虜囚は憂い火影は躍る
悲鳴を上げたのは菫だった。忍の張っていた結界が消失し、その悲鳴は華絵たちの耳にまで届いた。
「忍さん!」
身廊に散らばった水色の長い髪。蒼白な顔。危急の事態と見て取った華絵が駆け寄り、ウェストポーチから黍団子を取り出すと、その一部を忍の口に含ませた。忍が即死しなかったのは、暁斎の手心と、忍自身の霊力、生命力の高さゆえに他ならない。けれど危険な状態にあるのは確かだった。
菫が放った銀月の技で、玲音陣営の面々は傷を負っていたが、それでも忍程には重症ではなかった。忍の身柄を回収し、速やかに退却する必要性を華絵も駿も感じた。問題は、それを状況が許すかどうかだ。中でも比較的、軽症の玲音が、菫に穏やかに懐柔する声音を聴かせた。
「バイオレット。君がここに留まるのなら、彼女は見逃そう」
「駄目だ」
素早く反駁したのは駿だった。彼は黒白の切っ先を玲音に向けていた。菫を玲音が得たところで、彼は菫をどこまでも掌中の玉と敬い厚く遇するだろう。しかし彼女を、自分たちが失う訳には行かない。何より駿の心が、菫との離別に強い拒絶を覚えていた。それは、玲音の傍らに立つ暁斎の存在ゆえでもあったかもしれない。赤い身廊が、ファサードのバラ窓が、精緻な意匠の柱頭が、しんとして集う人々の思惑を見守るようだった。
一刻の猶予もない。
忍を見てそう判断した菫は、自ら進んで玲音に近づいた。
「菫っ」
玲音の差し出した手に、迷いを振り切り手を預ける。玲音の口元が綻んだ。暁斎は黙っている。
「玲音。教会周囲の結界を一時、解いてくれ。彼女たちが無事に出るところを見なければ、私は安心出来ない」
「良いだろう」
菫と玲音の間で交わされる会話は滞りない。華絵も、駿も、敵に身を委ねようとする菫をただ傍観するしかなかった。
「華絵さん。早く忍さんを連れて行ってください。私の部屋まで運べば、あとは興吾が何とかしてくれるでしょう。興吾が帰るまで忍さんには霊力の補給が必要です。華絵さんか、村崎にお願いします」
淡々と、自分がいない事後を想定して指示を出す菫を、華絵は歯痒く思った。自分より年少の菫に、重荷を背負わせて去らねばならないのは苦痛でしかない。しかし、忍の救命は一刻を争う。駿に視線で促し、忍の身を抱え上げさせながら、華絵は菫に語り掛けた。
「彼女のことは心配しないで良いわ。菫。貴方は必ず、無事にまた私たちの元に戻りなさい。良いわね?」
「その積りです」
玲音が彼女たちの会話を看過したのは、菫を手中にしたという満足感からだろう。宿望を叶えると、人には余裕が生まれる。些少のことには寛容になる。そして彼は菫との約束を果たした。結界を無効とし、華絵たちが去るまでを見送った。
あとに残ったのは負傷した樹利亜、虎鉄、暁斎、玲音。そして無傷の菫。
虜囚となった菫一人が無傷なのは、奇妙な光景ではあった。玲音は樹利亜たちに声を掛ける。
「部屋に戻り、傷の手当をしなさい。安野暁斎。君もだ」
「彼女はどないするお積りです」
「無論、丁重に遇するよ。大切なメシアだ。姫君のように大切にすると約束しよう」
姫君のように大切に。
但しそれは高い塔に囚われた姫君。さながらラプンツェルだ。
菫はその自覚を噛み締めながら、暁斎をそっと盗み見た。彼の面は常と変らず凪いでいて、何を思うかは解らなかった。
玲音に指示されるまま、回廊で繋がった建物の浴室のバスタブで身体を洗い清め、用意してあった紫色のドレスに着替えた。シンプルでほっそりしたドレスは菫の為に誂えたように身に馴染み、彼女の清楚で凛とした容貌を際立たせた。
小学校から戻った興吾を待っていたのは姉ではなく、姉を取り巻く大人たちと忍だった。忍は本来であれば菫が寝るべきであるベッドに身を横たえている。顔色を一目見れば、重態だったのだと判る。一体、何があったのか。問い詰める興吾に、華絵が起きた出来事を語って聴かせた。駿は寡黙に、無表情を貫いている。
