時を繰る銀
京史郎が研究室を訪ねてきたのは、細い月の傾く頃だった。美津枝の四十九日の法要に向けて僧侶、法要の案内状、香典返しとなる引き出物の手配、遺産相続等について、菫と話し合う為の訪問だった。興吾はまだ世知に疎く、席を外し、菫と京史郎だけが応接セットのソファーに座って向かい合い、打ち合わせを行った。妖怪の情報もないのに、菫が夜まで研究室に居座っていたのは、論文執筆の為だった。季節はもう秋だ。汚濁や妖怪討滅にかまけて最近、随分と論文を疎かにしてしまっていた。参考資料の収集も間に合っていない。今夜は泊まり込むくらいの意気込みだった。駿も事情は似たようなものだったのだろう。パソコンを睨みながらいつになく真剣に執筆に打ち込んでいる。華絵はそんな二人にお茶を淹れたり何なりと気配りをしてフォローしてやっていた。
京史郎が姿を見せると、まず興吾がそれに気付き、集中していた菫に声を掛けた。京史郎の用向きを聴いた菫は執筆と調べものを中断し、打ち合わせに臨んだ。
「研究の邪魔をしたようだな。済まなかった」
「いいえ。こちらも大事な用件です」
「身内だけで済ませるのなら案内状も不要なのだが」
「済まないでしょう。神楽家です」
落ちぶれても神楽家は名門であり、縦とも横とも繋がりがある。気軽に身内に対して電話だけで知らせるような状況ではなかった。
「法要後の会食はお盆に頼んだところと同じで良いですね」
「良いだろう。引き出物は私が手配するが、お前の意見も聴きたい」
「はい」
細々とした点を確認、話し合いながら、菫は京史郎の様子を窺ってもいた。
頬のあたりの肉が、少し削げた気がする。元々、鋭利な面立ちの京史郎にそれは更に陰を添え、一種の迫力を与えていた。淡々と話す京史郎だが、菫には計り知れない悲哀があったのだろうと推察することが出来る。京史郎は美津枝を愛していた。美津枝は保険に入っていたので、菫の驚くような金額が残ったと聴かされ、相続する一員としては複雑な気持ちでもあった。
コンコン、と研究室のドアがノックされる。開けようと立ち上がり掛けた華絵を制して、駿がドアに歩み寄る。慎重な足取りだった。駿の鋭敏な感覚が、何かを訴えている。
「おばんです」
ドアの外から届いた声に、駿だけでなく菫も目を瞠る。忌まわしくも懐かしい声。愛おしい声。今では叛逆者となった暁斎が、何の用で研究室に。
駿がドアを開けると、暁斎に続いて樹利亜、虎鉄、遙、そして黒いスーツ姿の男たちが室内に雪崩れ込んできた。
菫たちが応接セットのテーブル上、花瓶に活けてあったチョコレートコスモスを手に取る。濃厚な色の花弁は、乾いた血の色にも似ている。
思い掛けない敵襲だった。しかも今回は隠師に加えて、ここのところなかった人海戦術だ。最も素早く動いたのは、一人つまらなさそうに黒革のソファーに寝そべっていた瀧だった。獣のように俊敏に起き上がると、宙に何本もの線を引く。外界と室内を結界で切り離したのだ。続けて敵をまとめて結界に封じようとしたが、それを予め察知していたのか、スーツ姿の男たちも暁斎たちもてんでばらばらに散り、まとめることを困難にさせた。瀧が舌打ちする。
「バイオレットを崇めよ!」
「バイオレットを崇めよ!」
口々に叫び、拳銃H&KP2000を発砲する。菫以外であれば、誰に当たっても良いという、一種、狂気の沙汰とも言える行為だ。聞き覚えのある台詞に、玲音の信者か、と駿は見当をつける。そして恐らくは警察組織の人間。
チョコレートコスモスに囁く。
「天の横溢、魔の哄笑、日陰の冷涼、縛された鮮血。黒白」
「冠は捨てられた。羽は毟られた。英傑の咆哮に光あれ。王黄院」
自分の唱えた呪言の直後、響いた低い京史郎の声に駿は首を巡らせる。京史郎の目は既に銀滴主を持つ暁斎、唯一人を捉えている。その双眼に、敵意は見出せない。寧ろ、同胞に送るような感慨がある。なぜだろう。
菫たちもそれぞれの霊刀を顕現させていた。
「興吾、私の後ろにいろ」
「出来るかよ、莫迦」
各自、結界を張りつつ、銃弾を防ぎ、男たちを斬り伏せる。躊躇えば自分が死ぬ。菫はまだ、興吾に人を殺させたくなかった。だがその思いもこの状況下では甘いものと知る。銃弾を防ぐことに気を取られ、技の発動がしにくい。尤もそれは、男たちを従える樹利亜たちにも同様に言えたことで、菫は虎鉄と、樹利亜は興吾と、華絵は遙と霊刀のみで対峙した。駿は菫たちの援護に回るべく、男たちを屠りに掛かっている。
そして、それらの喧騒が嘘であるかのように、京史郎と暁斎は静かに佇んでいた。暁斎の張った結界は、菫たちよりも熟練したものであり、技の発動を含めた一対一の仕合を十分に可能にさせるものだった。
「お元気でしたか。暁斎さん」
京史郎が戦場に相応しからぬ挨拶をする。
