世界暗愚
玲音の私室はごく質素な部屋だった。椅子に机、本棚、ベッド。本棚が大きいのが目立つくらいだろうか。他は遙たちの部屋とほとんど変わりないか、寧ろそれよりも慎ましい室内だった。まるで清貧を旨とする聖職者のような。採光が大きく取られた窓は張り出し窓で、カーテンは深いグレー。椅子に掛けた玲音は午前中の花壇の手入れを終えたあと、司祭服に着替えてグラスの水を飲み一息吐いているところだった。朧に柔らかな日光が、彼の心を平らかにして、過去の記憶を辿らせた。
彼は東京の下町の貧民街に生まれた。すえたような臭い、腐臭、そんなものと身近に接しながら育った。下町にも差別はある。玲音の異国人然とした風貌は、同い年の子供らに礫を投げさせるに十分だった。父も母も、生粋の日本人である彼は、隠師という存在すら知らず、ただ両親の諍いの種となった。父親は妻が浮気したものと決めてかかった。玲音への風当たりもきつく、彼は肉親の温もりを知らない子供だった。突発的に生まれたはぐれ隠師にはままあることだ。異相が、異能が、隠師たるゆえと知ったのは、ある占い師の老婆に声を掛けられてからのことである。彼女は玲音に隠師の何たるかを教えた。そして玲音は隠師の中でも更に異端の存在であると告げた。側溝のどぶを這うように生きる玲音に、老婆の言葉は一つの道を提示してくれた。だが玲音は隠師の同胞たちと繋がろうとはしなかった。それは彼の異能ゆえでもあり、信条ゆえでもあった。独りで生きること。少なくとも明確な目的が生まれるまでは。彼はそれを貫き、時に犯罪に手を染めながら大人になった。
悔やむべきは菫にもっと早く出逢えなかったことだ。彼女こそが、玲音の生きる目的となったのに。だから玲音は、暁斎を受け容れた。彼の提案を呑み、手を組んだ。
グラスの水を揺らしながら、叛逆の汚名を着た暁斎に思いを馳せる。
白髪の、盲目の男。
悲しい程に強い。痛ましい程に強靭で。
独りだ。どこかの誰かと似ているようで、それを更に上回る。
あんな生き方を実践出来る男がいること自体、玲音にとっては奇跡で、驚嘆すべきことだった。愛を知りながら愛に浸ろうとしない。
背を向けて突き放す様は玲音から見ても冷徹に映った。菫に哀れを覚える程。
「バイオレット……。事が成就した暁には、彼を君に返そう」
但しその時、暁斎が物言わぬ躯となっていたとしても、それは玲音の関知するところではなかった。
暁斎は一人庭に出て跪き、コキアの感触を確かめるように手で草に触れていた。もうすぐ紅葉すると玲音は言っていた。彼の言葉を確認する術は、暁斎にはない。それを別段、惜しいとも思わない。視力を失くしてから、慣れるまでは歳月を要したが、慣れれば見えた頃には見えなかったものまでが視えて、それが暁斎に失明の苦痛を感じさせなかった。どうしても対象物の形を知りたい時は手で触れればそれで事足りる。だがそんな状況は暁斎には極めて稀だった。最近になって手で触れたいものが出来たが、自らそれを捨ててしまった。戦闘時に盲目で苦戦したことはなく、寧ろ相手が勝手に暁斎を侮り、自滅することも多かった。暁斎は視覚以外で、人体の発するあらゆる情報を感じ取り、分析し、応戦することが可能だった。
「コキアが気に入ったかね」
不意に声を掛けられても驚くことはない。幽けき足音すら、暁斎の卓越した聴力は拾っていたからだ。玲音の足音から彼の心情を推し量ることも出来た。彼はどこか、夢想から帰ったような心持ちのようだ。暁斎に掛けた声も穏やかで、棘がない。菫を殺すなと念を押した時の声とは雲泥の差だ。
「可愛い植物ですね」
「花言葉を知っているかい?」
「いいえ。その方面には疎いもんで」
「貴方に全てを打ち明ける」
「……」
「皮肉なものだね。君はバイオレットに何一つ告げずにこちらに来たと言うのに」
皮肉と言いながら皮肉を感じさせない声音で、玲音は空を見上げた。
「貴方も僕を必要としてはりました」
「もちろん。そして君もね」
「時を稼いではるんやありませんよね?」
「どうしてその必要がある。君との契約が履行されるのを、誰より望んでいるのは私なのに」
「呪言の完成は」
「そう遠くないとだけ言っておこう。そうして完成した暁には、安野暁斎。君は時の旅人となる」
