赤いリボン
真紗女は自分の作りだした結界の中で寛いでいた。
野山が見渡せる田舎の景色。そして流れる川の縁には石が積み上げられている。無数の石の重なりの塔が、結界内の眺望を長閑の一色に染め切らなかった。平和と荒涼の共存。風車が回る。くるくると。幾つも並ぶそれらは数えることが困難な程に多い。
口減らしという言葉がある。
貧しい農村などで、生まれた子供を食糧保持の為に殺す。そうした行為だ。
真紗女は嘗てそうして殺されかけた。だが何の偶然の巡り合わせか、玲音に救われ、隠師としての価値を見出され、そして今、ここにいる。結界術に特化したのは、真紗女の高い矜持を満足させた。
手にした風車に息を吹きかけ、彼女は機嫌よく草原に足を投げ出していた。
「まーさーじょちゃーあん。あーそびーましょーお」
降って湧いた声は、全くの不意打ちだった。緊張に身を強張らせて声のしたほうを向くと、そこには長い金髪、赤い目の男が立っていた。
迷彩柄のシャツが、この空間にそぐわない。右耳のピアスも、真紗女の気に入らない。
けれど最も真紗女が気に入らないのは、自分が張った結界に、無断で、それも自分にすら悟らせずに侵入されたという事実だった。小さな身体が戦闘に備えて構える。手の風車は彼岸花に変わっていた。
「誰」
「田沼瀧。憶えてないかなあ?」
田沼瀧。
真紗女ちゃんは凄いね。
称賛に輝く瞳は赤くて、何かの宝石みたいだと思った。
「君、一時期、結界術を学ぼうと、うちに潜り込んでたでしょ。ばあさんの開いてた、一族向けの結界術教室。あのばあさんが、よく目こぼししたもんだよ。それにしても見た目が変わらないねえ。不思議不思議。まあ、そのへんの不思議はこの業界、ざらだけどさ」
「思い出した。田沼鶴の不詳の孫」
「その言葉には語弊があるんじゃないかな。俺は優秀な巫術士だよ」
「才能の無駄遣いと素行の悪さで鶴を度々、嘆かせていた。天下の巫術士の長も、孫息子には甘いらしい」
「そう。それで今はこうして、祖母孝行をしている訳さ」
「面白いわね。先手を打って奇襲を掛け、私を殺す積りかしら」
心に僅かばかり、射した翳りを真紗女は無視した。無用な情は己を殺す。殺さない為には情を殺す。それが真紗女の哲学だ。
瀧がに、と笑う。快活な、やんちゃ坊主のような笑顔。
「ご名答」
「縛瞬の候。千代萌葱」
芽吹く緑を思わせる刀身の、小刀が真紗女の手に顕現する。
対する瀧は丸腰だが、千代萌葱を見ても動じる気配はない。
「得物なしで隠師と仕合うの? 幾ら天才巫術士と名高い貴方でも、ちょっと驕慢が過ぎるんじゃないかしら」
「どうかなあ」
千代萌葱を手に突進する真紗女は、一匹の俊敏な野生動物のようだった。
瀧は避けようともせず、かと言って反撃の姿勢を取る訳でもなく、自然体で立っている。
萌葱色が瀧の腹部を刺す前に、真紗女の手にぐにゃりとした手応えがあった。瀧の手が、千代萌葱の前にかざされている。その手と千代萌葱の間に、不可視の厚い壁がある。結界術の応用だ。
一旦、退こうとした真紗女の首に、細くて赤いリボンが巻きつく。
これも結界術の一。
守ではなく、攻の。練り上げた結界を具現化し、武器を生成する。空論の産物のような現象を、瀧は現実のものとしていた。真紗女が退こうともがけばもがく程、赤いリボンは首を締め付ける。千代萌葱でリボンを切断し、ようやく彼女は拘束から逃れた。
「千代萌葱。小春日和」
靡く草原。そのまま瀧を窒息しさせかねない勢いの緑の海。
だが瀧の周囲だけ、球状の空間が出来、瀧は平然としてその中に立っている。
「無駄だよ、真紗女ちゃん。ねえ、巫術士って言うのはね。技を極めれば隠師よりも強いんだ。自分で言うのも何だけど、その巫術士の世界で、麒麟児と言われた俺に、君が敵う筈がないんだよ」
「黙れ。千代萌葱。燦々叫喚」
「だから無駄だって」
信じ難いことに、瀧は宙に四角い線を引くと、その中に極小の熱の塊を封じ込めてしまった。その封じ込めた結界を、脚でサッカーボールのように蹴って弄ぶ。その行動は真紗女の自尊心を著しく傷つけた。
宙を舞い、瀧の背後に回ると、千代萌葱でその首筋を狙う。今度は瀧は結界を使わず、腕でそれをいなした。いなしながら、真紗女の頭部目掛けて痛烈な蹴りを放つ。打撃を殺すように左腕で頭部を庇った真紗女だが、瀧の蹴りの威力は大きく、左腕が嫌な音を立てるのが聴こえた。骨が折れたのだろう。
結界術と体術を織り交ぜた攻守の技は、打ち崩すのに至難と思えた。
真紗女もまた、結界で応じるべく、右腕を動かした。瀧を囲む檻の結界を張る。
しかしそれも、瀧が人指し指でちょんと突いただけで霧消した。わざとのように、瀧が小首を傾げて見せる。さも不思議だと言わんばかりに。
「真紗女ちゃん。こんなに弱かったっけ? 昔馴染みとしては張り合いがなくて悲しい限りだよ」
「いつまで減らず口が利けるかしらね」
瀧の赤い目が大きくなる。
真紗女の張った結界内。瀧を中心として、幾重にも張り巡らされた強固な結界の存在に気付く。それはまるで瀧を絡め取る蜘蛛の巣の如く。
