意地悪
駄目だ。
暁斎の姿を見るだけで、駆け寄りたい衝動が湧く。ドレスで装った、今の自分の姿を見て欲しいという、浅ましい願望を抱いてしまう。斬り結んで尚、恋慕の念は尽きない。薄紫の色が自分に向くことに歓喜する。恋とはかくも人を弱く情けなくする。
「暁斎おじ様」
「直りませんねえ、敬称」
「……はい」
暁斎はそれから、何を言うでもなく、クッションの一つに腰を下ろした。華やかで鮮やかな色合いの室内の中、暁斎の黒い単衣の着流しは異彩だった。けれど不思議と馴染む。暁斎の纏う黒は邪念よりも慎みを感じさせる黒だった。控え目な気品さえ添えて。
「逃げはらへんのですか?」
「逃げられません」
「ほな、僕が逃がしてあげましょか」
菫の目が丸くなる。それが見えたかのように、暁斎がくすりと笑った。
「冗談です」
「意地悪ですね」
「はい」
「……意地悪ですね」
「はい」
向けられる想いを、熱を知っている癖に素知らぬ風で軽口を叩く。自らも菫に想いがあると告げながら、刃を向ける。不意に姿を現し、菫を戸惑わせて。翻弄する。
暁斎は沈黙して立ち上がり、菫の座るベッドまで来た。
え、と思う間もなく、菫は羽毛の柔らかな感触に押し倒されていた。見上げればすぐそこに薄紫の瞳。
「もしここから出られたら、玲音司祭の能力を華絵はんらに伝えなさい」
潜められた声。頬に掛かる吐息にくらくらしそうになる自分を叱咤して、菫は訊き返した。
「――――彼の異能をご存じなのですか」
「はい」
「なぜ、私に教えるのです」
「君らに死なれるんは困りますよって」
「それでも貴方は私たちに刃を向けた」
「玲音司祭に死なれるんも困りますよって」
「……彼の異能とは?」
「先送りです」
「え?」
「玲音司祭の異能は、受けた攻撃の全てを、未来の自分の身体に先送りして受けることです。彼が病気か老衰で天寿を全うして死ぬその時、生涯で身に浴びた攻撃の一切が彼を襲います。壮絶な最期となる代わり、それまで玲音司祭が死ぬこともない」
「けれど、銀滴主と銀月は彼に通用しました」
「それは銀やからです。銀の属性の霊刀だけが、唯一、玲音司祭が先送り出来ひんものなんです。銀は時を繰る、言われてます。それが所以ですやろ。せやから、銀以外の色で彼を殺傷することは不可能。返り討ちに遭うだけです」
「では、村崎の黒白では?」
「解りません。黒白は霊刀の内でも先の読めへんジョーカー。悪食の性質が、玲音司祭の先送りの異能をも上回れば、或いはその攻撃も効くんかもしれませんけど……」
ふ、と暁斎が言葉を切り、更に身体を菫に覆い被せてきた。決して体重は掛けず、空気だけが密接して。白髪が菫の顔のすぐ真横にある。その数本が頬を撫ぜている。金縛りに遭ったように、菫は一寸も身動き出来ない。耳朶に暁斎の呼気を感じる。
「ほんまなら僕が攫うてやりたかった」
動く唇が耳朶を掠めて、菫は声を立てないよう唇を引き結んだ。
これは本当に暁斎だろうか。
「僕だけの君にして、僕だけしか見えへんように」
銀の雪。その秘められていた熱の一端に菫は触れた。暁斎の唇と呼気が耳朶を掠める度、菫は身じろぎした。身じろぎした拍子に、暁斎の身体に触れる。どうすれば良いのか解らず、菫は恐慌状態に陥っていた。暁斎は体重を掛けないまま、菫の肩を抱きすくめた。これ程の熱情を彼にぶつけられるとは思いも寄らない。菫は無意識に固く目を閉じていた。暁斎の身体が唐突に離れる。離れながら、菫の頬を手で撫でて。その手は唇にも当たった。人指し指が、菫の唇の輪郭をなぞるように動いた気がした。ざわり、と背筋が粟立ったのは、何の感情ゆえか。頬が熱く火照っているのが自分でも解る。
それまでの行為がまるでなかったかのように、暁斎はあっさりベッドから離れ、未だ体勢の整わない菫に告げた。
「ほな、華絵はんらによろしゅう」
