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さよならへのカウントダウン

挿絵(By みてみん)

 誰かが今、自分の陥っている状況を俯瞰して見ているとしたら、愉快なのかもしれない。駿にはまだ、そんな想像をするくらいの余裕はあった。いや、一種の逃避だろうか。彼は言葉を濁しながら京史郎との通話を終えた。静馬にしろ京史郎にしろ、駿が奇異なことを言っていると思ったに違いない。そして駿は、そんな彼らこそが間違っているという絶対の自信をもう持たなかった。

 食パンを牛乳で胃袋に流し込み、簡単な朝食を済ませると、部屋を出る。吹き荒れ荘の軋むドアの音はいつも通りで、それが幾何か駿の心を慰めた。初秋の風の中を大学目指して走る。まだ世界の全員が翔を忘れたとは限らない。金の髪が思考をちらつく。

 いつもは女子学生ににこやかな笑顔と挨拶を欠かさない駿が、血相を変えて無言で構内を突っ切る姿に、学生たちは目を丸くした。空は今日も澄み切った青、清浄且つ正常な青だ。では自分はどうだ。研究室のドアを開ける。

 ――――いた。

 瀧が、華絵と歓談している。女受けしそうな笑顔に、自分もこんな風に見えるのかと思う。駿は無言で瀧の長い金髪の束を掴んだ。


「いたたたたたたっ」

「ちょっと来い」

「髪を放せっ。抜ける!」

「そんだけありゃ十分だろ」

「莫迦言うな!」


 廊下まで瀧を引き摺り出した駿は、ようやく彼の金髪を手放した。やや涙目になった瀧が頭を押さえて恨めしそうに駿を睨む。赤い目で睨まれると相応の迫力があり、駿は自分の所業を些か反省した。


「何なんだよ。俺は華絵ちゃんと話してたのに」

「お前は憶えてるよな」

「何を?」


 ここで駿は、それまでの勢いを失い、口を閉じた。

 胸に湧き上がったのは恐れだった。ここに至って瀧にまで、何を言っているのかという反応を返されたらどうすれば良い。今度こそ駿は、世界に独りきりの絶望的な疎外感を覚えるに違いない。そして己の正気を疑う。

 瀧が駿を黙って見ている。沈黙しても問いを発しても、彼から胡乱な眼差しで見られることに変わりないのであれば、当たって砕けたほうがまだましというものだ。


「神楽翔。……憶えてるか」

「誰、それ」


 奈落に突き落とされるとはこういう気分を言うのか。駿は絶望的な目で瀧を見返した。


「なーんてね」

「……は?」


 にやりと瀧が笑う。


「憶えてるし知ってるっつったろ。少なくとも現時点で、俺とばあさんはな。村崎君があんまり乱暴なんで、ちょっと意地悪してみましたー」

「お前――――」


 脱力して、駿はその場にしゃがみ込む。同じく目線を合わせるようにしゃがみ込んだ瀧が、その肩をぽんぽんと叩く。


「あれだろ。さしずめ、他にぜってー憶えてそうな人が忘れてたとかって落ちだろ。うんうん、怖かったなーそりゃ。あんたが女だったらここで懇ろに慰めてやるんだけどねえ」


 瀧の態度に安堵したのは事実だが、腹が立ったのもまた事実で、駿は赤い双眸をじろりと睨み上げた。一方で、俺もこんなちゃらいのかと思い、日頃の自分の態度を省みた。


「ふざけんなよ金髪野郎」

「こっちの台詞だ。ちょっとばかり年上だからって威張るなよ、村崎君。俺は巫術士の世界じゃ(かしず)かれる立場なんだぜ。乱暴無礼、極まりない態度を取られりゃこっちだって不愉快だ」


 麒麟児、という言葉を思い出す。同時に、瀧の高い矜持を思い知る。どいつもこいつも、と駿は思う。実力者なんてのに碌なのはいない。天まで届かんばかりのプライドの高さに辟易させられる。その点、暁斎や京史郎、鶴などはまだしも大人であったのだとつくづく感じ入ってしまった。

 瀧の目立つ金髪をわざとぐしゃぐしゃ掻き混ぜる。


「はいはい、そりゃ悪うございましたね、お坊ちゃま」

「わわわわ、セットが乱れる!」

「一つに結んでるだけじゃん」

「これでも髪の流れ具合とか分け目とか計算してんだよ。もう」


 こうやって身なりを気にするあたりも鏡を見ているようで、駿はげんなりした。

 ともあれ、神楽翔の存在を証言する存在がいたことに、救われる思いだったのも事実だ。だが現状、瀧の記憶でさえいつまで保持されるか保証はない。昨日まで憶えていた静馬が、今朝になったら忘れていたように。掌の、指の隙間から滑り落ちる記憶の砂は、次は誰の番になるか解らない。駿自身でさえ絶対に忘れないとは言い切れないのだ。巫術士はあらゆる呪術に精通しているがゆえ、術の作用した時の変容にも敏感だ。だからこそ、鶴も、そして瀧も記憶を保っていられるのだろう。


