あなたはだあれ?
座敷に端座して、鶴は虚空を見据えていた。
そ、と左胸を押さえる。刺された傷はほぼ完治し、今はやや、速い鼓動が鳴っている。
三輪山を臨む、この周辺に流れる空気はもったりとして、微睡むようだ。宵闇すらもどこか懐かしい匂いがするようで。
時の狂乱。
静観を旨とする巫術士たち。あらゆる巫術の中でも時に干渉する術は禁忌。いや、禁忌と言うより、それを成し得る人間がいないと言ったほうが正しい。――――現在の巫術士の内には。時を繰る銀が隠師に限られていたことは、何の運命の悪戯だろうか。そして銀が、菫と暁斎だったことは。動いているのは暁斎。畢竟、彼の離反の理由もそのあたりにあったのだろう。神をも恐れぬ所業とはこのことだ。
暁斎のような男は、一度こうと目的を定めたら、それを完遂するまで止まらない。冷徹までの意志の強さでそれを成し遂げようとする。誰に理解されなくとも。
「悲しいお人ですな……。暁斎はん」
憐憫の情を彼に垂らせる人間がどのくらいいるだろうか。彼の真実に迫り、共感する者が。
「銀雪が恋うるは月、ですか」
孤独な雪をひた走らせるものが実は業火だと幾人が知る?
狂おしい恋慕という名の業火であると。
ここはいつだ、と暁斎は思う。
水の流れる音。数人の人の気配。山中のようだ。樹の影と思しき箇所に隠れる。
誰かに見られただろうか。視力がなくて難儀するのは、そうしたことの確認が出来ない点だ。
しかし、ここではない。
目的とする時ではない。まだ、年数すら跨いでいない。それどころか、現在の時間軸に近づいてしまったようだ。
時空の波間に脱け出し、漂いながら玲音に指示を出す。
「遡ってください。もっと」
玲音の声が降ってくる。
「可能な限りの呪言は唱えている。あとは自助努力したまえ。君は銀だ。出来る筈だ」
沈黙した暁斎は時を翔ける。遡る。心身には負荷が掛かり続ける。
(命削ったかて)
迷彩の渦。乱れ躍る色彩。過ぎゆく時、時、時。
(君にあげたいもんがある)
現在の菫が持ち得ないもの。
兄の非業の死という記憶がもたらす影。その影が除かれた平安。
そして玲音たちに崇められる所以のない〝バイオレット〟。玲音との交換条件を果たせば、菫はより早く、彼に見出され、メシアとして担ぎ上げられることになる。だがそれは未然に防ぐ余地がある。
肝要なのはあの紫の花畑で起きた惨劇をなかったことにすること。
そして。
翔が成そうとして果たし得なかったことを、暁斎の手で成し遂げること。命懸けの行為だ。失敗すれば、暁斎自身が翔の二の舞いになる。
だがそれでは暁斎の最終目的は果たせない。暁斎はまだ、死ぬ訳には行かない。
京史郎は自分に望んだ。
〝死んで頂きたい〟
その為にも。
寝ていたと思った忍が双眸を開いたので、静馬はその海とも空ともつかない蒼い双眸に不意を突かれた。忍は銀滴の毒による症状が癒えるまで、小池家の客間にて床の住人と化していた。普段の世話は静馬の母がしている。静馬は異性ということもあり、遠慮してこの部屋には余り立ち入らなかった。具合が気になり、部屋に足を運んでも、忍の眠りを邪魔しないよう、電気は点けなかった。だが忍は静馬の気配を敏感に察知したようだった。
「起こしてしまいましたか」
「静馬か。お前は気付いているか?」
「何をですか?」
忍が細く息を吐く。呼気が、宙に昇るようだった。
「お前を以てして、気付かないか……。私の世話は良い。お前は神楽菫の元に行け」
「バイオレットが何か」
「大切なものを見失っているだろう。神楽菫だけではない。恐らくは、神楽興吾も。静馬。お前は、神楽翔を憶えているか?」
「――――? はい。十年前、バイオレットの目前で死んだ」
「そう。お前の記憶は健全なようだな。いや、今では何を以てして健全と称するべきか……」
「忍さん。仰ることが、よく」
忍の声量は体調に応じてまだ小さい。自然、二人は密やかな声で会話することとなった。暗室に、囁き声が行き交う。
