姫暮らしにそよぐ風
朝の光が眩しい。
澄んだ空気が容赦なく遍く世界を照らし出すような、そんな錯覚を覚える。
菫はドレスの裾を軽く持ち上げて敷地内の庭に出た。貴賓室に鍵は掛かっておらず、彼女は部屋を自由に出入り出来た。絹のネグリジェには閉口したが、それも昔に戻ったと思えば良いと自分に言い聞かせ、夜はそれに着替えて眠りに就いた。眠れるかどうか危ぶんだが、しばらく物思いに耽り、時を過ごしていると自然に睡魔が訪れた。
自分は思ったより図太いのかもしれないと微苦笑する思いで、菫は庭の花壇を眺めた。
コスモス、バーベナ、百日草、マリーゴールド、石蕗、咲き乱れる花々。少し離れたところにはコキアが植わっている。紅葉しかけのコキアは、緑と赤、双方の色を宿していた。
「一枚の絵のようだね」
足音には気づいていた。菫が振り向くと、作業着姿の玲音が笑顔で立っている。彼一人でこれらの花壇の世話をしているのだろうか。かなりの労力だろう。
「気に入ったかね。バイオレット。私の丹精した花は?」
「綺麗だ。花に罪はない」
「まるで私には罪があると言いたげだな」
玲音が咽喉の奥で笑い、花壇の前にしゃがみ込むと、雑草を抜き始めた。肥料の袋が横にある。丹精しているという言葉は嘘ではないらしい。菫はしばらく玲音が作業する姿を黙って眺めていた。
美津枝を思い出す。美津枝もガーデニングに精を出していた。あの花々は、今はどうなっているだろうか。京史郎に花の世話をする気配りまで望めるとは思えない。朽ちて、枯れ果てるのは不憫に感じられる。今度、実家に戻る時には花壇の様子を見て来ようと菫は思い、当然のようにここから帰る積りでいる自分に気付く。
華絵と約束した。帰らなければならない。
その為には玲音の結界から出る必要がある。彼は霊刀の異様のみならず、結界術にまで通じている。余程、その術を心得た者でない限り、ここに辿り着くことも、また、ここから出て通常の空間に戻ることも適わない。
「帰りたいかね」
菫の顔を見ず、作業の手を休めぬまま、玲音が菫の思考を読んだかのように訊いてくる。
「無論」
「ここが本来の君の居場所なのに」
「妄言を」
「そうかな? 人は存外、自分のことを知らない。君はどれだけ、君自身について知っている? 少なくとも私は、君の知らない事実を知っているよ」
「知っていながら話さない。なぜだ」
「理由は私の他にもその事実を知る者たちに共通しているだろう。バイオレット」
玲音が軍手を嵌めた手で、コスモスの花弁をそっと揺らした。留まっていた蝶が驚いたように逃げて行く。
「真実は過酷で、君が哀れだからだ」
忍の隣で、興吾は熟睡出来なかった。
囚われた姉の心配、忍の容態の心配。まだ幼い身で彼が抱える心労は多い。浅い眠りの中、朝を迎え、忍の顔色を見る。以前、銀滴主の毒を受けた菫と同じく、顔色はまだ優れず、高い熱があるものと察せられた。長い睫毛が微かに動く。海とも空とも知れない蒼い双眸が現れる。宝玉みたいだと興吾は思った。その宝玉が興吾の顔を映している。
「神楽興吾」
「何か食えるか。飲めるか」
「神楽菫のこと……」
「喋るな」
「私の不徳の致すところだ」
「飯、作ってくる」
弱々しい声で、詫びる忍など見たくなかった。傲慢で高慢で、自らの力に絶対の自負と高い矜持を持つ少女。彼女はそうでなくてはならない。
己の中の偶像を守りたいと言うよりは、忍の萎れた姿から目を逸らすことで平生の、そうであるべき忍の気位を尊重しようとした。興吾は逃げるようにキッチンに回った。煉瓦の壁一枚隔てて、忍との距離を置くことに努めた。
昨日から解凍しておいた海老と春菊を入れた雑炊、そして自分用にはそれに加えて鶏の手羽先を焼き、卵焼きを作った。今後に備えて力をつける必要がある。興吾ががつがつと朝食を食べる横で、忍も少しずつ雑炊を口に運ぶ。頃合いを見てホットミルクを差し出すと、忍は大人しく受け取り、これを飲んだ。白い咽喉が牛乳を嚥下して動く様を興吾は見ていた。そして自分も牛乳を飲むと、皮を剥いて切った林檎を乗せた皿も、忍に差し出した。まるで雛鳥の世話を焼く親鳥のようだと自分でも思うが、重病人相手なのだから仕方がない。忍は林檎を一切れだけ食べると、疲れたように吐息を吐き、再び横になった。
