バベルの塔
酔って笑って、挙句、寝てしまった菫を駿がおぶり、興吾と一緒にアパートまで送り届けることとなった。俺が送っても良いけど、と申し出た瀧の言葉は駿の一瞥、興吾の拒絶でなかったものとされた。瀧は首を竦め、大学近くに借りたという下宿先に帰って行った。華絵は例の如く自宅から車を呼んでいた。
本当なら自分で菫をおぶって帰りたかったのだろう、と駿は興吾の心境を推し量る。けれど体格差がまだそれを許さない。口惜しそうな視線を時折、駿と菫に投げ掛けながら、興吾は大人しく隣を歩いていた。夜道はもう、彼らには慣れたものとなっている。
たまに通り過ぎる車のライトと走行音が、駿たちを夜の世界に浮かび上がらせていた。
「変なとこ触るなよ」
「変なとこって?」
「胸とか尻とかだ!」
「はいはい」
興吾の念押しに、殊勝に駿は頷いておく。実際のところ、菫の柔らかな身体の感触は、おぶっているだけで駿に至福をもたらしていた。
「田沼瀧と何を話した?」
これだからな、と駿は内心、苦笑する。年少者特有の性急さと率直さで、興吾は駿を逃そうとしない。何も触れなかった華絵との、生きた年月の差がそこに表れる。
「世間話だ。巫術士と隠師の」
「神楽翔って誰だ。華絵に訊かれた。知らないかと」
「――――」
やはり興吾も忘れている。
そしてそれらしい言い方で遣り過ごそうとするのに、鋭い興吾は話の核心を突いてくる。お前の忘れた兄、惨殺された兄だと言ったところで到底、信じられる訳もあるまいに。
だから駿は簡潔な事実だけを告げた。
「十年前に死んだ男だ」
横を行く車のライトが、興吾の紫を反射する。やや大きな紫。
「神楽家の縁戚か」
「そうだ」
「……記憶にない」
「十年前だからな」
「華絵も知らなかった」
「御倉に神楽家の全てが筒抜けな訳じゃない」
「誤魔化すな。御倉と神楽は家ぐるみの付き合いがあった。……ある時まで、は……?」
興吾が自分の咽喉を押さえる。眉間に皺を寄せ、自身が言った言葉が不可解なものであるかのように。心の内に生じる違和感。何か違う。何かがおかしい。けれど何がおかしいのかが解らない。もどかしさで息苦しくなるくらい。
混乱する興吾を、駿は横目で見ていた。記憶の欠落が全ての要因だ。ここで真実を告げたところで、それは興吾にとって新たにもたらされた情報にしか過ぎない。血肉に沁み込んだ強い想念は今、暁斎の行動によって濁流に舞う木の葉の如く脆いものとなっている。
「興吾。いずれ全ては修正される。それまで待て」
修正。自分で口にした言葉だが、駿には確信がなかった。正しさとは何かという最も基本的な疑念。それが彼を支配していた。歴史認識の正誤の鍵を握るのは暁斎だ。興吾や菫たちに起きている記憶障害は、暁斎の望むところではないだろう。暁斎が本懐を遂げた時、万一そんなことが有り得るのなら、翔の記憶は存在と共に菫たちに戻される。今に連なる存在、命として。
児童養護施設ではなく、御倉のように、神楽家と近しい位置にいる人間でいたかったと駿は思う。十年前の自分はまだ子供で、近しかったからと言って何が出来たとも思えない。けれど、菫の傍にいたかった。翔の悲劇を、我が事のように感じたかった。涙を拭うぐらいは出来ただろう。手を握るぐらいは出来ただろう。
今でさえ。
十年前に比べて掌は大きく、その皮膚は固く厚くなった今でさえ、自分が菫にしてやれることはほとんどない。駿は銀ではない。暁斎のように禁を犯し、命を懸けてまで菫に平穏な過去を与えてやることも出来ない。暁斎を連れ戻すことすら困難だ。もしも菫が駿を求めてくれたなら、多少なり、存在意義は大きくなっただろう。けれど菫が求めるのは暁斎唯一人だ。愚直な程に。莫迦だと思う程に。背中を覆う、熱い感触に胸中で語り掛ける。自分にしておけよと。何度断られても、駿に言える言葉はそれしかないのだ。
ぎゅ、と首に回された腕に力が籠められて、駿は目を見開く。首筋が、雫に濡れる。
「おじさま……」
「――――菫」
違う。菫。俺は暁斎さんじゃない。
暁斎さんじゃない。
あの人は諦めろ。空の星に手を伸ばすようなものだから。
駿は奥歯を強く噛んだ。空の星でも。
行ってしまうのが人の心だと思いながら。
小鳥の囀りが聴こえる。
蜜蜂の羽音も。花の香り。そしてそれを上回る血の臭い。
これは、と暁斎は思う。これはあの日だ。時の旅の目的地。終着点となる場所。翔の命が喪われたあの日。血の臭いがするということは、惨劇は起きたあとだ。近くに茫然と立つ菫の姿が感じられる。
