算数とパズル
同情と憐憫。
京史郎が職場で向けられる視線に乗せられた感情は、概ねそれら二つであった。その感情を受けることすら、彼を疲弊させると知らぬ、善良な同僚たち。
電気の点らぬ自宅に帰るのも、もう慣れた。
明るい光が彩る家が待っているのは、温もりに恵まれた者だけだ。少し前まで京史郎も、その恵まれた一員だった。
玄関、廊下、リビングの電気を点けてやっと人心地つく。家には線香の匂いが薄く漂っている。十年前のあの日々のように。
あの惨劇はなぜ起きたのか。
殺害された翔の遺体は余りに惨い有り様で、美津枝は直視し兼ねて卒倒した。警察は関係者からも事情を聴いたが、怨恨の線は薄く、犯人の動機、殺害理由も定かではない。霊能特務課からも警察は情報を得たが、解ったことは翔が隠師であったこと。それも極めて優秀な。それだけだった。
不審な点があり過ぎる。
そう指摘したのは、敏腕と称されていた刑事だった。当時の京史郎より年配の彼は、温厚そうな顔に似合わぬ鋭い眼光を時折、見せた。
どうして犯人は菫を見逃したのか。
目撃者の口封じは、犯行の基本。惨たらしい殺戮に躊躇しない人間が、年端のゆかぬ少女を殺すに迷いが生じた訳でもないだろう。
凶器の特定は成されず、発見もされないまま。
犯人の逃走経路も不明。
単純な算数の問題ですよ。
刑事はそう言った。
孫に絵本の読み聞かせをするのが楽しみだそうで、捜査中にも寓話めいた例えを挙げることがあった。
二匹の子羊がいる。白と黒。黒い子羊が死ぬ。白い子羊が生き残る。
事件に纏わる諸要素を削ぎ落とす。思考を平らかに。
二から一を引く。それだけで良い。
残った一が。
それから先を京史郎は言わせなかった。刑事を睨みつけ気迫で圧し、美津枝の耳にそんな与太話を入れようものなら許さないと告げた。流石に刑事は口を噤んだ。彼とても、幼い少女を「そう」だと断定することにはまだ迷いと引け目があったのだろう。
上着を脱いでネクタイを緩める。あの刑事は、今頃はもう定年退職しているだろう。
濃い緑茶が飲みたいと思い、美津枝に頼もうと台所を振り返り、そこに無人の暗闇を見る。人の喪失とはこのようなものだ。
京史郎は立ち上がり、薬缶を火にかけた。茶葉を急須に入れて、コンロの青い火を見ながら、先程の思考を続行しようとした。
そこで京史郎は、自分が何を思考していたかということを忘れた。何か、非常に大事なことだった。人の命に関わるような。誰の命だっただろう。
やがて薬缶が鳴り出すまで、京史郎は失念した事柄を思い出そうと努めたが、夢幻のようにそれは消え、再び彼の内に想起されることはなかった。
「誰だったんだ?」
「知らない男の人だった」
「ふうん」
リビングに戻った菫は、興吾に答える。名乗らなかった青年は、沈黙したままドアの前から去った。何かの勧誘にしては、纏う空気がそれらしくなかった。何等かの利益を求めた人間の瞳を、彼はしていなかった。そこに見出せたのは慕情。だがその理由が解らない。
「ああ、」
「何だよ」
「父さんに少し似てたかも」
「イケメンだな」
「興吾にも似てたような」
味噌汁を啜っていた興吾が笑う。
「何だそれ。生き別れの兄弟かよ」
菫も笑った。笑いながら、なぜか胸がちくりと痛んだ。日本酒の入った硝子の酒器から盃に酒を注ぎ、呷る。程良く酩酊するには、もう何杯かの酒が必要だ。ささみの胡麻酢和えは切り干し大根の歯応えが良く、胡麻酢の円やかな甘味と酸味がささみ肉の旨味を引き立てる。豆もやしのナムルは胡麻油の風味が食欲をそそり、その油を吸った海苔が豆もやしの食感と好相性だった。鰆の煮物はご飯のおかずだ。
「兄さんにも食べさせてやりたかったな」
自分の口を突いて出た台詞に、菫は自分で驚く。興吾も紫の瞳を真ん丸にしている。
「生き別れ兄弟ごっこか?」
「いや……。よく解らない」
