軸が歪み歯車が軋む
紫色のドレスを着た菫の姿は、鮮やかに駿の脳裏に焼き付いていた。いつもの中性的な雰囲気が鳴りを潜め、「女」だった。寝返りを打ち、部屋のカーテンの隙間から射し込む月光を眺める。月下月光を操るは、可憐な菫の花。決して大輪の迫力はないのに、清かな光輝によって他を屈服させる。
駿は戯れに月光に手を伸ばす。仄かな光は駿の手に優しく触れるだけで何の感触も残さない。近くにあっても感触にまで届かない。菫そのものだ。
起き上がり、冷蔵庫の扉を開けるとペットボトルを取り出す。中の水をごくごく飲み下して息を吐く。
銀月は霊刀の中でも最高峰の内の一振り。
悪食の黒白では釣り合いが取れない。
「…………」
駿は壁にもたれかかり、右掌を見つめる。王黄院のように覇者の威風があれば。八百緑斬のように潔癖な健やかさがあれば。――――銀滴主のようにしなやかな美しさと強靭さがあれば。
ないものねだりと解っていても、考えてしまう。
散らばったファッション雑誌と週刊誌の表紙の文字を無意識に追う。何か違うことで頭を満たさなければ、菫に対する、或いは暁斎に対する引け目で眠れそうになかった。菫はもう大人の女性だ。囚われていた先で、暁斎と何があってもおかしくはない。
ごん、と自分の額を拳で叩く。
少なくとも帰還した菫にそんな気配はなかったし、暁斎も軽々に想いを行動に移すような男ではない。
では自分は?
軽口に紛らわせて菫に想いを仄めかすばかりで、真実、彼女に打ち明けたことがあっただろうか。軽口を幾ら重ねても零を掛けるだけで、あとに残るものはない。銀の雪に敵わない。菫が幸せであれば良いと思う一方、手を伸ばしたくなるのも事実。触れて、自分のものにしたくなるのは、悲しい男の性だろうか。
虫のすだく音色が聴こえる。もう、そんな季節か。
奪ってしまえ。
耳元で誰かが囁く気がする。
掠め取り閉じ込めて無理矢理にでも。
声は続く。続く声を駿は遮断した。
そんなことをして何になる。駿の強い意志の元でなら、黒白であれば銀月をも喰らうのかもしれない。そして無力化した菫に、自分が何を出来ると言うのか。欲しいのはそんなものではない。そんなものではない。
その時、耳元ではなく、駿の脳内から声がした。その声の望み、求めたものに、駿は顔色を失くし、全身が鳥肌立った。
それだけは人としてあってはならないことだった。
玲音の呪言の完成は近づいていた。試みに、暁斎は何度か過去に飛んだ。それが玲音との契約事項の一つだったからだ。手繰り寄せる。求める過去の、その一点へと。
暁斎の周囲には目まぐるしい色の混濁がうねっていた。彼の目が見えたなら、それらの色彩に酔い、または狂乱していたかもしれない。
目指すは銀の気配。そして。
引き寄せられた時空の一点に、暁斎は出現した。人の気配に反射的に身を潜める。ここはどこで、いつだ。
蝉の声が聴こえる。まだ初夏の候だ。菫と駿の声がする。感覚からして夜だろう。場所は恐らく、央南大学構内。文学部棟近く。
「コーヒーが冷めたな」
「また淹れ直すよ」
「あの桜は長くない」
「仕方ないことさ」
汚濁を滅したあとか。目的とする時間からはまだはるかに遠い。
もっと遠くへ。更なる過去へ飛ばなければ。身体に掛かる負荷は大きいが、それでも尚、暁斎は時間を遡った。最終的に目的とする時間に至るまで、あとどれだけ掛かるだろう。もしこの試みが成功すれば、歴史が変わる。歴史の改変は人類の憧れであり、禁忌。踏み込んではならない領域に、それでも暁斎は踏み込もうと挑む。
「安野暁斎。今日はここで打ち止めだ」
時空の狭間、玲音の声が降ってくる。
「まだ行けます」
「駄目だ。呪言が万全ではない。君の心身も保たない」
タイムリミットだと悟り、暁斎は諦める。
時空の狭間を抜けると、玲音の私室にいた。息が荒いのは、時間を遡ることによる負荷が肉体的にも精神的にも大きい為であり、仕方ない。汗がこめかみを伝う。呼吸を整えてから、玲音に尋ねる。
「あとどのくらいで、年数を跨ぐようになります?」
「何とも言えない。これは私にも初めての試みだ。改めて、銀の特異性に感嘆しているよ」
暁斎の聴覚が、玲音の驚愕は本物だと伝える。
「約束は憶えているだろうね?」
「ええ。それが貴方との取引内容でしたさかい」
「結構」
暁斎にとって、玲音の提示した条件を呑むことは容易かった。引き換えに得るものに比べたら、あとから幾らでも修正可能だ。
彼は真正の反逆者。
しかし時空の歪みがもたらす事象が既に作動していることまでは、暁斎にも把握の範疇外だった。