牡丹柄の振袖姿の忍の跡を、菫が追う。長い帯がひらひらとして、蝶のようだ。その更に後ろに駿と華絵がついている。華絵は霊弓雪羅と黍団子を携帯している。忍の跡を見失わないように、住宅街を右に左に曲がりながら進む。こんなことで果たして玲音の拠点に辿り着けるのだろうかと、半ば危ぶみながら。菫は足を速めて、忍に追いつく。
「何だ、神楽菫」
「どうしてそこまで玲音打倒に拘る? 貴方程の人が」
「私は醜いものが嫌いだ。弱い心が視るに堪えない。然るに玲音はそれを称賛し、認め、あまつさえ広めようとしている。冗談ではない。汚濁でこの世を満たすなど、狂気の沙汰だ」
忍の言うことは正論に近いと菫も感じた。だが、彼女は弱者への容赦がない。なまじ自らが強い為に、弱さ、儚さへの理解がなく、無慈悲に切り捨てようとする。危うい生き方とも言えるだろう。弱肉強食の世で頂点に近しい彼女が、自分よりも強者に出逢った時、彼女自身の矜持も信念も、脆くも崩れ去ることを、忍は理解しているのだろうか。強さに絶対の価値を見出すことは、己を危うくする。
やがて壮麗な石造りの教会が見えてきた。玲音の拠点だと、菫の直感が告げる。教会の周囲には幾つかの建物が並んでいた。想像していたよりも大きな規模だ。
「入るぞ、神楽菫」
忍が教会の扉を開ける。重々しい音が響き、前方に身廊が現れた。後ろを振り向くと駿も華絵もちゃんとついて来ている。教会の中は何か芳しい香りがした。キリスト教の教会では香を焚くこともあると言う。この教会でもそれに倣っているのかもしれない。
忍の手に押され、菫が先頭に立ち、内陣の手前まで来た。
正面のステンドグラスにはキリストの像。菫をメシアと呼びながら、キリストもまた玲音の信仰対象なのだろうか。それとも形だけか。光に魅入っている余裕はなかった。内陣の内部横手の扉が開き、そこから玲音その人が姿を現したからだ。
こうして見ると司祭服の玲音と教会は、違和感なくしっくり馴染んでいた。彼は微笑んで両腕を広げた。
「ようこそ、バイオレット。我らがメシアよ」
「私はメシアではない。私には誰も救えない」
自分自身さえ。
「それは君が君自身の価値に無知だからだ。惨劇の所以を己に求め、安野暁斎の裏切りを己に求める。自責さえすればそれで全てが丸く収まるというのは、甘い見解だよ」
菫は持っていた掃溜菊をかざした。
「魂魄の厳粛なる誓約。あるかなしかと命脈に問え。銀月」
顕現した霊刀を見た玲音の顔が僅かにしかめられた。菫の横に並び立ち、それまで二人の遣り取りを聴いていた忍もまた、牡丹を振る。
「仰天の御柱。玉水宴」
清水のせせらぐような霊刀が顕現する。こちらに対しては、玲音は一瞥しただけだった。駿も華絵も、既に内陣近くに迫り、それぞれの霊刀を呼び出している。
銀、水色、黒白、朱、とりどりの色の刃の全てが、玲音に向いていた。
「極北の王。清かなる龍影。召しませ夢を。銀滴主」
やはり来たかと思ったのは、菫だけではあるまい。玲音の後ろから姿を現した暁斎は、玲音を庇い、主に菫を相手取る構えを取った。菫には心情的にも戦闘としても過酷なことだった。
「君とは戦えない、バイオレット」
「逃げるか。やはり銀が苦手と見えるな、司祭」
忍の挑発に、玲音が不快そうに眉間に皺を寄せた。その間にも暁斎と菫は斬り結んでいる。視認出来るかどうかという速さで、凄まじい打ち合いを演じていた。
「良いだろう。間もなく樹利亜たちもここに集う。しばらく、君と遊んであげよう」
「ほざいたこと、後悔するなよ」
玲音は懐から取り出した短剣で、自らの指を傷つけた。滴る真紅を舐めて、その舌で呪言を紡ぐ。
「災いの目眩まし。暗愚の慈悲。華には華を」
玲音は霊刀の名を呼ばなかった。彼の霊刀には名がなかったからだ。
押し寄せる汚濁の気配を、その場にいる誰もが感じ取った。うっそりと暗い色合いの波。無明の思念。汚濁は凝りとなり、一振りの刀の形を取る。柄までもが濁った色合いで、形容し難くおぞましい刃だった。忍が露骨に嫌悪する表情になる。
「唾棄すべき亜種め」
「その口がいつまで持つかな」
「玉水宴。三千囃子」
忍は自らと玲音だけを囲む結界を張り、技を放った。笛、太鼓。囃子の音色が玲音の五感を狂わせ、追い詰める。
その筈だった。