「私の快復にはまだ時を要する。神楽菫を奪還したくば、巫術士を頼るが良い。基本、静観する姿勢の彼らだが、今回は違うのだろう?」
横になり、蒼い双眸を天井に据えて、忍が言った。
巫術士。その手があった。興吾は現状に一筋の光明を見出した。同時に、鶴の孫娘を玲音の仲間が誘拐した一件が、既に知れ渡っていることに驚きもした。この業界の人間の、耳は早いと言うが。菫たちに恩義を感じている田沼鶴であれば、助力してくれるに違いない。
「田沼鶴の連絡先ならば、百瀬が知っているだろう」
そこまで言って忍は目を閉じた。長く話したことで身体に負荷が掛かったらしい。
鶴に繋がる百瀬の連絡先を興吾は知らない。菫にはいつも百瀬のほうから連絡が来るのが常だった。だが百瀬と親交のある持永なら知っているかもしれない。
興吾は一考した後、華絵に電話でそのことを告げた。細い線を辿るような行為だが、今は地道な努力を重ねるしかない。スマホの通話を切ると、ふう、と嘆息し、忍を見た。重態の忍を一人には出来ない。一人にしたいとも思わない。姉を案じる思いと同時に、忍を庇護したいという思いが興吾の中に共存していた。
鳴ったチャイムの音に、興吾は敏感に反応した。華絵ではない。駿でもないだろう。朝早くから、誰がこの部屋を訪ねるのか。ドアスコープを覗き込んだ興吾は、更に警戒心が強まる。
「何の用だ」
ドア越しに相手に尋ねる。無愛想な声になったのは仕方ない。
「忍さんがお出でだろう。彼女を迎えに来た」
小池静馬は艶めいた唇を動かし、興吾にそう答えた。憂い顔なのは芝居ではないようだ。業界のネットワークかと考えながら、なぜ静馬が忍を迎えに来るのかと怪訝にも思う。彼らもまた、隠師同士で集っているのだろうか。自分たちが持永の研究室に集うように。静馬を御師と知らない興吾はそう考えた。躊躇の末、チェーンを外し、鍵とドアを開ける。
「あいつはまだ絶対安静だ。無暗に動かすべきじゃない」
「……君が彼女の看護をすると?」
「ああ。悪いが、あんたもまだ信用出来ないしな」
唇を舐めて湿し、静馬は発する言葉を選択しているようだった。興吾を子供と侮らず、真剣に思案している。
「解った。忍さんがこちらにおられる間、僕もガードにつく」
「――――忍ってあんたの何なんだ?」
きょとりとした表情が静馬の面に浮かぶのを、興吾は初めて見た。静馬は口元を覆った。笑いを堪えているようだ。
「提携相手だよ。君の考えているような仲じゃない」
「そうかよ」
笑われたことが面白くなくて、興吾は仏頂面で応じた。静馬は部屋の奥を一瞥すると、興吾に視線を戻した。その眼差しに笑みや緩みは既になく、怜悧に興吾を測る色があった。
「彼女を頼む。くれぐれも」
「ああ」
「君が僕を失望させないと信じる」
それは興吾への圧力だった。その圧を、興吾は毅然とした眼差しで跳ね返した。静馬はその言葉を残して身を翻した。彼の背中を見ながら、駿にも事情を聴く必要性を興吾は感じた。
天蓋つきのベッドに気怠く寝転がって、菫は上を見上げていた。天使たちが喇叭を吹く様が描かれている。最後の審判の様子だろう。ここに描くのはどうかと思うが、と考えながら、天使たちの髪の色が水色や白など、一風変わった髪の色であることに気付く。まるで異相の隠師のようだ。彼らの後ろには水と炎がせめぎ合っている。世界の終焉を描いたにしては随分と斬新な絵柄だ。
ノックの音に、菫は上半身を起こし、スカートの裾を整える。
「はい」
菫の声のあと、扉を開けて入室したのは暁斎だった。見えない目が確かに菫の居場所に据えられている。菫はこくりと咽喉を鳴らした。