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修羅の道

挿絵(By みてみん)

 駿は研究室のドアを乱暴に開けた。後ろから菫と静馬もついてくる。菫が駿を奇異なものを見る目で見ていることが感じられる。

 駿にとっては今の菫こそが不可解だった。


「華絵さんっ!」

「なあに、駿。大きな声出して。あら、その人だあれ?」


 のんびりとした華絵の問い掛けに、嫌な予感がする。彼女は今まさに、コーヒーフィルターに湯を注ごうとしているところだった。コーヒーは、駿たちの分もあるのだろう。駿は一切の前置きを省いた。


「神楽翔。憶えていますよね?」


 華絵が緑がかった目を瞬かせる。


「誰? それ……」


 言う端から、華絵が怪訝そうに眉根を寄せる。初めて聴く名前と、初めて聴くと感じる自分自身に困惑するように。彼女の頬を涙が伝う。


「え、やだ。何これ」


 華絵はケトルを持たないほうの手で涙を拭った。

 駿はその涙に一縷の希望を見出したが、同時に、華絵まで菫の兄である翔の存在を忘れているという事実に愕然とした。

 菫も華絵も。まるで十年前の事件などなかったかのように。神楽翔という存在など初めから存在しなかったかのように振る舞う。これが彼女たちの悪ふざけだったらどんなにましだっただろう。だがこの件は、軽々しく遊びの対象に出来る物事ではない。何より菫も華絵も、翔という言わば聖域を、そのように弄ぶ筈がないのだ。


「僕は忍さんの命令で来た。そして何かが起きていることを確認した。……戻るよ」

「静馬。お前、このことについて何か心当たりはないのか」


 幾らか物憂い風情で静馬が首を横に振る。


「残念ながら。誰かの意図が働いてこうなっているんだろうけれど、その人物の特定も、意図も僕には解らないよ。或いは忍さんなら何かご存じかもしれないが」

「訊いてみてくれ。何か解ったら俺に知らせろ」

「期待薄だと思っておいて欲しいが。一応、忍さんに尋ねてみよう」


 駿と、もう一人の美丈夫の青年との会話を、膜一枚隔てたところのもののように聴きながら、華絵は淹れたコーヒーをアラビアのコーヒーカップに注いだ。殊更、丁寧に注ぐ。何かの時間稼ぎをするように。駿と青年の会話は不可解で、自分の涙は更に不可解だった。心配そうにこちらを見ている菫に、安心させるように微笑みかける。自分でも、悲しみ混じりの微笑となったと解ってしまったが。

 駿は黒い革張りソファーにどっかと座り、腕を組み、脚を組んだ。何事か目まぐるしく思案しているらしい様子が見て取れる。華絵は彼の考えの邪魔をしないように、そっとコーヒーカップとソーサーを差し出した。駿が無言で、ほとんど反射的にそれを受け取る。礼の一つもないのは、それだけ考えに没頭している証だ。

 華絵は菫と応接セットのソファーに隣り合って座り、二人してそんな駿を眺めた。いつも軽い態度と笑顔が身上の駿の、いつにない深刻な顔に、心配と疑念を抱く。


 一体どちらが異分子なのか。

 思案に耽る駿と、それを見守る菫たち。記憶があると思う者と、そんな記憶などないと思う者。この状況下において、正しさは無意味なのかもしれない。時の改変に伴う齟齬は複数の回答を提示する。どの回答を持っていても、それは間違いではないのだ。無数の色彩が存在するように、齟齬に伴う無数の記憶と思考が存在する。改変がある決定的なポイントを経た時、回答は一色の色に定められる。


 その日の昼食は『パブーワ』で摂った。新メニューのマレー風チキンライスは、檸檬の酸味とナンプラーを中心とした香辛料をかけたご飯と鶏肉を一緒にして食べる物で、香辛料が食欲を増進させ、駿は難しい顔を忘れたかのように、追加メニューを頼んでいた。神楽翔という名前は、朝以来、彼の口から一度も出ない。菫と華絵はそれとなく駿に訊いてみたが、答えははぐらかされた。駿は翔の存在を忘れた人間と、憶えている人間を探っていた。持永は憶えていた。憶えていたことに、駿はほっとした。自分の気が触れた訳ではない。


(神楽さんはどうだ)


 妹と、幼馴染に忘れ去られた翔は、父親には記憶されているだろうか。京史郎に否と言われれば、また駿は迷子になったような感覚を味わうだろう。そして夕方には興吾が来る。翔の弟である彼は、兄との触れ合いの記憶こそないかもしれないが、その存在自体はよく知る筈だ。些か滑稽にも感じるが、彼にも尋ねなくてはならない。


 神楽翔を憶えているか?


