ニャンと素敵なご主人様!
我輩は猫である。名前はまだ無い。
名前をつけてもらう前に息絶えてしまいそうな、出来損ないのか弱い猫である。
いつ産まれたのかは分からないし、親兄弟の記憶もない。
気付けば、とてつもなく大きな木々に覆われた森で、たった一人みぃみぃ鳴いていた。
状況が分からないながらも、本能が食事を求め、あっちこっちと探し回って、漸く見つけた小さな池でなんとか喉の渇きを癒し。喉の渇きが癒えた後に感じたのは、強烈なまでの空腹感。お腹と背中がくっ付くのではと、半ば本気で心配になりながら、小さな手足を動かし、右往左往してなんとか見つけたのは、熟して木から落ちてしまったのだろう潰れた果物が一つ。腐っているのではないかとか、毒があるんじゃないかという心配はその時全く頭になかった。はぐはぐ、と一心不乱に口へ放り込み、ほっと一息ついた所でその心配が芽生えたが、結局腹を壊すことはなかった。
しかし、あの果物で腹を壊すことはなかったが、私は今、自分で歩く事も出来ないほど衰弱している。あの果物が最後の晩餐となってしまいそうだ。
何故あの森を出てしまったんだろう。後で悔いると書いて後悔。まさに字の通り、今更と言っていい程私は自分の選択を後悔していた。
森の中を直線上に進み続け、感覚的に「ここから向こうは森の外だ」と感じる境界線に辿り着いた。ここまでの道で最初に口にした果物以外見つからなかったので、ちょっと森の外まで探してみようと。
そんな軽い気持ちで一歩森を出た直後、まさか得体の知れない化け物に襲われるとは思わなかった。体長は私の何倍もあり、ダラダラと口から流れ出る唾液が地面の草を溶かす、そんな化け物だ。目と目が合う瞬間、好きだと気付くことはなく、脱兎の如く逃げ出した。
幸い、あの化け物は足があまり早くなかったらしく、なんとか逃げ延びることに成功したが、逃げることに必死すぎて体力を使い果たしてしまった。周囲は土で固められた道が続いており、道なりに進めば人に会えるかもしれないが、悲しいかなそんな元気は一ミリも残っていない。
あぁ、せめてあの森でもう少し水分補給しておけばよかった。後先考えず、目の前のことばかりに集中してしまうのが私の悪い癖だと、お母さんからも言われてたのに。
……え? お母さん?
さっき親兄弟の記憶はないと思ったのに、なんでお母さんのことを思い出したんだろう。私に母親はいないはずでは?
そう思いながらも、脳裏には台所に立つ母親の後ろ姿がよぎる。ソファに座る私は、スマホでゲームを楽しんでいた。
……あぁ、そうだ。
私、人間だったんだ。
唐突に目の前が弾けたような感覚に襲われたかと思うと、直後私の意識は暗転した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「今日も可愛いね、僕の愛するシャトン」
トロリと蜂蜜を垂らしたような甘い声でそう囁くのは、神がつくりたもうた美貌を備えた美男子で、緩やかな笑顔は彼の美貌を更に引き上げる結果となる。
たまたま見てしまったのだろう、メイドの一人が黄色い声を上げて恍惚な表情を浮かべて気絶した。すぐに他のメイドがやってきて回収していく手腕は手馴れたものだ。なにせこの光景、私がこの家に来てから一日に一度は起きる恒例行事なのだ。そりゃもう既に慣れたってもんよ。
そう、私は今も元気に生きている。
それも全て、私を拾ってくれたこの美男子――ご主人のおかげだ。
あの時気絶してしまった私は、目が覚めるとフカフカなクッションに寝かされていた。走り回ったせいで汚れていた毛は綺麗にされており、私はこの時自分の毛並みが真っ白であることを知った。
状況がわからず目を白黒とさせていると、一人の青年が部屋に入ってきた。
「あぁ、良かった。目が覚めたんだね。どこか体に異変はないかい?」
そう言って私の小さな頭を撫でる青年が私のご主人となる人なんだけど……、私は彼を見た瞬間、背筋に電流が走った。
「に゛ゃっ、に゛ゃぁぁ!!(な、なんだこのイケメン!!!)」
目や鼻や眉といったパーツの一つ一つが整っており、それが完全な黄金比で並べられたご尊顔は、正直整いすぎて人間味を感じさせない。咄嗟にイケメンと言ってしまったが、イケメンという造語が似合わない神々しさだ。
ブサイクな声で鳴いた私に対し、青年は甘いマスクに更に砂糖を山盛り追加したあまーい顔で笑いかける。