「あーあ。でも残念だよ。憶えてるのが俺とあんたでさ。これが菫ちゃんか華絵ちゃんと俺だけってんなら、二人だけの共通認識、愛が芽生える恰好の機会だってのに」

「例えそうだとしても、二人共、脈はないぞ」

「どうして」


 言いたくないなと思いながら、話の流れ上、渋々、駿は答える。


「菫は暁斎さんに惚れてる。華絵さんは神楽翔のことを今でも想ってる。彼のことを憶えてたなら尚更、お前に靡く筈がねえ」

「へーえ。そりゃ残念。折角の美人さん二人が、悲しい恋だねえ」

「だからさ、お前、あんまり二人に馴れ馴れしくすんな」


 瀧の目に面白がる光が宿る。


「何それ。牽制? 忘れさせてやれば良いじゃん。悲しい恋ならさ」


 それとも、と金色の頭がわざとらしく斜めに傾く。


「あんたが菫ちゃんを独占したいってエゴ?」

「安心しろ、脈は全くない。今のところ」


 瀧の挑発には乗らず、駿は乾いた声で否定した。今のところ、どころか、これからもずっと、の線が濃厚だ。

 瀧もそれ以上は追及せず、どちらからともなく研究室に向けて歩き出した。無駄口の限度を弁えているのは瀧の美点だ、と駿は思った。




 柱時計の音が響く。

 暁斎は気怠く身じろぎした。心身の力を根こそぎ使うかのような度重なる試みが徒労に終わったことは、暁斎の疲労感に追い打ちをかけていた。まだ諦める積りはないが、玲音の呪言がほぼ完成形である以上、一点で遡行不可になっていることへの打開策は今のところない。銀であれば。そして介添えする呪言があれば、時を自在に行き来出来ると考えていた。

 起き上がり、浴衣からサイドテーブルに置いてある黒の単衣に着替える。帯を締めると、気も引き締まり、疲労感が心持ち拭われる。

 ノックの音に返事をする。足音から気付いていた。樹利亜だ。


「安野暁斎。玲音が呼んでるわ」

「解りました」


 用件を告げた樹利亜は、立ち去ろうとしない。しなやかな足取りで暁斎に近づく。甘い香り。樹利亜の香水だろう。

 そ、と肩に手を置かれる。


「遙も貴方も。そんなにバイオレットが好き?」

「君には関係あらしません」

「そうでもないわ」


 耳のすぐ横で声がする。吐息の甘さを、自覚しているのだろう。しなやかな指が暁斎の唇をゆっくりと撫でる。くっ、と嗤った暁斎がその指を甘噛みすると、樹利亜は驚いたように手を引っ込めた。


「僕を誘う割りに、心の準備はまだまだのようですね。遙はんへの当てつけですか」

「……案外、獣なのね」

「関心のある対象には、そないなるかもしれませんね。因みに樹利亜はんは違います」

「やっぱり悪い男」

「自覚はあります」


 樹利亜が一歩、二歩と暁斎をベッドのほうに押し遣る。暁斎もあえて抵抗せず、圧されるがままになっている。絡みつくような香水には、実は閉口していた。目が見えない分、嗅覚が人より過敏なゆえだろう。

 あと少しでベッドに至る、というところで、暁斎は僅かな腕力を以て樹利亜を壁に押し付けた。驚愕、そして怯えの気配が伝わる。暁斎は子供を甘やかさない主義だ。冷えた心のまま、樹利亜の唇に自分のそれを押しつけ、強引に割り開いて舌を入れ込んだ。抵抗する力は、その気になれば簡単に封じられる。樹利亜の口中を貪り、蹂躙しながら、彼女のブラウスのボタンに手を掛けて引き千切らんばかりに乱暴に外す。

 抵抗が激しくなるかと思いきや、樹利亜は暁斎に自分の胸を押しつけてきた。物を映さない暁斎の、薄紫の瞳が樹利亜の顔の前にある。恍惚として痺れを感じると共に、いつまでも離れない唇に、次第に息苦しくなり、ついにはもがき始めた。暁斎と樹利亜の間に空間が開く。呆気なく行為を中断した暁斎に、樹利亜は悩ましいような口惜しいような気持になった。暁斎は虎鉄より遙より容赦なく、その上醒めていた。


「あたしがバイオレットだったら、止めなかったの」

「さあ、どないでしょう」


 樹利亜は気付くと暁斎の頬を張っていた。暁斎は一切動じず、ぶたれた頬を触ることもない。薄紫の瞳は乾いて、冷えている。

 暁斎がドアに向かう。歩みながら樹利亜に背中で語り掛ける。投げるように。


「大人をからかうと痛い目に遭いますえ。ほな」


 ドアの閉まる音を聴きながら、樹利亜の背中は壁をずるずると滑り、床に蹲った。微かに震える二の腕を掴み、唇を引き結んだ。

 舌にはまだ、暁斎の味が残っていた。



「呼びはりましたか」

「ああ。遅かったね」

「仔猫にじゃれつかれましてん」

「ほう」

「少し遊んだりました」

「程々にしておきたまえよ」

「はい」


 事情を薄々、察した玲音が苦言を呈するのに、暁斎はにこやかに返事した。

 彼の簡素な私室の中、いるのは暁斎と玲音だけだ。


「遡行が頭打ちの現在、バイオレットたちへの干渉を再開しようと思う」

「総力戦ですか」

「そうなるだろう。兵隊も使う。もちろん、参加してくれるね?」

「はい」


 答えながら暁斎は京史郎の言葉を思い出していた。

 先を視る金の予言を。

 これは定められていた未来。京史郎が来る。


 自分と闘いに。

 自分を殺しに。




表紙絵は美風慶伍さんより。

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