ナイトメア
絶対無謬の世界。
そんなものが有り得るだろうか。
砂時計を逆さにするように。
ある日ふと気付く違和感。これは何かが違うという警鐘。時間は不可逆性。そう信じるに足る根拠は、砂上の論を手に握り締めるような儚さで成り立っているのだと。
駿が顔を上げた。ティーカップをテーブルの上に置き、研究室のドアを開ける。
そこには誰もいない。
「どうしたの、駿?」
「いえ、結界に誰かの気配が引っ掛かった気がして」
華絵や菫よりも駿の感覚は鋭敏だ。研究室に張った結界に、ふと触れた気配に攻撃性はなかった。寧ろ親しみの念のようなものを駿は感じた。誰かが、ドアの外に立っていた。ついさっきまで。けれどドアを開けることなく去った。
駿は首を傾げたが、ドアを閉め、応接セットのソファーに戻ると、再び腰を下ろした。
時を繰る銀。
恐るべきは一個人の手にその能力が委ねられたことである。先を視る金よりも、歴史に介入、改変させる余地があるぶん、より驚異的な能力だ。使い方一つで世界を統べることさえ不可能ではなくなる。
しかし暁斎が望むのは世界ではなかった。
たった一つ。たった一点。
その歴史を変える為だけに身を時空に晒す。一歩誤れば時空の中、永久に彷徨うこととなる危険性を冒してでも。
暁斎が玲音に宛がわれた部屋は玲音自身の私室より広く、優雅な調度が設えられていた。彼の目がそれらを映すことはないが、優遇されていることは理解出来る。全ては暁斎の持つ異能の為に。暁斎が時を飛ぶことに助力するに際して、玲音が求めた交換条件は、ささやかなことだった。ささやかではあるが、玲音にとっては重大事であるのだろう。彼の人生を左右するような。
張り出し窓を開け放つと秋の爽やかな風が入ってくる。
小鳥の囀りが聴こえる。
暁斎を慮ってか、この部屋には一時間ごとに時を知らせる柱時計があったが、彼はそうした物の助けを借りなくても、身体の感覚からおおよその時間を知ることが出来た。今は昼前。皮膚に当たる陽射しの傾き、温度などからもそれは解る。時を飛ぶ試みは、暁斎であっても心身に重度の疲労を残した。飛んだあとは熟睡し、彼には珍しく朝を寝過ごした。それでもまだ睡眠を身体が求めている。時を遡行する負荷の大きさが窺える。幽けき足音を暁斎の超人的な聴覚が拾う。部屋の扉の前まで来ている。足音からして遙が来たのだと判る。彼は戸惑うように扉の前に佇んでいる。間もなくノックの音が鳴るだろう。
予想に違わず聴こえたノックに、暁斎は答えた。
「どうぞ、遙はん」
驚く感情が、手に取るように感じられる。遙はおずおずと室内に踏み入ると、扉を閉めた。
「よく僕だと判ったね」
「足音が聴こえましたさかい」
「……部屋の中で?」
「はい」
暁斎は部屋にある二人掛けのソファーを遙に勧めた。遙が従順に座る様子も、思い描くことが出来る。
「玲音と何をしているの?」
手管を用いず直球で尋ねた遙に、暁斎は寧ろ微笑ましい思いになる。老練さを知らぬ若さ、素直さ。そして汚濁を生むことを善と信じる哀れな愚かしさ。
「大人の話です」
「誤魔化さないで」
「僕と、玲音司祭。それぞれの目的の為にしてることです」
「目的って?」
暁斎の心に、ふと悪戯心が湧いた。もし真実の一端なり、遙に伝えたなら、彼はどう反応するだろうか。
「時を繰る銀」
「……言い伝えが関係あるの?」
「ただの言い伝えやあらしません。銀の霊刀を持つ者は、真実、時を超えることが出来るんです」
遙は銀の霊刀を思い浮かべる。
銀月。銀滴主。
「貴方がそれをしてるのか。何の為に」
「変えたい過去があります」
「それは」
「教えられません」
暁斎が口角を吊り上げる。遙の胸に一滴、銀の毒を垂らした心地になった。それに愉悦を覚える自分も大概、人が悪いと自覚しながら、それでも暁斎は真実の全てを遙に明かす積りはない。
窓から入り込んだ風が暁斎の白髪を、遙の髪を揺らした。遙は暁斎が予想したよりも冷静だった。
「貴方の変えたい過去と聴いて、僕には一つしか思い当たる時はない。けれどそれは、許されることなのか」
「タイムパラドックスですか? それが何ですか?」
「何……って。恐れはないのか」
「僕が恐れることは十年前に起きました。その他に恐れることはあらしません」
「菫ちゃんが消えたらどうする」