「ふふ、急に知らないところにいたから驚いたのかい? 大丈夫、ここに君を害するものはいないよ」
幼子を宥めるように顎下を優しく擽られ、停止していた思考回路がやっと回復の兆しを見せた。
そして思い出す。私は人間だったということを。
何故今猫になっているのかは分からない。人間だった頃の記憶は、母親の後ろ姿と、自分が高校生くらいの年だったということくらい。家族や友達がいたことを覚えているのに、顔も名前も思い出せない。
「……みぃ……」
その事実に愕然とし、意味もなく口からか弱い声がこぼれた。幸いというか、この体には涙腺というものが存在しないらしい。人間の姿のままだったら、このまま涙を流して泣き叫んでいたかもしれない。
しかし、涙を流さないながらも私が悲しんでいることに気付いたのか、青年は優しく私の体を抱え上げた。
「……何がそんなに悲しいんだい? 僕の可愛いシャトン」
「……みぃ(思い出せないことが悲しいの。きっととても大切な記憶だったのに……)」
みぃみぃ鳴きながら、傍の体温に縋る。
「僕には君の言葉がわからないけど……、君が悲しんでいると僕も悲しい」
本当に心から心配しているような声色に、私は下げていた頭を上げる。目の前にあった美しいご尊顔が私に近づき、額のあたりでチュっとリップ音が鳴る。……でこチューとかイケメンにしか許されない行為だぞ。あ、紛うことなきイケメンだったわ。
「君が悲しい気持ちを忘れられるように、これから僕が沢山の愛情をあげるからね。君はゆっくりとこの家に慣れていくといいよ」
こうして、私はこの美貌の青年――アルベリク・ビガールことご主人のお家に住まわせてもらうことになった。
ご主人は、最初に言った言葉を違えず、それはもう愛情深く私に接してくれた。私が少しでも悲しんでいたり、思わずみぃみぃと鳴き声を上げてしまった時、どこからともなく私の元に現れ、宥めるように私の全身を撫でまわし、でこチューをかます。甘ったるい声で愛の言葉を囁きながら。
お陰で感傷に浸る隙すら与えられず、失った記憶に嘆く事も少なくなっていった。お世話になってから結構な日にちが経った今となっては、「なってしまったものは仕方ない!」とこの猫生を楽しもうと思える程にまでなった。
それに、私がしょんぼりしていると、ご主人までしょんぼりしちゃって、家全体がどんよりするという悪循環になるので、元気にならざるを得なかった、ともいう。
私がお世話になっているこの家には、メイドや執事、それに鎧を身にまとった兵士っぽい人がいるし、それ以外にも至る所で人の気配を感じる。どうやらかなーり広いお家みたいで、家の中を把握がてら探検してみたいんだけど、残念ながらご主人が部屋から出してくれないんだよね。
「シャトンみたいに可愛い子が一人で出歩くと危ないからね。いい子だから、一人で勝手に部屋から出ちゃダメだよ」
言葉だけ聞くと監禁されてるみたいだけど、ご主人の手が空いた時は一緒に庭のお散歩をしてくれるし、そもそも私が拠点としているご主人の部屋は日当たりばっちりでかなり広い部屋だ。窮屈感もないし、現状に不満を覚えることはない。
それに、たくさんの人が住んでるってことは、中には猫アレルギーの人もいるかもしれないし、そういった意味でもあんまり私がフラフラ出歩くのは良くないだろう。
部屋は心地いいし、ご飯は美味しいし、ご主人は優しい。
言うことなしな猫ライフに、私は今日も満悦しながら日当たりの良いソファで転寝するのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……はぁ、昼寝癖は直らず仕舞いか。このままじゃあずっと一人で部屋から出してあげることは出来ないな……」
執務がひと段落したところで自室に戻ったアルベリクは、ソファで横になっているシャトンを見て、呆れたように言葉を零す。
しかし言葉とは裏腹に、表情は甘ったるく溶けている。愛する恋人さえも焼き焦がしてしまいそうな熱を孕んだその目は、とても飼い猫に向けるものとは思えなかった。
「……ふふ、涎垂らしちゃって……、可愛いなぁ」
甘い表情のまま、アルベリクはハンカチでそっとシャトンの口元を拭う。擽ったかったのか、少し眉根を寄せた表情を浮かべたが、その姿すら愛らしい。
すべすべな頰に指を滑らせれば、無垢な少女はへにゃりと笑みを浮かべる。釣られてアルベリクの顔が更に甘さを増した。
……少女。
