悪い男
汚濁は呆気ない程容易に片付いた。遙たちが姿を見せず、妖怪も倒したあとであれば、汚濁を滅することに集中出来、改めて敵対する隠師の存在の有無で戦局が左右されることを、菫たちは認識した。
この安楽な勝利に一役買った瀧を見れば、お腹を押さえている。負傷したのかという一抹の不安は、次に彼が発した言葉によって払拭された。
「腹減った……」
「研究室に担担麺があるわよ。伸びて冷めてるけど」
「華絵ちゃん、それ酷い」
「あんたが勝手に消えてたんでしょうが。出前取っておいただけでも感謝なさい」
「コンビニに買い出しに行こうか」
妥協案を提示したのは菫である。夕食は済ませたが、甘味ならまた入るところが違う。瀧の食糧を調達しがてら、お菓子を買い込むことを菫は考えた。
駿が手を挙げる。
「俺、呑みたい」
「じゃあスーパーか? 教授の酒のストックもそろそろ切れるだろう。ついでに肴も買うと良い」
「俺、呑みたい」
「興吾。村崎の声真似までして便乗するんじゃない」
「良いねえ。仲良いねえ」
褒めているのか呆れているのかいまいち測り兼ねる声音で称する瀧を伴い、一行はスーパーへと足を向けた。その途中にも瀧の腹が大音声を鳴らして空腹を訴え、皆の視線が集中した。真紗女との一戦は瀧からエネルギーを大量に奪っていた。終始、優勢を保ったかに思える戦いだったが、瀧にしても、真紗女を仕留めるのは難儀だった。止めに見越入道を結界に封じ消失させた。尋常でない霊力を有する遣い手でも、消耗はするのだ。
スーパーで食糧と嗜好品を買い込み、研究室に戻った菫たちは、瀧の歓迎会も兼ねて白ワインの栓を開けた。牡蠣弁当を瀧がかき込む横で、スモークチーズと裂き烏賊などを肴に呑む。お題目は何でも良いのだ。瀧の歓迎は大っぴらに呑む格好の口実だった。弁当を平らげたあとは瀧も呑みに参加し、酒豪振りを発揮した。一人未成年の興吾が面白くなさそうな顔で、鬱憤を晴らそうとするかのような勢いで肴とポッキーやチョコレート、プリンなどの甘味を次々に食べていた。
胃袋がある程度落ち着いたあとは、呑みながらの七並べに興じた。
頭脳と駆け引きでゲームに臨む瀧と駿に対して、菫は直感で、華絵は飽くまで娯楽として鷹揚な態度で、興吾は計算高くと、それぞれの性格が表れる姿勢で楽しんだ。
有利な持ち札を持つ人間の、底意地の悪さが露見するこのゲームにおいて、瀧は限られたパスを有効に使い、出す札が無くなって音を上げる人間が出るのを待つなど、Sの性質の強いことを証明した。
「ちったあ手加減しろよ、新入り」
「ふうん。クラブの10を止めてるのは村崎君かな。人のこと言えないだろ」
「良いからハートのエースを出しやがれ」
「パス2」
「この野郎」
「俺もパス1」
「興吾おおお」
寄ってたかって、駿を日干しにする算段らしく、少々哀れを覚えないでもなかったが、菫もまた厳かに宣言した。
「パス1」
「菫ええええええ」
華絵は早々にゲームから降り、優雅にグラスを傾け、くすくすと笑っている。ほんのりと上気した頬と、いつもより濃く染まった唇が色っぽい。
夜が更けるまで宴会は続いた。
ベッドに横になっていた遙は、耳に吐息を掛けられて目を開けた。
首を巡らすと至近距離に樹利亜の顔があった。悪戯そうな笑みを浮かべている。その笑みのまま、彼女の細い手がパジャマの襟元から侵入しようとしたのを防ぎ、遙は樹利亜を軽く睨む。扇情的な赤いワンピースはスカート部分が絹地とシフォンの重なりで構成され、街着としても華やかで、見ていて涼しくなる程露出が多かった。
「鉄とやりなよ。そういうことは」
「あたしは遙とが良いの」
そう言って遙の耳朶を甘く噛み、ねだるように頬を舐める。振り払い、遙は起き上がった。起き上がると同時に樹利亜の細い手首を掴んで引き倒す。ベッドの上に。上下が逆転して遙が狩人の側となる。
「僕がいつまでも紳士的に振る舞えると思うな」
一瞬だけ、樹利亜の目に怯えの色が奔った。しかしそれはすぐに恍惚とした期待に代わり、熱っぽく潤んだ。本当に襲ってしまおうかと遙は束の間、考える。樹利亜は容姿に自信のある女性にありがちな高慢さで、どこか男を甘く見ているところがある。虎鉄は荒っぽく見えて優しい。樹利亜に接する時も、彼女の居丈高な振る舞いを大目に見てやっているのだろうと想像がつく。そんな男ばかりではないと。男の本性は所詮、狼に過ぎないのだと、自分が教えてやればこの先の樹利亜の態度も改まるだろう。
だが遙はその思考をすぐに放棄した。面倒だし、柄じゃないと感じたからだ。
「冗談だよ」
樹利亜から離れ、彼女の身体を起こす。樹利亜が溜息を吐いた。無念ゆえか、安堵ゆえか。
戯れに、本命でない女性と寝るなど真っ平だ。では本命となら良いのかと考え、遙はそこで思考停止する。自分が菫とそういう関係になるなど想像出来ない。初心で純真な気質の遙らしい結論だった。何より菫は、暁斎を恋うている。自分を裏切った男。自分を殺し掛けた男を。
ベッドの縁に腰掛けた樹利亜が、乱れた髪を手で直しながら言った。
