彼の事情
パンツのポケットに入れていたスマートフォンが着信音を鳴らし、静馬はそれを耳に当てた。
「もしもし」
『そちらの様子は』
「今のところ変わりなし。だがいつ、奴らがバイオレットたちと接触するかは不明。予断は許さない状況だ」
『バイオレットにつけたパープルはいつ回収する』
静馬の眉が微動した。
「……まだ時期尚早だろう」
『五年の歳月を経て?』
「それを言うなら十年前の事件すらまだ風化していない」
『パープルは無精が過ぎる。定時連絡を寄越さない』
漆黒の髪を揺らし、静馬が苦笑する。苦笑さえも艶やかに。
「大目に見てやれ。――――大事な駒だ。パープルも、無論、バイオレットも」
通話を切った静馬は残照の光を浴びる銀杏の樹を見上げた。全ての物事は流動的で、矮小な人間の思惑などはるかに超えたところで思わぬ事態が起こる。静馬はそのことを嫌と言う程、知っていた。
(十年前のあの時も。バイオレット。誰も予想だにしなかったんだよ)
菫の兄・翔の死の真相の全ては、まだ誰にも詳らかに出来ていない。確かなのはあの事件を契機に動き出した事象、物事があるということ。菫の花畑で濁流が生まれた。
(バイオレット。バイオレット、シークレット)
或いは菫の父・京史郎であれば真相を知っているのかもしれないが、京史郎がそれを安易に静馬に語るとも思えない。銀杏の葉がまだ緑のままに一枚、緩慢に落ちる。落ちたそれを拾い上げ、指先でくるくると回す。
残照が僅かな名残りを留めながら夜を呼ぶ。
汚濁が躍る、夜を呼ぶ。
酒田家の、庭に面した道路には、躑躅の低木の花壇が三箇所程、等間隔に並んでいた。
向かいには洋風の酒田家とは趣を異にする和風邸宅があった。この一帯は、和風の一軒家が多いようだ。酒田家はその中で浮いていた。しかしそれは調和を乱す浮き方ではなく、洋風ながら和風にも溶け込む、温和なデザインだった。躑躅の低木のあたりに菫たちは陣取った。いざと言う時の武器が近くにあると気持ちが落ち着く。
星の少ない夜だった。
臨戦態勢にある菫たちだったが、間の抜けた着信音が響く。その主は駿だった。
「電源くらい切っときなさいよ」
睨む華絵に片手で拝むポーズを取り、駿は電話に出た。
何やら低い声で遣り取りしていて内容までは解らない。菫たちには詮索する積りもなかった。どうせ数ある女の一人だろうくらいにしか考えない。日頃の信用が窺えた。駿が通話を終えた瞬間、それは現れた。
金属音のような泣き声。
緑色の襤褸を身に纏い銀色の長い髪、赤い瞳をした老婆だった。無数の深く刻まれた皺の上を滑り落ちる涙、涙。
駿が脱力している。老婆のような声、と事前に繁治に聴いていたにも関わらず、余程に期待していたらしい。菫も華絵も醒めた目でそれを見ながら、バンシーに語り掛けるべく、一歩踏み出した。
ザンッという風切り音と共に、二体の巨大な漆黒の体躯が降り立った。
発する独特の臭気。汚濁である。だがこれ程までに濃厚な気配の巨体は菫たちも初めて遭遇した。しかも同時に、二体。思い出される繁治の語り。それだけ過酷な体験をした者の、悲嘆が大きかったということか。巨体の深い闇色に、戦争の悲惨を垣間見た気がした。
バンシーは汚濁には目もくれず、泣き続けている。汚濁は汚濁で、菫たちに対して敵意を向けるだけで、バンシーは無視していた。
駿が素早く菫に言う。
「俺と華絵さんとで足止めする。菫は桜の枝を」
最も相性の良い桜の枝が菫の能力を全開にすると考えた上での駿の勧めだ。
その間にも華絵が乱朱を呼び出して汚濁に向かっている。
菫は頷き、煉瓦の塀を超えて酒田家の庭に入り、桜の枝を一本、掴んだ。
「銀月!」
呪言を省略し、霊刀の名だけを言霊で呼ぶ。顕現する銀の輝き。水がこぼれ落ちる錯覚を見る者にもたらすような、眩い銀であった。
再び塀を飛び越えると、そこにはそれぞれの霊刀で戦う駿たちの姿があった。苦戦していると一目で判る。
菫が助力に入ろうとした時、突然、バンシーが悲鳴を上げた。それは超音波のように菫たちの鼓膜をつんざいた。
両手で耳を塞いだ菫が見た光景は信じ難いものだった。汚濁が、バンシーを喰らっている。右手に鋭利な歯を突き立て、ついには噛み千切ってしまった。汚濁の攻撃対象は、菫たちだけではなかったのだ。動く者、生ある者全てを滅び尽くさんとする姿勢は、悪寒のするようなおぞましさを感じさせた。
バンシーの、緑の衣が朱に染まる。
ふ、とバンシーの悲鳴が止んだ。駿がバンシーを喰らっていた汚濁に、霊刀を突き立てていたのだ。
「女に手荒なことしてんじゃねえよ」
駿は霊刀を引き抜くと、跳躍して酒田家の塀に降り立った。
「あーあ。もうしばらく秘密にしときたかったんだけどな」
「村崎……? 何してる、早く汚濁を!」
躑躅の枝から顕現させた霊刀を無に帰した駿に、汚濁と闘う菫が声を張り上げる。
逆光となって影に沈んだ駿の表情が、微笑んだのが見て取れた。その微笑は悲しみを含み、菫はどきりとした。
「天の横溢、魔の哄笑、日陰の冷涼、縛された鮮血、……黒白」
聴いた憶えのない呪言だった。駿が新たに手にした躑躅の枝は、黒と白の明瞭に区分された二色を生み出そうとしていた。
この状況で新しい、幼いとも思える声の出現を、誰が予期しただろうか。
声は高らかに吼えた。
「八百緑斬!」
小柄な影が疾風のように現れたかと思うと、厚みのある若草色の太刀で一体の汚濁を斬り捨てた。手傷を負っていたとは言え、驚くべき剣腕である。
街灯に照らされた白髪、紫の目の児童は、興吾だった。姉と同じ、紫の燐光を身体に帯びている。その姿は若草色の霊刀共々、様になっていた。菫はそれどころではない。駿は顕現させそうだった霊刀を、興吾の出現で中途で断念したようだし、なぜ興吾がここにいるのか問い質す暇もなく、もう一体の汚濁に対峙しなければならなかった。残った汚濁はバンシーを喰らおうとはせず、仲間を消滅させられた怒りに猛り狂っているようだった。
再び泣き出すバンシー。片腕を喰われても、その習性は変わらないのか。菫は華絵と共闘し、それぞれ前と後ろから汚濁に攻撃を仕掛け、汚濁を翻弄した。ついに菫が汚濁に止めを刺した時には、背中が汗でびっしょりと濡れていた。
バンシーはまだ、泣いている。