「おっと。これはやばいな」
全く危機感を感じさせない声で、瀧がそう言うと、赤いリボンを再び閃かせた。
くるくると、遊戯のように回転するリボンは、鋭角の空間を生み出し、その切っ先を真紗女の張った結界に向ける。鋭角の結界が、真紗女の結界を貫き通す。硝子が幾重にも割れるような音が響く。赤いリボンは流れるように優美な軌跡を描き、瀧の手に納まった。
結界と結界を衝突させた場合、より強固に張られた結界が片方を破損させる。つまりこの結果は、真紗女と瀧の結界術の実力差を表わしていた。
真紗女はその結果を無表情に見ていたが、その実、腸が煮えくり返る思いでいた。
ろくな修行もしない、才能だけに胡坐を掻いた男。そうと見せかけて着実に力を得るべく研鑽を積んで、瀧は今ここにいる。鶴の後継と目されている彼の実力は、疑う余地がない。しかし真紗女にも譲れぬ思いがあった。
「千代萌葱。闇行遍路」
読経の音が瀧の耳に雪崩打って入ってきた。墨染の影が彼をぐるりと取り巻いている。陰々滅滅とした低い声は、それ自体が呪いだった。影は徐々に瀧に迫っていく。結界をも、ものともせず瀧に密着する。呪いの声は止まない。影たちがそれぞれ手にした錫杖を高く掲げ、瀧目掛けて振り下ろした。
「あいつ、どこ行った?」
大学の文学部棟、持永研究室。学校帰りに立ち寄った興吾は見越入道の話を聴き、瀧を紹介された。うすっぺらい笑顔、軽い態度に駿に似たものを感じた。薄い、軽いと見せ掛けて、内実はそうでもなさそうなところも。
「さあ。夜になれば戻るんじゃない? それより出前、どうする?」
「ラーメン喰いたい」
「俺、チャーシュー麺」
「餃子も欲しいな」
菫たちは瀧の不在を余り気にせず、出前のメニューを口にした。
「じゃあ、電話するわよ。ああ、瀧って子の分、どうしようかしら」
「担担麺とかでよくね?」
「伸びる前に帰ってくれば良いんだけど。男ってやあねえ。風来坊で気儘なんだから」
華絵が研究室の電話の受話器を取りながら愚痴をこぼす。
室内の男である駿への当てこすりもあるのだろうが、そんなことを一々気に掛ける駿ではなかった。興吾は、自分はその範疇外だと思っている。
中華の出前を堪能し、皆で一息ついて、緑茶を飲んでいる時になっても、瀧は戻ってこなかった。赤い汁の中、冷めて伸び切った担担麺が寂しげに置かれている。流石に菫は彼を心配したが、他の面々はそれ程、瀧を案じる様子がなかった。
「巫術士の長の孫息子。麒麟児だろ? あいつの噂、聴いたことある」
「鶴さんが菫に娶せようとしたのも、さしずめ彼でしょ。ちゃらいけど」
不要な心配だろうというのが、大方の意見のようだった。
四人はお茶の後、揃って大学の外に出た。手にはそれぞれ蓬を持っている。
今夜は空気がさらりと乾いて、星も綺麗に見える。湿度が低く、空気が澄んだ夜だ。汚濁や妖怪の出現には似つかわしくないが、玲音の意図が背後にあれば、安直な油断も禁物だ。
菫は足元に射した影に気付き、何気なく背後を振り仰いだ。
そこにあったのは巨大な頭部。そして巨躯。凡そ普通の人間の大きさの範疇を軽々と越えた巨人が聳え立っていた。
ぐるん、とその首が逆さに動く。奇怪な、まっとうな人間であれば有り得ない角度。
菫たちを大きな目で覗き込む。大きな目は、細く浮く血管や、虹彩、薄く張った水の膜まではっきり見て取れた。
にんまりと笑い、その頭部が傾き寄せる――――。
垣間見える歯が、小岩のように大きい。
霊刀を顕現する暇もなかった。菫たちはそのまま、見越入道に圧迫死させられることを覚悟した。稀に気配の薄い妖怪がいるが、見越入道はその一部だったようだ。黒い影が、スローモーションのように迫る。
菫も華絵も、そして駿や興吾も、完全に虚を突かれていた。
「わお、危機一髪じゃん」
菫たちに触れる寸前で、硬直したように動きを止めた見越入道。その周囲には、巨躯に合わせて張られた巨大な結界の檻があった。
金色の髪を靡かせ、どこからともなく現れた瀧が、地面に着地する。
一瞬の出来事だった。瀧が握り拳を作ると、それに応じたように見越入道を閉じ込めた結界が縮小し、見る間に小さくなり、そして消失した。呆気ない見越入道の最期に、菫たちは誰もが茫然として、気抜けしていた。霊刀を出すまでもなく、瀧の参入により、一匹の妖怪が落命したのだ。
「おたくら、今までよくそんなんでやってこれたね」
「お前、今までどこにいたんだよ」
「昔馴染みとデート」
飄々と言う瀧に、呆れた駿が問い詰める。答えた瀧は、そのあと、「尤も、彼女は死んじゃったかもしれないけどね」と言い添えた。意味不明であり、意味深だった。
「はいはい、言ってる間にお次が来るよ。頑張って」
無責任で他人事とも取れる瀧の発言の指すところは、菫たちにも解っていた。鼻を突く臭気。迫りくるおぞましい気配。
淀んだ汚濁の無数の影たちが、すぐそこまで来ていた。星が美しく輝いても、空気が爽やかに澄んでいても、菫たちの前に姿を現す負の念の産物は、背後に後押しする意志を感じさせ、幾何かの哀れを催させた。