「真紗女が帰らないわ」
「真紗女が?」
「やられたのかも」
「まさか」
同胞として、真紗女の実力の程はよく知っている。簡単に敗れる彼女ではない。
樹利亜が肩を竦める。
「巫術士を敵に回したのはまずかったわね。彼女、力がある分、早まったのよ」
「巫術士の仕業なのか」
「田沼瀧。巫術士の長の孫息子が、バイオレットたちに迎合したようよ」
「彼と闘ったのか」
「恐らくは。相手は天才の誉れも高い巫術士。生死も怪しいわね」
「玲音は何て言ってるんだ」
「待機。あたしに見越入道を仕掛けさせることだけ指示して、あとはただ待つようにと。悠長な話だわ」
「今回、僕たちに戦闘の命が出なかったのは、安野暁斎との目論見が関係しているのか」
「そこまではあたしも知らないわ。玲音と安野暁斎が陰で何かこそこそやっているのは知ってるけど」
遙は思い出す。菫や興吾の面影がある青年。
菫に逢えと呼びかけた暁斎。時を繰る銀。
変えたい過去があると言った。暁斎の変えたい過去は遙にも察しがつく。彼に手を貸すのと引き換えに、玲音は何を望んでいるのだろう。
「安野暁斎って良い男よね」
「悪い男だよ」
「そこも含めて良いって言ってるの。誘惑しちゃおうかしら」
「すれば?」
樹利亜が鼻白んだ顔になる。それを見ながら、遙はどうせ暁斎は靡かないと確信していた。
彼が靡くことが有り得るとすれば、それは一輪の菫の花相手だろう。胸の痛みと共に、遙はそう思った。
「あはははははっ!たっきーゲーム強っ」
七並べで早々に勝者となった瀧の背中を菫がばんばんと叩く。振動で金色の尻尾のような髪が揺れている。菫の笑い上戸を知らない瀧は目をぱちぱちさせている。
「え。何これ。月光姫って酔うとこうなるの?」
「笑い上戸なのよ」
一人悠然と観戦しながら呑んでいた華絵が微笑む。テーブルの盤上では駿と興吾が熱戦を繰り広げている。瀧の次に七並べを抜けたのは菫だった。酔いも相当回っていただろうに、彼女は天性の勘と運の良さで、駿たちの頭脳プレイに勝利したのだ。
やがて駿と興吾の熱戦にも決着がつく。敗者となったのは駿だった。小学生に負けた、と落ち込み、自棄酒を呷る駿の肩を、瀧がとんとんと叩く。自分に向いた酔眼に、視線で廊下に出るよう促す。駿の酔眼が見る間に醒め、彼は頷いた。二人連れ立って室外に出る駿たちを、興吾の紫の目が追う。華絵の様子を窺うと、彼女は興吾に静かに首を振って見せ、詮索するなと意思表示した。
菫はまだ笑い転げている。
電灯の少ない夜の廊下は薄暗く、虫の音が微かに聴こえてくる。廊下突き当りにある窓硝子の向こうは完全に夜の世界となり暗く沈黙し、家の灯がちらほらとその沈黙に彩りを添えている。
瀧の金髪も、夜闇に光るようだった。
白髪にしろ金髪にしろ、異相の髪は発光体みたいだな、と冗談半分に駿は思う。どことなく引け目を感じるのは、今は遠い暁斎の存在ゆえだろうか。菫の中では、暁斎の風貌は現在でも特別な光輝を背負っているのだろう。疎外の要因とも成り得る異相を、どこかで羨む自分がいる。
「で? 何の用だ?」
「神楽翔が肉親にすら忘れ去られている原因について」
「――――何か知ってんのか」
「ばあさんから言付かった。単刀直入に言おう。安野暁斎が時に干渉しているせいだ」
「暁斎さんが? 時に干渉ってどういうことだ」
「時を繰る銀。銀の霊刀を持つ者は時を超えることが出来る。ぼちぼち、気付いてる人間はいるよ」
「……夢物語だ」
「じゃあ、今、起きている記憶の混乱を君はどう説明する?」
「……暁斎さんは、何の目的で」
「変えたい過去があるんだろう。摂理を曲げてでも救いたい命があるんだろう。そうすることで、守りたい心があるんだろう」
そう言う時ばかりは、瀧は真面目な面持ちで、口調には人間らしい温もりがあった。
菫。
唐突に、駿に奔流のように理解の波が押し寄せた。暁斎が離反した理由。時を超える理由。それら全ての行動は、ただ一人の存在に集約される。心を奪って。殺し掛けて。泣かせて。散々、翻弄して。
それでもあの孤独な男は菫を愛しているのだと。
敗北感のようなものを伴った、確信が駿の内に芽生えた。
自己犠牲と呼ぶのは容易いかもしれない。けれど単身、敵陣に身を置き、同胞から裏切り者の烙印を押され、命すら危険に晒し、彼は沈黙を守りながら自らの目的の為にひた走っている。
(暁斎さん)
今目の前に、暁斎が立っていたとしたら、その肩を掴んで揺さぶり、だがきっと何も言えず、自分は俯くのだろうと駿は思った。暁斎は、そんな駿に涼しい顔で尋ねるのだろう。どないしはりましたか、村崎はん、と。
「誰かが止めてやらないと、ああいう男は死ぬまで止まらないよ」
瀧の横顔の輪郭が急にくっきりした気がした。
冷静だが暁斎に情を掛けるような声音に、駿も内心で頷く。
既に時の綻びは生じている。正しさの境界線さえ曖昧で。
暁斎を連れ戻したいと駿は痛烈に思った。孤独に冷え切った心を、このぬるま湯のような場所に浸らせて、溶かしたいと。