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去りしのちにも戦いは

挿絵(By みてみん)

 美津枝の不在は、菫にも京史郎にも、そして興吾にも、心に寒風を吹かせた。いなくなって初めて解る有り難味とはこういうことを言うのだろう。離れて暮らしていてさえ、彼女は菫の心の拠り所だったのだ。何もかもが遅かった。そう思う。暁斎への想いを、聴いてもらうことさえ出来ず。京史郎との馴れ初めを話してもらうことさえ出来ず。早朝、目覚めた菫は白銀色のカーテンを見ながら後悔先に立たずという言葉を噛み締めていた。京史郎は大丈夫だろうか。家事は興吾程ではないが、出来る。今はスーパーやコンビニに行けば多彩で手軽な食糧が手に入りもする。けれどそれだけで、美津枝のいなくなった寂寞の情は埋められないだろうと思う。首を巡らせ、六弁の花の形を模した嵌め殺しの窓の色彩と、その壁に接する机に置かれた蔦植物の緑を見る。色を知覚出来る。自分は、嘆いてはいるが精神は正常だ。京史郎は、美しい物を美しいと、そう感じることが出来ているだろうか。

 美津枝の葬式、初七日などで実家にいる間、京史郎が珍しく菫にピアノを弾いてくれと望んだ。時々、美津枝が弾いていた『エリーゼのために』。

 菫は父の願いに応じた。黒いアップライトの蓋を開け、鍵盤を愛しげに撫でたあと、静かに曲を奏で始めた。単調だからこそ、技術の要求される『エリーゼのために』を弾いていると、傍らで美津枝が笑っているような気がして、懐かしいような遣る瀬無いような気持になった。京史郎が菫に見せた感傷と言えばそれくらいだ。

 翔が死んだ時の京史郎の憔悴振りを鑑みれば、今回は恬淡とし過ぎていると言って良い。どこかで覚悟していたからかもしれない。京史郎の京は最強の京と称されても、心は所詮、人なのだ。

 視線を感じて下を見ると、濃い紫の双眸が菫を見つめていた。


「起きたのか」

「うん」

「……起こしたか?」

「いや」


 白髪の頭を振って答える興吾はどこか気怠そうだ。美津枝の葬儀の前後から、彼は熟睡出来なくなっている。菫にはそれが心配だった。やはり母を唐突に亡くした打撃は大きいのだ。本人が幾ら大人びていようと、意志が強かろうと、悲鳴を上げる心までは如何ともし難い。しかし興吾が壊れ物のように扱われることを嫌い、逆に菫を擁護しようとさえしていた。まだ幼い身で、姉を守ろうと気を張っている。


「もう少ししたら、朝ご飯の支度をするよ」

「お前、俺に喰わせてばっかで自分は食べてないだろ」


 興吾の指摘は事実だった。菫はここのところ、食が細っていた。溜め込んだ心労が、彼女から食欲を奪っていた。コーヒーばかり飲む菫を、興吾は再三、注意していたのだ。


「今日は食べるよ」

「そうしろ。俺はもう一眠りする」


 興吾の言葉は、菫に心配を掛けまいとする思いから出たものだった。菫の言葉もまた同じで、姉弟は互いに気遣い合いながら日々を過ごしていた。ここは快適に保たれた空間の筈なのに、雪山で遭難している同士のような状況が、そこにはあった。幸いと言うべきか、興吾をいびろうとして逆に骨折した児童の親との話し合いは、美津枝の死により有耶無耶に立ち消えとなった。


 豆腐となめこの味噌汁に、出汁巻き卵。納豆とししゃも。興吾はそれらの朝食を清々しい程、綺麗に平らげた。ご飯はお代わりさえした。菫が残した出汁巻き卵とししゃもを、ぶつぶつと小言を言いながら食べ尽くした。心が消耗すると身体が代わりにエネルギーを欲するのだろうか。興吾を見ていて菫は思う。しかし自分の食欲は失せている。人それぞれなのかもしれない。憔悴時の在り様というものは。


 研究室に行くと、駿と華絵の視線が待っていたかのように菫を捉えた。美津枝の葬儀が終わって数日後に院に復帰してから、毎日がこんな調子だ。菫が負担に思うことを解ってはいるのだろうが、どうしても心配してしまうのだろう。ここのところ、菫には心労が重なることが多過ぎた。華絵たちが菫に対し、過剰に反応してしまうのも無理もないことだった。


「おはよう、菫」

「おはようございます、華絵さん」

「おはよう、菫」

「貴方、誰?」

「いやひどくね!?」

「冗談だ、村崎。おはよう」

「菫のSに磨きが掛かっている……」

「何か言ったか、Tシャツ君」

「確定だな」

「確定って言えば春になったら確定申告の季節よね。嫌ね」

「華絵さん、来年の話をしたら鬼が笑いますよ」


 表面上は和やかな会話をしながら、彼らはめいめいの思いを抱えている。その筆頭にいるのが菫で、自覚があるぶん、彼女はせめてもコーヒーを淹れようとコーヒーミルにコーヒー豆を入れて挽き始めた。


