼が出かけたあと、明日からのおかずの準備のための買い出しに行って戻ると、もう夕方だった。今日は遅くなると言っていたから、明日からの作り置きの総菜の準備を始めた。そうして、最後のおかずをコトコトと味をなじませるように弱火で煮込んでいる鍋をぼんやり眺めていると、さっき出かける時に、何か言いたそうだった彼のことを思い出す。
―あれは、もう、終わりにしようと言いたかったんじゃないだろうかー
本当は、普通の恋人同士のように、彼と休日を過ごしてみたい。会社の帰りに、寄り道をして、『今、評判になっているワインバーによって行かない?』なんて、言ってみたい。でも、彼との『終わり』を思うと、しり込みをしていた。
当然、彼だって、恋人と行ってみたいところがあるはずだ。そんな楽しい時間を奪っているのは私だ。はやいとこ、私と別れてしまえば、新しい恋人ができるはずで、その先は楽しい生活が待っているはずだ。そこまで考え出すと、いてもたってもいられなくなった。
―これは、ただのエゴよねー
きっと、私と体の関係を作ってしまったことで、同じ会社の、同じチームの人間だったことで、言えなくなっているんだ。それに気づかないふりをして、もう少し、もう少しと、私は、纏ついていた。いつの間にか、キッチンの床に座り込んで、泣いていた。
どのくらいたったのだろう、ドアホンが鳴った。慌てて、にこっりと造り笑いで玄関のドアを開ける。ふーっと、なぜか、彼がため息つきながら、黙ってリビングに入っていく。キッチンの総菜たちに目を止めて、何時ものように、彼が、言った。
「俺の、弁当は?」
私も、何時ものように、苦しい言い訳を口に出す。
「だめよ。あなたは独身よ。会社で、へんな噂が立ってしまうわ」
「………」
私は、重い空気を変えるように、明るい声で尋ねた。
「ねえ、お酒飲んで、お腹いっぱい? それとも、お茶漬けでも食べる?」
彼が、ぐっと唇をかむようにして、睨んでいる。そうして、彼は、無理やり私の腕をつかんで、ベッドへ誘う。そう、何時もなら。
それが、今、彼は、視線をそらし『そうだな………。シャワーを浴びるよ』と、パタンとリビングの扉を閉めた。