「お蔭様で。美津枝はんのこと、聴きました。ご愁傷様です」
歪んだ笑みが京史郎の面を彩る。
刹那。
銀滴主と王黄院が打ち合った。しのぎを削る金と銀。
煌びやかに静謐に。華やかに澄明に。異なる二種の色合いの競演だった。
これは確定されていた未来。京史郎の胸中で幾何かの侘しさが湧いたが、彼はそれを斬り捨てた。同時に、銀滴主を弾く。飛び散る銀の飛沫。
「銀滴主。雨霰」
「王黄院。宙と和せよ」
銀滴を、双翼のような黄金が防ぐ。
暁斎が仕掛けた足払いを、京史郎は跳んで避ける。避けながら王黄院の翼の先が鋭利に伸びて暁斎の喉元を狙うが、銀滴主がこれを斬る。
「王黄院。陽炎埋め」
「効きません」
陽炎埋めは刀身を見えなくする技。しかし元来、目の見えない暁斎には効果がない。彼は元から、刃の発する気を視ることで戦っている。京史郎もそれは承知の上だ。
「気配すら、消えると言ったら?」
「――――」
京史郎は大言壮語を吹いた訳ではなかった。黄金の気配が消失する。暁斎は完全に、王黄院の刃を見失った。肩に次いで膝に裂傷が奔る。こうなればもう、勘で避けるしかない。もしくは。
暁斎は銀滴主を大きく振りかぶった。銀が結界内を満たす程に飛散する。彼の目論見を、京史郎が悟る。
再び切り結ばれる金と銀。正確には、銀を被った金と銀。
暁斎は銀滴を、透明化し、気配さえ消えた王黄院に付着させることによって、在り処を知る手掛かりとしたのだ。刃を受け、摺り流し、斬りつけ、逆をつく。足技も巧みに取り入れつつ、共に剣豪と言って差し支えない二人の戦闘は激化した。
「王黄院。加力密葬」
「銀滴主。雨霰。驟雨」
無明の闇。圧縮される空気。狭まる気道。
対するは即効性の毒。
しかしその毒すら、闇に吸い込まれる。暁斎は銀滴主の柄を強く握り締めた。
――――息が出来ない。
但し無明の闇は暁斎には陽炎埋めと同じく効果がない。彼は正確に、京史郎の居場所を把握していた。息が詰まったままで銀滴主を振りかぶる。確かな手応え。
京史郎が地に膝をつく。
「銀滴主。即毒明王」
この状態に至って尚、か細くも声を出せることが奇跡だった。即毒明王は対する相手を包む空気の全てを毒と化す。逃げ場のない致死の技だ。京史郎の身体がぐらりと揺らぎ、倒れる。
そして暁斎も倒れた。
即毒明王を放つ寸前、京史郎が投擲した王黄院の刃が、彼の胸元深くを貫いていた。
銀の結界が消失する。
虎鉄と闘っていた菫が真っ先に彼らに気付く。赤秀峰を弾き飛ばし、京史郎と暁斎に駆け寄る。二人共、瀕死の重態だ。戦えばどちらかが死ぬしかない二人が闘ったのだ。菫は恐慌状態に陥り、叫んだ。
「嫌……嫌だ、おじ様! 父さんっ。興吾! 興吾!」
樹利亜と仕合う最中の興吾に、答える余裕はない。父たちに何かが起きたのだと思うものの、樹利亜の精妙なレイピアの刺突相手に、彼は苦戦していた。襲撃者の男たちは菫には手出ししない。それを不幸中の幸いに、菫は興吾が座っていた華絵の席に走り、そこに置いてあった興吾のウェストポーチから黍団子を取り出した。そして、恐らくそれだけでは不十分だろうと思い、いつも肌身離さず持ち歩いている、紫水晶を取り出して噛み砕いた。霊波動の感じられる水晶はそれ自体が特殊な作りのようで、菫の歯は欠けることなく紫の輝きの粉末を口中に含んだ。じゃり……、という音がする。黍団子も千切り、口に含む。それらの作業を目にも留まらぬ速さで行いながら、菫は翔の存在を思い出していた。今までどうして忘れていたのかが不思議だった。
より危険なのは暁斎のほうだった。菫は暁斎の頭を膝に乗せると、口に含み、咀嚼した黍団子と紫水晶の欠片を、口移しで彼に与えた。次に京史郎にも同様の処置を施した。これだけではまだ不十分だ。霊力の供給が、二人共に必要だった。二人の男が、虚ろな目で菫を見ている。死を前にした形相だと思い、菫はぞっとした。彼らを喪うなど考えられない。
「銀月。銀月、頼む」
自らの霊刀を抱き締め、懇願する。銀月は主の声に応えるように、穏やかでやわやわとした銀の光を倒れている二人に降り注いだ。霊力の供与を、こんな形で成し遂げることは異例である。
京史郎は霞む意識の中で思った。
先を視る金。
そして菫は時を繰る銀。
視た先に従い、京史郎は暁斎に玲音の側に就くことを望んだ。残酷な頼みだと承知の上で、それでも望む未来の為に。暁斎は承諾した。
その果てに、暁斎は今日ここで、命を落とす筈だった。
だがその未来は菫によって変えられた。時を繰るということは、過去に限っての話ではない。未来の改変すら可能なのだと、思い知らされた。同時に、翔の存在を京史郎もまた思い出す。今まで忘れていたのは、暁斎の時間遡行の試みによる弊害か。そう考えたあたりで、京史郎の意識は途切れた。