「菫が戻る余地はあるのか」
「あの子のことだから自力での脱出を図るでしょうけど、落ち着いたら私たちも救出に向かうわよ。ただ、私たちはあの教会への道筋を知らないから、忍さんの快復を待たなくてはいけないわ」
そんな会話を聞き流しながら、駿は菫のことを考えていた。
忍の命と引き換えに、敵の手に落ちた菫。それを成す術もなく見ていた自分。菫は忍だけではなく、駿たちの命をも守ったのだ。あの場から安全に逃れさせるという意図は、確かにあったのだろう。――――心が不穏にざわつくのは、菫の身を案じるからではない。暁斎が共にあの場所にいると知るからだ。菫に心を寄せる暁斎。菫を殺そうとした暁斎。そして菫が心を寄せる暁斎。一つ所に彼らがいると思うだけで、駿は落ち着かず、いても立ってもいられない気分だった。玲音の手に菫の手が乗った時。駿の目には玲音の手が暁斎の手に見えた。暁斎に菫が委ねられたように見えた――――。その時も今も、駿の胸を占めるのは心配ではなく、嫉妬だった。身を焦がすような。敵味方に分かれているとは言え、男女の心の機微などどうなるか知れたものではない。ともすれば自分に苦痛でしかない想像を巡らせてしまい、そんな自身に駿は辟易していた。
視線の先には眠る忍がいる。
そもそもの元凶は彼女だと思えば、憎らしくさえ思えるのだった。興吾は割り切っているのか、忍と自分たちとの夕食の準備をキッチンでしている。どんなに心がささくれ立っていても、滋味を彷彿とさせる匂いが流れてくれば、和むものはある。興吾のほうが自分より余程大人だと思い、駿は苦笑する思いだった。彼も菫も、母親を亡くしたばかりなのだ。まだ喪も明けていないのに、平生の寝食のリズムを保とうとする彼らは、痛ましくもあり、健気でもあり、そして健全な強さを有していた。
興吾の卵粥を、忍は食べなかった。
一度は目が覚めたのだが、事態を把握して屈辱に顔を歪めてから、再び眠りに就いた。眠る直前、彼女は小さく「済まない」と呟いた。鯖の味噌煮と南瓜の煮つけ、法蓮草のお浸しに掻き玉汁の夕食は、駿たちに菫不在の痛手を感じさせまいとする温もりに満ち、心身が幾何か、癒された。
「お前一人で大丈夫か、興吾」
「ああ。病人の看病は慣れてる」
「説得力あるわね。じゃあ、彼女のこと、任せるわ」
華絵は駿と興吾に後ろを向かせ、忍の着物を脱がせ、代わりに菫の部屋着を適当に見繕って着せ、楽にしてやってから、布団を掛け直した。今までそのことに思い至らなかったのは、やはり華絵自身、動揺していたせいだろう。忍の応急処置が先決だった為でもある。硝子戸の向こうの外はもう、暮色に滲んでいる。紫と藍の色が、侘しく胸に沁みた。華絵は白銀色のカーテンを静かに閉めてから、駿を促して部屋を出た。この部屋に、再び菫が帰る日が来ることを心の底から願いながら。
興吾は洗い物を終えて、入浴を済ませると、ローテーブルを折り畳んで布団を敷いた。横のベッドに眠る忍の顔色を窺い、症状の悪化が見られないことにひとまずは安堵する。姉が敵陣営にいることは彼にとっても青天の霹靂であり、どうしてそんな事態になったと駿に掴み掛りそうになる自分を必死で抑えた。駿たちには、冷静に話を聴いているように見えたかもしれないが、興吾の心中は荒れていた。そこに加えて瀕死の忍だ。誰を恨めば良いかと思い、暁斎の顔が浮かぶが、それも何か違う気がして、状況の理不尽を呪った。こんな状況で忍と一つ部屋にいられても嬉しくも何ともない。そもそも死にかけた女に何が出来ると言うのだ。弱った相手の隙につけ込み、自分の欲求を満たそうとする程、興吾の性根は腐ってはいなかった。ただ、幾分、心臓に悪いのは事実だった。あらゆる意味で興吾は切実に、菫の帰還を願った。
(暁斎おじと一緒で、平気なのかよ)
悲しい恋をしている姉に、胸中でそう、語り掛けた。