そう、今アルベリクの部屋のソファで眠っているのは、輝く銀髪の見目麗しい少女だ。
彼女を見つけた時、アルベリクは大層驚いた。
息抜きと称してお忍びスタイルで城を抜け出し、護衛さえ振り払ってたった一人で馬を走らせていた時のこと。大通りから少し離れた場所で、小さな銀色がポトリと倒れたのが見えたので確認のため近付いてみると、そこにいたのは小さな猫。所々汚れているが、それを差し引いても美しい銀色を纏った綺麗な猫だった。
息も絶え絶えだが、猫はまだ生きている。
取り敢えずプルプルと震える姿があまりに哀れで、アルベリクは猫をマントに包んだ。全身をマントで覆った瞬間、猫は人間の少女の姿に変化したのだ。
突然のことに唖然とするも、アルベリクは腕の中で眠る少女を見下ろす。驚愕と衝撃に頭は混乱していたが、アルベリクの本能は変化する彼女に不信感を抱くことはなかった。いや、それどころか。
――なんと美しく愛らしい娘か。
風に靡く長い銀髪。瞳の色は分からないが、髪と同色の睫毛に覆われた大きな瞳。アルベリクが支えている肢体は白く、か弱く、柔い。
雪の妖精だと言われれば信じてしまいそうな、目を奪われる程の美貌。
一目見た瞬間に、アルベリクは心を丸ごと彼女に奪われてしまった。元来動物好きなアルベリクは、猫の姿の時点で一目惚れ状態だったというのに、これはあまりにもオーバーキル。
その後、少女は再び猫へと変化した。
瞬間、アルベリクの脳裏に一閃の光が差し込む。
『この姿なら城に連れ帰っても誰も不審に思わない』と。
流石に自分の立場を考えると身元不明な少女を城へ連れ帰るのは難しいが、今の彼女は猫の姿だ。これなら拾ったと言えば問題ない。
アルベリクは颯爽と一匹の猫を懐に入れ、連れ帰った。
熟練の誘拐犯もびっくりな素早い所業であった。
回復魔法をかければ、ぐったりしていた猫はすっかり元気になっていった。そして彼女と過ごすうちに、彼女のことを、彼女以上に理解していった。
まず、彼女自身に人間の姿になっているという自覚がないこと。
何故なら、彼女が人間になるのは決まって意識がない時――つまり眠っている時や気絶している時のみなのだ。変化の兆候が安定していなかったのは、最初に会ったあの時だけで、それ以降眠っている時は人間、起きている時は猫という法則が破られたことはない。
お陰で、至る所で昼寝をしようとする彼女をおいそれと部屋から出すことが出来ない。何せ猫の時は全裸なので、人間になった時も勿論全裸。つまり、彼女が外で昼寝をしてしまうと、誰かに裸体を晒してしまうかもしれないのだ。
誰が可愛いこの子の裸体を有象無象に見せるものか。もし誰かの目に入ろうものなら、相手の目を潰してしまいそうだ。
『それならば、彼女に眠っている時に人間になっているという事実を伝えれば、彼女も外で眠る事はないだろうし、外に出ても問題ないのでは』
きっと第三者がいたらアルベリクにそう助言しただろうが、生憎アルベリクを止められる第三者はいない。何より、アルベリク自身、彼女に人化の事を告げる気は毛頭なかった。
ある日の事。いつものようにソファで転寝していた彼女を見て、猫の時と同じように首の下を擽ると、半ば夢の中で意識が覚醒していない状態の彼女が、「ん、みゅぅ……」と小さな鳴き声をあげてアルベリクの頰をペロリと舐めたことがあった。
普段の彼女はとても恥ずかしがり屋で、部屋の中でアルベリクが着替えようとすると必ず目を逸らすし、アルベリクが額にキスを贈ると恥ずかしそうに肉球で顔を押してくるのだ。
そんな恥ずかしがり屋な彼女が。
自分から、頰を、舐めてきたのだ。
その時のアルベリクの心情は筆舌に尽くし難い。
アルベリクの行き場のない感情を一身に受け止めた部屋の扉は、呆気なく大破した。
とどのつまり何が言いたいかと言うと、彼女に人化の話をすると、昼寝もしなくなるだろう。きっと、この部屋の中でさえも。最悪、自分が人間だと自覚することで、猫の姿の時でさえも甘えてきてくれなくなってしまうかもしれない。
……そんなことあってはならない。
人間の姿で、猫の鳴き声を上げ、ふにゃりと笑いながら頰を舐める彼女が見られなくなってしまうかもしれないなんてっ……!
早い話、アルベリクは味を占めたのだった。
アルベリクの実に私利私欲の混じった考えのもと、今日も人間になれる可愛い子猫は、自分のことを全く理解しないまま、ご主人からの沢山の愛情を受けている。
読んでいただきありがとうございました。