「神楽菫のもとに行け。村崎駿にも私と同じ問いをしてみろ。神楽翔を憶えているか、と」
静馬は奇異の念を抱いた。忍の言う言葉の意味が解らない。駿は翔の事件をとうに知っている。いや、駿のみならず、この業界の人間であれば、翔の事件は未だ、生々しく語られている。忘却の彼方とするには、十年はまだ短い。だが、忍が言うからには何等かの理由があるのだろう。尊敬する祖父より長く生きる彼女には、自分には見えていないものが見えているに相違ない。
ひどく悲しい夢を見た気がする。
菫はベッドから起き上がると、まだ寝ている興吾を起こさないように足音を忍ばせて、カーテンを静かに開けた。白銀の混じるカーテンの向こうは、街路樹が赤く染まり掛かっていて、秋の到来を思わせる。部屋を満たす日光も、夏より穏やかで、淑やかだ。この住宅街で錦秋は望むべくもないが、それでも菫は赤に染まりつつあるという事象に、記憶のどこかを刺激された。
赤く染まる。
ひどく馴染んだフレーズのような気がするが、なぜそうであったのかが思い出せない。何が赤く染まったのか。そんな問いも空虚にぽかんと浮かぶようで、居心地悪そうに菫の意識の隅に追い遣られた。
興吾が欠伸をしながら身体を起こす。
なぜかほっとする。彼が生きているという、当たり前のことに。
まるで他の誰かは死んでしまったかのように。美津枝の死は、まだ胸に辛いが、それとは別に、他の誰かが。
フレンチトーストとカフェオレ、野菜サラダに林檎。興吾が手早く準備した朝食を二人で食べると、菫は大学に、興吾は小学校へと向かった。興吾の小学校までは、大学より距離がある為、興吾のほうが先に家を出ることになる。
菫は食器を洗ってから、のんびり大学に向かった。
桜並木も紅葉を始めている。空は雲があるものの、晴天と言える天気だ。やはり屋外のほうが柔らかで暖かな陽射しをより感じることが出来る。
大学の正門前に立つ人影を見て、菫は足を止めた。
漆黒の髪。端正な面立ち。女子大生の視線が彼に注目している。
待ち合わせだろうか。目立つ容貌だから、すぐに学生たちの話題に上るだろう。
菫が他人事にそう思いながら横を通り過ぎようとすると、彼から声を掛けられた。
「バイオレット? 僕のことが解らないのか?」
「え?」
周囲の視線が痛いようだ。静馬は菫の腕を掴み、構内へと歩き出す。これは一体どういうことだと思いながら。
「あの、離してください」
「……忘れているようだから、もう一度、言おう。僕は君の兄の友人だった小池静馬だ」
菫が目を丸くする。
「兄って……?」
「憶えていないのか?」
静馬が歩みを止める。丁度、黄金になりかけの、銀杏の樹の横だった。菫も静馬も互いに当惑し、驚き、混乱していた。そこに第三者の声が掛かる。
「おい、痴漢。菫の腕を離せよ」
「駿」
「何やってんだよ、静馬。こんなとこで」
自分の名前を、駿が過たず呼んだことに静馬は少なからず安堵した。菫の腕から手を離す。彼は自分を記憶している。では、神楽翔のことはどうか。
「駿。君は神楽翔のことを憶えているか?」
駿が顔をしかめ、気遣うように菫を見る。
「痴呆テストかよ。当たり前だろ」
忘れようにも忘れられない、菫の悲劇的な過去だ。
だが。
「待て、村崎。何を言っている。神楽翔とは誰だ?」
染まり切らぬ銀杏の葉が一枚、はらりと落ちた。
駿は信じられない思いで菫の顔を凝視した。菫こそ、何を言っているのか。何かの冗談にしては笑えなさ過ぎる。何より、菫が過去の事件、兄のことを忘れる筈がない。平生、彼女がそうと悟らせまいとしながら、けれどその事件について未だに想いを引き摺っている様子は度々窺えた。
「――――どうなってんだ」
さらさらと、人の記憶は滑り落ちる。時の歯車が軋む音を立てながら回る、その回転に合わせて。時紡ぎは禁域。伸ばしてはならない手を伸ばせば、さらさらと。
有り得ないことは有り得ない。