時間とは本来、非常にデリケートだ。過去、その場にいなかった筈の暁斎が存在する。それだけで過去から現在、未来にまで及ぶ諸々の出来事が改変されつつあった。但し、〝暁斎が時間に介入する〟ことまでが、定められた歴史であるとしたなら、何を以てして正しい現実と認識するか。その判別は極めて難しい。
眠っていた菫は、頬に触れる誰かの手の感触で目が覚めた。最初は興吾かと思ったが、大きさが違う。警戒して飛び起きた菫の前には、信じられない人物がいた。そんな莫迦なと思い、目を疑い、そして自分は夢を見ているのだと思った。そんな菫の疑惑を証立てるように、彼は消えた。消えたあとも、確かに今まで、そこに興吾とは違う息遣いがあった名残りは感じられ、菫は激しく混乱した。
幽霊だろうかと思うが、品の良い端整な顔立ちは、記憶にあるより年を経ていた。まるで、生きてそのまま成長したように。有り得ない。彼は十年前に死んだ。紫の花畑で起きた惨劇によって。興吾を見ると、静かに寝ている。気配に敏感な彼が気付かなかった。やはり夢だったのだろうか。自分の願望が見せた夢。大概、諦めが悪いのだなと菫は苦く思い、再びベッドに身を横たえた。
翌日の研究室では寝不足の菫と駿がどんよりとした空気を漂わせ、華絵は目を瞬かせた。
二人揃って睡眠不足。昨夜、何があったのかと思うが、別段、色っぽい話でもないらしい。菫も駿もそれぞれ物思いに耽る風情である。彼らを気遣った華絵はカモミールのハーブティーを淹れ、二人の前に耐熱硝子のカップとソーサーを置いた。エンボス加工が硝子の華奢な煌めきを演出している。菫の前にそれを置く時、菫に物言いたげな表情で見られたが、彼女は何も言わなかった。
「どうしたのよ、二人共」
「恋煩いです」
「一身上の理由です」
駿の答えは、はいはいといなしておいて、菫の一身上の理由とやらは気になった。
「昨日、何かあったの?」
まだ母を亡くした痛手に苦しんでいるのだろうか。それとも暁斎に関することだろうか。華絵は努めて優しい口調で菫に尋ねる。菫はそんな華絵の声音にほだされたのか、一旦、口を開きかけたが、またすぐに閉じた。
「いいえ」
有り得ない事柄を華絵に話すことで、彼女を混乱させたり悲しませたりする事態を菫は恐れた。結局は消化不良に口を噤むしかなく、華絵はやや困惑気味のようだった。代わりに菫は彼女に尋ねてみた。
「成長する幽霊っていると思います?」
「ないでしょ」
「ですよね」
成長は即ち生存を意味する。
一蹴され、菫も素直に引き下がる。では、実は死んでいなかったとしたら。いや、それもない。自分は見たではないか。流れる血の洪水を。紫を染めた鮮血を。母の悲嘆。父の憔悴。それら全ては生々しく今でも記憶に残る。だから自分だけは彼が死んだことを疑う余地がないのだ。なのに昨夜見た幻影に、まだ心を囚われている。現実逃避だろうか。ここのところ、痛む心に追い打ちを掛けるような出来事があり過ぎた。そんな現実から目を逸らしたい思いが、有り得ない幻を菫に見せた。
カモミールティーの香りに安らぎながら、菫は自身を多少、憐れむと共に情けなくも思った。
窓から見える銀杏の葉は、黄金に染まりつつある。カモミールティーの水面も金色で、菫は父・京史郎の霊刀を思った。金色の光放つ王黄院。
先を視る金。
京史郎に真実、予見が可能なのだとしたら、彼には一体、何が視えているのだろう。
駿は昨夜の声を思い出し、胸騒ぎがしてならなかった。
あれは黒白の声だった。黒白が、してはならない要求を駿にした。それはおぞましい内容だった。カモミールティーの鎮静作用も、今の駿には効果がない。
霊刀は往々にして男性の物には男性の、女性の物には女性の人格が宿る。菫の銀月や、遙の蒼穹天女、火炎天女などは稀な例外だ。そして霊刀と意思疎通出来る隠師もいれば、全くコンタクトなしでただ、主人と得物の立場を維持する場合もある。
駿の黒白は分類すれば饒舌なほうで、時折、駿に話しかけた。
その多くは悪食の性質を明らかにするものだった。
だが、昨日、黒白が駿に求めたことは許容範囲を超えていた。もし、その声に従うようなことになれば、駿はもう、菫たちとは共にいられない。
この優しい居場所を失うことになる。
それだけは避けたい。
(黒白を、コントロールしなければ)
そうしなければ、待つのは人としての破滅だ。安らぎの終焉だ。
それぞれの思いを抱える者の集う持永研究室。
その研究室のドアの外に佇み、今にもノックしそうな青年が立っていた。
だが彼はそれを思い留まり、踵を返した。
自身の存在の不安定さと歪さを自覚している為、翔は、慕わしい人との再会を避けた。
<第九章・完>