(誰がどう動いてこうなった)


 時を繰る銀。

 その伝承を知ってはいても、暁斎と現在の事象を結びつけるには、駿は至っていなかった。


 三人で研究室に戻ると、見知らぬ男性が応接セットに寝そべり、雑誌をめくっていた。結界をないもののように通過し、行儀悪く居座っている不審な男に、駿が不穏な声を掛けた。


「おい。お前、誰だ」


 菫と華絵も警戒心を抱き、彼を見る。青年が駿の声にぱっ、と顔を上げた。金髪に赤い目。長い金の髪は一本に纏められ、右耳には三つのピアス。迷彩柄のシャツを着て、それがよく似合っている。彼は見ていた雑誌を閉じて、よっ、という掛け声と共に身軽に宙を舞い、駿たちの前に着地した。


挿絵(By みてみん)


「どうも。俺、田沼(たぬま)(たき)。ばあさんに言われて来ました~」

「巫術士か。道理で結界が効かない筈だ」

「ああ、あんな温いの、時代遅れだよ。もっと最先端の結界にしなきゃね」


 警備会社の人間のようなことを言って、瀧が笑う。金髪は地毛、赤い目も生来のものに見える。巫術士でも異相は潜在能力の高さを表わす。


「ほら、こないだ、望の件で、ばあさんがあんたらに肩入れするって決めたじゃん? それで、名代で俺が来たって訳。よろしくね。特にそこの別嬪さんたち。さしずめそっちが月光姫か。うん。可愛い可愛い。御倉のおねーさんのほうはスタイル良いねえ。どっちも目の保養だよ」


 駿並みか、それ以上のちゃらさで語る瀧に、菫も華絵も気が抜ける思いだった。測るような目で瀧を見ていた駿が彼に尋ねる。単刀直入だった。


「神楽翔を知ってるか」

「十年前に惨殺された? もちだよー。安心しな、村崎駿。ばあさんも俺も、彼を憶えているし、知っている」


 駿は実際、内心でほっとした。田沼鶴。巫術士の長が憶えていると明言したのであれば、これ程心強いことはない。菫と華絵は、駿の問い掛けの意味がまたもや解らず、彼らの遣り取りに腑に落ちない顔をしていた。


「それよりさーあ? ここ数日、()(こし)入道(にゅうどう)がこのへんに出てるってよ。口コミで噂が広がってる。学食で女の子たちに聴いたんだけど」


 見越入道。

 背丈が人の数倍はあるという坊主頭の巨人。背後から覆い被さるようにして、逆さに人の顔を覗き込むとも言われる。

 菫が初めて瀧に話しかけた。


「被害者が出ているのか」

「そうらしいねえ。凶暴化してるらしくって、危うく圧死させられるとこだった人もいるみたいだよ、菫ちゃん」


 菫ちゃん呼ばわりに、菫本人と駿の二人が顔をしかめる。


「玲音たちの差し金か」

「可能性は大きいな。こちらも人手が欲しかったところだ。ナンパ野郎でも物の役には立つだろう」

「酷いなあ、村崎君」

「ちゃらおが増殖したわ……。まっとうな男子が興吾だけって、ちょっと泣けてくるわね」

「言われてるよ、村崎君」

「お前もだろ」


 やいやいと言いながら、その言葉の応酬で、ともすれば思考の渦に呑まれそうだったところを救われたように駿は感じていた。瀧の介入は、戦力的にも、駿の精神衛生的にも歓迎すべきことだった。夕方になって研究室に来た興吾に、駿は翔のことを尋ねてみた。返ってきたのは不審そうな眼差しで、神楽家にそんな人間はいない、との声だった。駿はあえて反駁せず、静馬からの連絡を待つことにした。

 その日は久し振りに夜間パトロールを実施することになった。妖怪の類が夜を好むのは仕方ないこととは言え、同じく夜を好む汚濁も出没する可能性がある点が厄介だった。そして彼らのみならず、遙や虎鉄たちも参じるかもしれない。最も面倒な事態がそれだった。向こうは汚濁を無限に生み出せる。こちらは体力を消耗しながらの戦いを強いられる。それぞれの戦闘能力は菫たちも突出していると言って過言ではないが、消耗戦は出来れば避けたいところだった。

 そんな状況で、目下、新たに参入した瀧が、どの程度の戦力となるか。今回の見越入道討伐で明らかになるだろうと菫たちは考えた。




 静馬から、報告を受けて、横になったまま、忍は浅く顎を引いた。


「そうか。やはりな」

「なぜ、そんな事態に? 彼女たちが演技をしているようには、到底、見えませんでした。僕はバイオレットにも、御倉華絵にも会ったことがあります。それなのに彼女たちは、初めて会う人間のように僕を見ました。名前さえ、忘れられて」


 話すごとに静馬は、自分がそのことに思った以上に衝撃を受けていたことを知った。胸の寂寞が、堪える。


「安野暁斎が仕業ゆえだ」

「暁斎が、何を」

「時を繰る銀の言い伝えは知っているな」

「はい」

「文字通り、銀の力を持つ者は、時空を超えることが出来る」

「――――まさか」

「突飛な話と思うだろうが、事実だ。お前もその行為により、歪んだ記憶と時間を確認しただろう?」

「……安野暁斎はなぜ、そんなことを」


 忍はその問いにすぐには答えなかった。しばらく間を置いてから、小さな唇を動かした。


「取り戻したいものが。取り戻させたいものがあるのだろう。人にはどうしようもなく、宿命に抗いたくなることがある。すれば修羅の道と解っていても。……安野暁斎はそれを選んだ」


 莫迦な男だ、と続いた忍の呟きに嘲りの色はなく、なぜか慈愛の色さえ含まれているように静馬には聴こえた。



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