腕の中
千代萌葱を望の首元に当てた真紗女と、鶴。そして菫たちの膠着状態は長く続くかに思われた。
しかし。
千代萌葱の刃先と望の僅かな隙間に、無理矢理挿入された手があった。刃で傷つくことも厭わず。その手はあっと言う間もなく、望の身体を抱き上げ、抱き締めた。
「お母さん!」
「望……っ」
雅代はそのまま真紗女から距離を取り、臨戦態勢を取った。
鶴がほっと息を吐く。反対に、憎々しげに真紗女が鶴や雅代を睨んだ。
「いつから潜り込んでいた。私の、結界に」
「菫はんをお連れして、道筋が出来た時に、雅代はんも送り込みました」
「とんだ伏兵ね」
「子を想う親心に勝るもんはありません」
形勢が逆転したと言うのに、真紗女には慌てた様子も焦りも見受けられない。
「千代萌葱。燦々叫喚」
極小の太陽が灼熱の熱波を放つ。その瞬間、菫たちは跡形もなく消し炭となっていてもおかしくはなかった。だが、その熱波を遮り、柔らかに押し戻すものがある。鶴の張った不可視の結界が作用しているのだ。望を抱いた雅代が、真紗女を睨みつけて複雑な手印を切る。真紗女を囲む四角い結界の檻が出現した。それは雅代の心情を表わすかのように、赤く冷たく透き通っている。真紗女が壁を叩いても、千代萌葱で斬りつけても、壁はびくともしない。彼女の顔色がようやく変わる。今この時、真紗女は虜囚となったのだ。
「貴方にはうちに来てもらいます。色々、訊きたいこともありますよって」
巫術士の長の顔で、鶴が厳粛に宣言する。
「それは困るな」
誰もが虚を突かれて、突然に現れた玲音を見た。玲音は平生の顔つきで居並ぶ面々を無視し、結界の檻に囚われた真紗女に声を掛ける。
「無茶は禁物と言った筈だよ、真紗女」
「貴方が来てくれると思ってたもの」
真紗女の顔は明らかな安堵に満ちていた。
玲音が鶴に向き直る。紳士的な笑顔を浮かべて。
「お初にお目に掛かる。巫術士の長・田沼鶴殿」
「玲音司祭とやらですか」
「はい。この度の当方の不始末、幾ら謝罪してもし切れない」
「人の子を誘拐して、その言葉一つでなしにするお積りですか」
「無理でしょうね」
あっさり、玲音は首を横に振る。鶴は厳然とした姿勢で彼に告げる。
「悪手を取らはりましたね。わたくしたち巫術士を、敵に回すとは」
「敵に回られますか」
「身から出た錆です」
「では貴方には死んでいただこう」
瞬息で、玲音が鶴に迫ったかと思うと、その胸に短剣を深々と刺し込んだ。
雅代の、望の悲鳴が上がる。有り得ないことだった。鶴は自身にも万全の結界を張っていた筈だ。巫術士の長の結界を易々と通り抜け、刃でその身を刺した。鴇色の道行に赤が滲む。
「銀月。銀連鎖」
菫の放った銀の鎖が玲音の短剣に絡まりつき、玲音の手が短剣から離れた。金の柄の短剣は、まだ鶴に刺さったままだ。今抜くと、血が溢れ出る。そう判断した菫が、短剣ではなく玲音の手を鶴から遠ざけたのだ。彼から得物を奪う意図もあった。華絵が霊弓雪羅を次々と射る。超人的な身のこなしで玲音はこれらを避けた。
「怖いな。さて、帰ろうか。真紗女」
「…………ええ、玲音」
とても怖いと思っているとは思えない口調で、そう評した玲音は真紗女を促した。応じた真紗女の声には悔しさが滲んでいる。玲音が真紗女を囲んだ結界に触れると、結界は霧消した。雅代が目を瞠る。彼女はそれまでの間に望を連れて鶴の元まで移動していた。玲音と真紗女の姿も消える。
「お鶴さんっ」
駆け寄った菫たちに、鶴は意外にも気丈な笑みを口の端に浮かべて見せた。だが顔面は蒼白で、刺さった短剣の根本から流れる血は止まらない。
「華絵さん、黍団子を」
「ええ」
黍団子を一切れ、千切り、鶴の口に含ませる。鶴はごふ、と咳をしたが、何とかこれを飲み下した。
「命に別状はあらしません。玲音の刃は、一寸の差で、わたくしの急所まで届きませんでした。今後、わたくしたちは貴方がたに与するでしょう。今はまず、元の場所にお帰りなさい」