「呑み過ぎだろ」
「一合も呑んでないのに」
菫の中にわだかまる当惑と疑念は酩酊にも増して、根強くその後も残った。何か酷い間違いを自分がしてしまった気がして、気持ちが落ち着かない。興吾を見ると、興吾も自身を訝しがるような表情をしている。まるで正しいと思って歩いていた道が、実は迷宮の一隅だったような。二人は夕食を食べながら、未消化な思いを持て余していた。
霊刀に定められた主は一人だけ。
その一人が死ねば、霊刀は神域へと帰り、主が転生でも果たさぬ限り、二度と現世に顕現することはない。
神域に、喪われた筈の主の息吹を感じ取り、歓喜する霊刀があった。藤色の刀身。所々に白い星のような斑点が散る。
彼は主に呼ばれる時を心待ちにしていた。自らの名の、言霊が響くその時を。
ある日唐突に断絶した主との絆が復活したことを信じ、その僥倖に震えていた。
記憶の欠落。或いは改竄。
死者の復活。或いは死という事実の喪失。そして存在そのものの喪失。
銀の時間遡行は時と人の秩序を乱していた。時への叛逆ともとれる行為に、暁斎はたじろぐこともない。それにより、起きるアクシデントもまた、彼には微風のようなものだった。その全てを把握して尚、そう思えるかはまた別問題だったが。
翔がいた。
見てはいないが、あの気配は確かに翔だと、暁斎の感覚が訴えていた。その事実は暁斎に、目論見の成功を予感させた。
彼は菫に逢いに行っただろうか。逢えただろうか。
当惑はするだろうが、菫は彼に逢えて喜ぶだろう。それは涙雨の続いていただろう彼女にもたらされる、せめてもの救い。
暁斎はそう信じた。
信じることは時に残酷だ。
ビーフシチューを口に運ぶ暁斎に、玲音が声を掛ける。
「遙と何か話したようだね」
「はい」
牛肉が口の中でほろりと崩れる。
「菫はんの母親が亡くなったそうです」
血抜きは万全の筈なのに、なぜか肉から血の臭いがする。
「それは痛ましいね。あの若さで母を亡くすとは」
「そうですね」
とうに美津枝は死んでいた身であったと、玲音に知らせる必要はない。菫の犯した行為を明かすことになる。彼女が母恋しの一念でしたことを、咎め立てする他者は少ないほうが良い。
無花果やラズベリーなどのドライフルーツが入ったパンを、千切って食べる。仄かに広がる果物の味わい。視力のない暁斎にとって、味覚は強烈な印象をもたらすものだ。赤ワインを呑めばその葡萄が栽培された農園の光景までもが頭に浮かぶ。玲音の両親はどうしたのだろうという思いが頭を掠めたが、暁斎にとって興味ない事柄であった為、すぐにその思いは消えた。暁斎は、自分の両親にすら頓着しない。どこかで生きているのかもしれない。死んでいるのかもしれない。記憶にあるのは祖母の腕。それも暁斎が幼い頃に亡くなった。祖母の顔を見たことはない。見る前に病気で失明したからだ。或いはそれが、両親が蒸発した一因であったのか。隠師の家系を伝い、親戚宅に預けられ、そこで暁斎は成長した。隠師としての頭角を現し、次第に同業者からさえ畏怖されるようになり。
その中でも神楽家は、暁斎にとって温もりある家庭として映った。強く頼もしい父・京史郎、優しく濃やかな母・美津枝。彼ら夫婦に守られ、慈しまれた子らの幸いを信じて疑わなかった。ある日までは。
「考え事かな」
「僕かて思うところはあります」
「そうだろう。私もそうだ」
玲音の考え事にも暁斎は興味はなかったが、会話を繋ぐ為に便宜上、続きを促す。
「貴方が何をですか?」
「例えば、時間の齟齬はどこまで生じているか。そういったことなどだよ」
「……」
暁斎はグラスを呷る。
「私たちの試みは、完成していたジグソーパズルを引っ繰り返すようなものだ。安野暁斎。君にすら想定外の出来事が、今この瞬間にも起こっているかもしれないと。考えたことはあるかね?」
この赤ワインは渋味が強いと、暁斎は思った。