状況がよく呑み込めず、遙は虎鉄に二度、事情の説明を求めた。虎鉄は面倒臭がりながらも、律儀に遙に説明した。
それでようやく、遙も菫が同じ敷地内にいる事実を了承した。彼にとって嬉しい誤算とも言える情報ではあったが、菫の心身が気掛かりでもあった。玲音は決して菫を傷つけないだろうが、菫は自分の置かれた現状を憂いているだろう。
夕食を虎鉄と共に済ませ、遙は単身、菫のいるであろう貴賓室に足を運んだ。
木の扉をノックすると「どうぞ」と声が返る。そんな場合でもないのに、菫の声が返るだけで胸がときめく。
そっと扉を開けた先には、張り出し窓に腰掛けるドレス姿の菫。貴賓室内の調度と合わせて、物語の姫君のようだ。遙は菫に見惚れている自分に気付き、慌てて扉を閉めた。菫は皮肉な笑みを浮かべて遙を迎えた。
「似合ってないだろう」
「そんなことないよ。君は元々、お嬢様育ちじゃないか」
「うん。少し、昔に戻ったみたいだって、自分でも思ってた」
そう言いながら遙に、豪勢な刺繍の施されたクッションを勧める。ドレッサー、クローゼット、チェスト、天蓋つきのベッド。大理石の床に敷かれた毛足の長い絨毯。女性用の貴賓室に相応しく、金を多用したシャンデリアも華奢で細かな氷の彫刻のようだった。
「戻れるものならな」
呟く菫の内心を推し量り、遙は俯いた。彼女の兄の惨劇は、どうやっても取り返しがつかない。詮無いことと承知の上で、呟く菫が切なかった。
「母が亡くなった」
それは遙にとって急襲のような報せだった。菫が遙を凝視する。その真っ直ぐ過ぎる瞳に、遙のほうがたじろいだ。
「遙君は、知っていたんだろう? 母は、もうとうの昔に」
「……うん」
「歪な形で永らえさせていたのは私だ。けれど、その夢ももう終わった」
遙は菫に掛ける言葉を探しあぐねた。暁斎に殺されかけ、母を真実、喪い、そして今、自らは囚われの身となっている。菫の境遇は荒波に揉まれるようで、気の利いた言葉も覚束ない。口を突いて出たのは結局、取るに足らない問い掛けだった。
「夕飯は、もう食べた?」
「うん。玲音司祭は物覚えが良いな。私がロシア料理を好きだと言ったことを記憶していた。お蔭で晩餐は、ロシア料理のフルコースだったよ」
「……一人で?」
「いや。食堂で、暁斎おじ様と、玲音司祭と。我ながらシュールな光景だと思った。味は余り解らなかったな。惜しいことをした」
淡々と語る菫の口から自然に暁斎の名が出ることが、遙には不可解だった。彼女の心を未だに独占している暁斎を妬ましくも思った。彼女を帰してやりたい自分と、帰したくない自分が同時に遙の心にいて、心はあちらにこちらにと傾いた。今はただ、同じ空間の空気を吸っているだけで良い。そう自分に言い聞かせて、菫の姿を心に収めた。
赤いワインのグラスが揺れる。くるりくるりと華やぐように。
今日の戦場で散った鮮血を思い起こさせる色。だが玲音の心に、その色ゆえに湧く感傷はない。
「君の最終目的は解っている」
「そうでしょうね。貴方と契約を結ぶ時にそれは明かしましたから」
「バイオレットを殺しかけた時はまさかと思ったが」
「加減を見せれば怪しまれます。それは僕がここに居続ける為に得策やない」
「容赦のない男だ」
「貴方がそれを言わはりますか」
「バイオレットを得た今、自分の身が危ういとは思わないのかね?」
「と、言いますと?」
「銀は一つで事足りる」
暁斎が凄みのある笑みを浮かべる。電飾の消えた、火明かりだけの室内に、その笑みは陰影濃く、刃の切っ先のようだった。
「思いませんね。菫はんは貴方の意には沿いませんやろ。僕と違うて」
「君のそういうところを、私は買っている」
そう言って玲音は銀の燭台に点る炎に照らされたテーブルの上、ワイングラスを掲げた。暁斎もそれに合わせる。壁に黒い影が躍る。
「我らがバイオレットに」
「バイオレットに……」