鶴がすい、と袖を動かすと、菫と華絵、駿は神楽家のリビングに立っていた。
――――仏間では美津枝の亡骸が、清められ、死に装束を纏わせられていた。葬儀社の人間がてきぱきと立ち働いている。突然に現れた菫たちにも驚かないところを見ると、隠師の関係者だろう。
京史郎が彼らを監視するように立っている。戻った菫たちにも一瞥しただけで何も言わない。
華絵と駿が息を呑んでいることが解る。母が完全に逝ってしまった事実を、菫はまだ彼らに告げていなかった。緊急の事態が生じた為でもあり、それを口にするのが辛い為でもあった。
「父さん。……興吾は」
「部屋だろう」
菫は駿を見て、華絵を見た。どちらも気遣いと心配が顔に表れている。己の罪状を華絵たちに語る前に、興吾に会わなければと思った。今、興吾の胸の内を理解してやれるのは自分だけだ。
「華絵さん、村崎。詳細はまた追って話します。今日は帰っていただいても良いですか」
「解ったわ。……お葬式は明日?」
「はい、そうなるでしょう」
華絵たちを送り出したあと、菫は二階にある興吾の部屋に向かった。ドアをノックする。
「興吾。私だ。入って良いか」
返事はない。菫はドアノブを掴み、そっと開いた。
興吾は床に座り、窓の外をじっと眺めていた。彼の霊刀と同じ若草色の、カーテンが開かれた向こうには、隣家の屋根と空が見える。日は中天をとうに過ぎていた。昼食を摂っていないのだが、空腹は全く感じない。物を食べることを億劫と感じた。
「興吾」
「俺だけが守られてたんだな」
落ちた呟きは、自嘲の色合いを感じさせず、ただただ乾いていた。
「菫や、父さんが背負って。俺は一人、平穏な日常を送っていた。与えられるままに」
「私たちがそう望んだんだ。興吾には、何も知らすにいて欲しかった」
強い紫色の瞳が悲嘆に曇り、涙するところを見るのは、京史郎にも菫にも辛いことだった。ただただ真っ直ぐに、前を向いていて欲しかった。若干十歳やそこらで母を喪う痛みを、味わって欲しくなかった。
「ごめんな。菫」
「興吾」
「抱え込ませちまって、済まねえ」
「興吾。泣いて良いんだ。こんな時に、涙を我慢するな」
「莫迦。泣けるかよ。お前がずっと堪えてきたのに」
「私は姉だから」
「泣けるかよ……」
菫は興吾を抱き締めた。生きている、熱い生命の塊を。白髪を手で梳いて、震える肩を擦る。そうすることで、菫もまた、興吾の温もりに縋っていた。たった一人の血を分けた弟が、母を亡くす悲痛に耐えている。泣かない興吾を頑迷だとは菫は思わない。彼は母に贈る涙を全て、この先、生きる力に変えようとしているのだ。必死に戦っている。まだ子供として泣き喚くことが許される身でありながら、驚嘆すべき精神力だった。
「お前は強い男になるな」
「当たり前だ。ばーか」
憎まれ口さえ叩きながら、ほんの少しだけ語尾は震えて。菫はそれに気付かない振りをした。しばらくの間、二人は獣の子のように、寄り添い合って時を過ごした。
そのあとの日々は通夜や葬式、初七日と目まぐるしく過ぎて行った。表向き、現役を引退したことになっている京史郎だが、隠師として名高い彼の妻の死とあって、弔問客は予想外に多かった。菫はその対応などに追われ、悲しみを紛らわせた。御倉昌三、匡子、そして華絵も来た。華絵は菫を案じる思いが所作に溢れていて、何とはなしに美津枝を思い出し、菫は涙を懸命に堪えた。駿も作法に則った喪服を着て訪問し、丁重な悔やみの言葉を述べた。普段の浮ついた雰囲気など、微塵も感じさせない態度だった。弔問客は他にも、霊能特務課課長である百瀬、宮部長老、持永、そして鶴の代理として雅代などの錚々たる顔触れが集った。鶴のその後の経過は順調なようで、菫はその点においては安堵することが出来た。
黒いワンピースに、真珠のネックレスを着けた菫は、自分ではらしくないと思うその出で立ちに微苦笑する思いで、美津枝を見送る儀式を静かにこなしていった。