「極論を言わはりますね」
「有り得ないとは言えない。時の改変に伴う事象には何が起きるか解らない」
「僕らを止めますか?」
無理だろうという思いを籠めて、暁斎は問う。果たして遙は暁斎の予想通り、俯いた。それが暁斎には解った。
「出来ない。僕に、貴方たちを止める力はない。……けれど安野暁斎」
「はい」
次に遙がした懇願は、暁斎の予想し得なかったものであり、彼は風に白髪をなぶられながら見えない薄紫の目を瞠った。今日は風が強い。
「菫ちゃんを、泣かさないでくれ」
「…………」
菫の涙を望んだことは一度もない。ただ、自分の譲れない行動の為に菫が泣いたとしても、それは止むを得ないと思い切るのが暁斎だった。胸は痛むが、彼女の嘆きを上回り尚、最終的に望むものが暁斎にはあるからだ。
「菫ちゃんのお母さんが亡くなったそうだ」
「――美津枝はんが?」
「そうだ。貴方なら薄々、察していたと思うが、菫ちゃんのお母さんはとうに亡くなっていた。膨大な霊力で歪に生かし続けていた、その期限がついに切れたんだろう」
暁斎はぼんやりと思う。菫は泣いただろうか。泣いただろう。自分の裏切りに心を痛めただろうか。痛めただろう。一人、虜囚となって心細くもあっただろう。美津枝のことを知っていれば、もっと違う接し方もあったかもしれない。菫に意地悪だと罵られた。無理もない。全くその通りだ。
「そないですか……」
「僕に彼女の悲しむ姿を見せないでくれ」
「それは貴方の一方的な欲求ですね」
「そうだ。でも僕は、貴方も同じことを望んでいると考えている」
「同じにせんといてください」
多少、暁斎は苛立った。無垢な青年。菫の為に嘆き憤ることの許された贅沢さを、知らぬままに甘受して。果たして汚濁に相応しいのは彼か自分か。感情の揺らぎの少ない暁斎には、滅多にないことだった。
その時、遙が何かに驚いた気配がした。彼は窓辺に駆け寄り、外を見た。
見知らぬ若い男が立っている。
誰かによく似ている。誰だっただろう。
すると暁斎が遙を押し退けるように張り出し窓から身を乗り出して叫んだ。
「翔はん!」
その名前に遙がぎょっとする。なぜここで、十年前に死んだ菫の兄の名前が出てくるのか。暁斎の感覚が狂ったのではないか。しかし暁斎は叫び続けた。
「菫はんたちに逢いなさい! 君がいつまでいられるか解りません。ええですね? 菫はんたちに逢いなさい!」
青年は当惑した表情を見せ、それから寂しげに微笑したあと、跡形もなく消えた。
誰かの手が砂時計に触れる。
向きを引っ繰り返す。上と下を。
逆流する砂の粒。再び向きを変えられるまで、砂は重力の法則に従って落ち続ける。
興吾は幾分、しおらしい様子で研究室に来た。華絵の出したカモミールティーを飲み、腹が減ったと言った他は何も言わなかった。四十九日を迎えればまた慌ただしくなる。菫は京史郎の手伝いをしなければならない。興吾は興吾で、また気を張る日となるだろう。菫は弟の肩を労わるように抱いて、華絵たちに挨拶してから研究室をあとにした。
帰る途中、スーパーに寄って夕飯の買い出しをする。
白身魚を吟味しながら、菫は四十九日の法要についても思いを巡らせていた。十年前も、時は忙しなく過ぎた。大人たちのざわめきと哀悼の念、啜り泣き。そこまで考えて、怪訝に思う。
――――十年前に、何かが起きただろうか?
何も。
何もなかったように記憶している。
父と母と生まれたばかりの興吾がいて。
なのにそれだけではないと訴える声がある。
考え詰めようとすると頭痛がして、菫は視線をスーパーの陳列台に戻した。花畑。紫の花畑で何かが起きた気がする。何が起きたんだったろう。いや、起きただろうか?
何だ、この違和感は。
今日のお買い得品が云々と店内に流れる放送が、奇矯に歪んだ感覚を助長させる。
アパートに帰り着いて、興吾の入浴中、夕食の支度をしながらも菫の中の違和感はぐるぐると渦巻き、叫ぶようだった。
わかめとじゃが芋の味噌汁、鰆の煮物、豆もやしのナムル、鶏ささみの胡麻酢和え。時分も風呂を済ませてから、興吾と一緒に膳を囲む。
チャイムの音が鳴り、菫が立ち上がってドアスコープを覗く。知らない男性だ。
「どちら様ですか?」
妹がそう尋ねる声を、絶望するような心地で、翔は聴いた。
これは何の悪夢だろうと思った。