バタン、と閉じる扉の音を聴いてもまだ菫の心臓は荒れ狂っていた。暁斎の言動の一つ一つが鮮明に思い出される。どこまでが彼の本音だろう。もし全てが暁斎の偽らざる本心だとしたら? 愛されているとしたら。愚かだと自嘲しながら泣きたいくらいに嬉しくなる自分がいる。
黒白はジョーカー。
ふと暁斎の言葉を思い出す。駿の声も。忘れるなと言っていた。他の男のことを考えていただろうと指摘された時に。そして今、菫の心には暁斎しかいない。いない筈なのに、黒白の言葉が出た時、駿の顔が頭をよぎったのはなぜだったのだろう。忘れるなと言った時の、あの顔が。
駿と華絵は持永、そして百瀬経由で鶴の連絡先まで辿り着いた。興吾は事情を京史郎に話し、今日は学校を休み忍についている。鶴の傷は癒えつつあると言う。元来、守りが得手の巫術士である。鶴が万全の状態であれば、彼女一人に菫救出を求めるという案もあるが、孫の命の恩人とは言え、そこまで鶴に負わせるのは流石に厚かましいだろう。
『それで、菫はんは囚われはったんですか』
「はい。ついては貴方に、玲音の張った結界の内まで侵入する助けを乞いたいんです」
駿が代表してスマートフォンで鶴と話している。それを華絵が横から見守る。
『それは構しませんけど、あちらさんの手勢を越える味方を伴わへんかったら、また同じことの二の舞いですやろ』
「ですから、気付かれずに潜入したいんです」
『神楽京史郎はんにご助力は適いませんのか』
鶴は駿たちだけで玲音の拠点に赴くことに、どうしても危惧の念を抱かざるを得ないようだ。
「神楽さんは……」
『喪中なんは知ってます。せやけど、娘の一大事ですやろ。言うてる場合とちゃうんやありませんか』
巫術士の長らしい、手厳しい言い様だった。
「私で良ければ同行しようか」
いつの間にか研究室内に立っていた御倉昌三が、気さくな声で申し出た。まるでピクニックに同伴するかのような、軽い口調だった。華絵が立ち上がる。
「お父様」
「それではどうかと田沼鶴殿に訊いてみたまえ、村崎君」
「……ありがとうございます」
昌三の参戦を聴いた鶴は譲歩し、結界内への道案内を務めることを了承した。駿か華絵に結界で道を繋ぐので、少し時間が欲しいとのことだった。
「お父様。お忙しいのではなくて?」
「娘の大事な友人の窮地と聴いてはね」
緑の目を和ませ、愛娘を見つめる昌三を、駿は複雑な思いで眺めた。昌三が動いたのは、何も情に動かされた訳ではない。バイオレットという、隠師にとって大事な駒を敵陣に置いておくに危ういと感じたからだろう。菫の身を心底案じての行為とは思えなかった。京史郎が動ければ、それに越したことはない。理性と感情のバランスを、強靭な精神で保つ彼であれば或いは、今でも戦線に立つかもしれない。だがそれは痛ましい強靭さだと駿には思えた。昌三と華絵が話している間、駿は余程、京史郎に連絡を取ろうかと考えた。だがその必要はなかった。
研究室のドアが開き、コツリと革靴の音がした。
京史郎が、駿と華絵、そして昌三を見回していた。隙なく着こなしたスーツ、常と変らぬ冷静な面持ちで、歩みを進める。昌三の前で立ち止まると、口を開いた。
「息子から話を聴いた。私も同行させてもらう」
「娘が可愛いのは君も同じか」
「そうだ」
「……改めて、美津枝さんのことは気の毒だった」
「過ぎたことだ。今更、何を言っても始まらない」
冷徹とも取れる口調に、昌三でさえ目を瞠った。彼は京史郎がどれだけ美津枝を愛していたか知っている。そして、美津枝が本当は既に死人であったことは知らない。
「だが」
「それより私は、我々の努力が徒労に終わる心配をしているよ」
「目的が達成出来ないと?」
京史郎が初めて笑った。不敵に。
「菫は私の娘だ。ただ黙して、助けを待つような子ではない」