「ケーキがあるのよ、菫」

「俺は肉まんを買ってきた」


 口々に言う華絵たちが、興吾と同じく、菫の食欲減退を心配していることは間違いない。狙ったように高カロリーな物ばかりを持ち寄って、さあ喰えと言わんばかりに菫に声を掛けるのだ。人の好意を退けることが出来ない菫の人の好さに、彼らはつけこみ、菫の体調回復を目論んでいた。心までは踏み込めない領域だから。


 ミルフィーユは、見た目は何とも優雅で美味しそうだが、食べるのには努力を要する。さっくりとフォークで切りながら、慎重に口に運んで行く。紅茶にすれば良かったかな、と菫は思った。華絵はガトーショコラを、駿はレアチーズケーキを食べている。このあと肉まんか、と菫はやや気が遠くなる思いでコーヒーを啜った。


「望ちゃんは、今は元気にしてるらしいわ。鶴さんも。良かったわね」

「昌三おじ様に連絡があったんですか?」

「そう。正式に、巫術士が汚濁側を敵視することを告げるついでに。特務課や長老たちにも、同じ話が行ってるでしょ。塞翁が馬ってとこかしらね」

「玲音の能力がまだ解りません……」

「巫術士の長の結界を軽々、越えてたよな」

「結界を無効化さえした」

「無効化する異能力?」

「いいえ、それなら銀連鎖さえ届かなかった筈」

「解らないわね……。そもそも、能力の内容を明かさないのは、この業界の鉄則ではあるけど」


 華絵が顔に流れ落ちそうだった長い髪を掻き上げる。彼女がそんな仕草をすると、得も言われぬ色香が匂う。

 喋りながら食べ、飲みながらまた喋っているので、いまいち緊張感に欠ける。だが、そのくらいが丁度良い。張り詰め過ぎた糸は切れやすいものだ。ケーキの次に出てきた肉まんに、菫は半ばげんなりする思いでかぶりついた。


「千羽忍は何か知っていそうでしたが」

「みたいね」

「あっさり話してくれる相手でもなさそうだな」

「そうでもないぞ?」


 降って湧いた声は肉まんとコーヒーの匂いが満ちる研究室内で、異質に響いた。

 水色の長い髪、蒼い双眸を煌めかせ、牡丹柄の振袖を着た忍が立っていた。


「邪魔をする」

「平和の?」


 駿の切り返しに、忍が軽く笑う。


「そう、警戒するな」

「京史郎さんを殺そうとしたあんたに、そう言われてもな」

「ならば次は貴殿が私を相手取るか? と、言いたいところだが、話がくどくなる。直に百瀬が来るから受けろ」

「は?」


 何をだ、と三人が思った時、研究室の電話が鳴り響いた。菫が身じろぎする。また凶報であればどうしようと思ったのだ。鶴の時と同様、駿が受話器を取る。


「はい、持永研究室」

『村崎か。わらわじゃ』

「百瀬課長?」


 忍の言う受けろとはこのことだったのか。


『忍との話し合いに、わらわも入れてたも』

「はあ……。そりゃもちろん、構いませんが」


 上司である。寧ろ、忍よりも重んじるべき相手だ。駿はスピーカーのボタンを押した。それと同時のタイミングで、受話器からにゅうと白い手が伸び、肉まんを一つひったっくった。相変わらず食い意地が張っているらしい。もぐもぐ……、と咀嚼する音が研究室内に響く。


『改めて。母御のことは気の毒であったな、バイオレット』


 きちんと咀嚼し終えてから悔やみを言うあたり、一応は百瀬も礼儀を弁えている。まず食べる前に言えという話でもあるが。


「痛み入ります」

『うむ。して、喪も明けぬ内に忍が無粋なことを言い出しおっての』

「人聞きが悪いな、百瀬。バイオレットには餌になってもらう件、既に承諾済みだ」

「その話なら、帰れ。千羽忍」


 駿が手厳しい声で告げる。現状、菫にその役を務めろと言うのは、酷でもあり、非常識でもあった。


「約定を違えるは人としての名折れだぞ」

「時期が悪いと言っている。あんたには人の情がないのか」


 はっ、と忍が短い呼気と共に嗤った。


「情? 情だと? そんなものが戦術上、何の役に立つ。妨げにこそなれ。隠師は人にして人に非ず。貴殿も隠師の端くれであれば心得ている筈だがな」

「生憎とうちは健全と平穏がモットーでね。火の粉が掛からねえ内は動かないんだよ」

「日和見だな」

『こりゃ。喧嘩は止めぬか、二人共』

「百瀬。こんな隠師崩れと一緒にするな」

『話が進まぬであろうが。忍。駆け引きを覚えよ。世界がそなたの手の内にある訳ではないのじゃ。今のバイオレットに協力を乞いたくば、まずは三顧の礼を以て尽くすことじゃ』


 百瀬の窘める口調に、忌々しげに忍が舌打ちし、菫をその蒼い目で見据えた。


「神楽菫。頼む。私に力を貸してくれ」


 水色の頭が微かに前方に傾くのを、菫は唖然として見た。



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