違う、と暁斎は思う。惨劇の前だ。自分の目指したところは。これでは時間を経過し過ぎてしまっている。もっと過去に遡らなくては。
暁斎は時空の波間に戻り、玲音に指示を出す。少々、焦れた声になった。
「もっと前です、玲音司祭」
「今、呪言を調整している」
暁斎は手繰り寄せようとする。より深い過去を。尋常でない集中力と精神力を以て。体力の消耗も並みではない。
玲音の呪言が聴こえる。時を掻き混ぜる要領で手を伸ばす。時空の裂け目を作る。
小鳥の囀り。蜜蜂の羽音。花の香り、血の臭い。
遡った筈が同じ地点に戻ってしまっている。なぜだ。
もう一度。何度でも。
暁斎のこめかみからは汗が伝い落ちている。大きな負荷に息が荒い。
何度でも暁斎は挑み続けた。しかし時の女神が無慈悲に彼を拒絶するように、どうしても求める時まで遡ることが出来ない。不可避の事実を突きつけられるように。
銀は時を繰るのではなかったのか。
これでは、他の時に飛べても意味がない。
それでも疲弊した身体に鞭打つように、暁斎は時間遡行の試みを止めなかった。命を削る積りかと玲音の呆れ混じりの忠告も聴かなかった。
届かない。空の星のように。
手を伸ばしても。
(菫はんは、泣くんか……)
どうあっても。それが彼女の宿命なのか。忌まわしい縛めから解き放つことすら出来ず。暁斎は己の無力を嫌と言う程、思い知らされた。凡そあらゆる不可能を可能とするかに見える超人的な男が、報われない切望に呻いた。
時はまるで気紛れで我が儘な少女のようだ。鷹揚に変化を受け容れるかと思えば、これ以上は許さないと頑強に拒む。その拒絶は冷酷で、人の意志を顧みない。
暁斎は玲音の交換条件を実行した。実行しつつ、それが現在にまで影響を及ぼさないよう、根回しした。暁斎の目論見が潰えた時点で、玲音も薄々、察していたのだろう。暁斎が結果的に反故にした約束事項についてとやかく言うことはなかった。
それでも暁斎はまだ、一縷の可能性を思い、玲音の傍を離れなかった。時を窺っては遡行を試みた。何度も何度も。京史郎との約束を果たす為にも、簡単に屈する訳には行かなかったのだ。
吹き荒れ荘の自室で、いつも通りに目を覚ました駿は、しばらく天井の木目を眺めていたが、やがて起き上がるとスマートフォンを手に取った。数回の呼び出し音のあと、相手が出る。
『はい』
「静馬。忍さんに話は聴いたか? 当分の間、神楽翔のことを菫たちには話すな。その内、自然と記憶が戻るかもしれない」
『…………』
「おい。何とか言えよ」
『それはこちらの台詞だ。何を言っている、駿』
「はあ?」
『神楽翔とは誰だ』
「お前――――」
『神楽家の人間か? 僕の記憶にはないが』
駿は引き攣った笑みを浮かべる。まさか。
「冗談だろ?」
『冗談は君のほうだろう。そんな作り話をする為に電話してくる程、暇なのか』
「……十年前の事件を忘れたのか」
『意味が解らない。切るよ』
通話の途切れたスマートフォンを握り締め、駿は茫然とした。自分の周囲から一人、また一人と神楽翔を知る人間が消えて行く。二の腕が鳥肌立っていることに気付く。何なんだ、これは。暁斎の行為のせいで、ここまで人の記憶が変容してしまうものなのか。ぞっとした。バベルの塔のようだ。踏み込んではならぬ神の領域を荒そうとした為に起きた天罰。自分以外は意味不明の言葉を喋る。いや、バベルの塔以上に恐ろしいのは、自分を除く人間にはそれが共通言語、共通認識となっている点だ。誰か。自分の言葉が通じる人間はいないか。駿は忙しなく思いを巡らせた。まるで南極に置き去りにされた犬のような心地。最も辛いのは、菫とさえこの感覚が分かち合えないことだ。怪訝そうな顔で、神楽翔とは誰だ、と再び言われることを駿は恐れた。精神的に駿は追い詰められていた。世の中にはこんな恐怖もあるのだ。
藁にも縋る思いで彼が掛けた電話の相手は京史郎だった。父親が、死んだ我が子を忘れる筈がない。
(頼む)
やがて低い声が通話に応じる。
『もしもし』
「神楽さんですか。朝からすみません。村崎です」
『何の用かな』
こくり、と駿は咽喉を鳴らした。何を解り切ったことを、という反応を期待して尋ねる。
「神楽翔さん。……もちろん、ご存じですよね」
数秒間の沈黙がやけに長く感じられた。
『…………一体、誰のことを言ってるんだね』
訝しむ声を聴いた時、真っ黒な緞帳が世界に下りた錯覚がした。