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君逝けば千々に凝る嘆き

挿絵(By みてみん)

 顔面蒼白になった菫を見兼ねて、華絵が声を掛ける。


「菫? どうしたの? 神楽さん何ですって?」

「すみません、華絵さん。村崎。私、家に帰らなくては」

「え?」

「母が、」


 それ以上は言えなかった。美津枝が、動かない。そう京史郎は告げた。恐れていた時が、ついに来てしまったのだ。駿は菫の一言で事情を察したらしい。


「こっちは俺と華絵さんに任せて、お前は実家に行けよ」

「うん。ありがとう」


 家までの距離がいつも以上に遠く感じられた。実際は、菫の住むアパートからも、大学からも、そう離れてはいないのに。水の中を走るように、手足が鈍重だと思った。やっと家に辿り着き、玄関の鍵と扉をもどかしく思いながら開ける。リビングに飛び込むと、もう何も映さない眼球を空気に晒した美津枝が、京史郎に半身を抱かれて倒れていた。


「父さん。補充は」


 息を切らしながら問い掛ける。答えはもう、解り切っているのに。


「追いつかない。霊力が砂場に水を遣るように、ただ吸われるだけだ。興吾を呼び戻しなさい」


 美津枝が死んだ。いや、正確に言えば彼女の寿命はとうの昔に尽きていた。まだ菫が高校生の頃。狭心症の発作を起こし、倒れた母を救急車で病院に移送したあと、傍についていた菫は、美津枝が息を引き取る瞬間を確かに目撃した。しかしそれは、当時の彼女には、到底、受け容れることの出来ない現実だった。菫は銀月を使い、美津枝に膨大な霊力を注ぎ込んだ。そうして、彼女を蘇生させた。図らずも菫は母親をゾンビや僵尸(きょうし)(妖怪化した、腐らない死体)と呼ばれる人外と同一の存在に貶めてしまったのだ。血筋の近さ、美津枝自身も霊力を少なからず保持していたことなど、諸条件が重なった末の奇跡だろう。懊悩する菫に京史郎はそう告げ、娘の行為を肯定した。共に十字架を背負ってくれた。

 菫は震える息を吸い込んで、興吾が通う小学校に電話を掛け、彼を呼び出してもらった。弟に何と告げれば良いのか悩む菫に代わり、京史郎がスマートフォンを引き受け、興吾に端的に帰宅するよう告げた。美津枝が死んだと、そう言って。

 それを聴いた興吾の衝撃を思い、菫は苦しみ、そして茫然とした。こんなにも唐突に、母を喪う日が来るとは思わなかった。美津枝を蘇生した時から、覚悟していた積りで、まだ覚悟出来ていなかったのだ。せめて兄の死の謎が解明されるまでは、などと、甘い目論見を抱いていた。


「……お母さん」


 呼び掛けても、答える声はもうない。

 京史郎が在宅の間に、屍と化したことがせめてもの救いであったか。悲しいことが次々と起こるな、と思いながら、菫は美津枝の目を閉じてやった。

 暁斎に裏切られ、殺されかけ、そして母を今度こそ永久に喪う。美津枝に聴いて欲しい話が山程あった。そう言えば美津枝と京史郎の馴れ初めもまだ話してもらっていない。人を恋うる心を、共に分かち合い、励まして欲しかった。自分が誰かと添い遂げるなら、その相手を紹介する席には、京史郎と美津枝の二人共が並び座っていると、信じて疑わなかった。平穏な日常の幕切れは呆気なく来ると知っていた筈なのに――――。


「自宅で死んだのであれば、警察が来るかもしれない。その場合は霊能特務課の関係者が来て、事は円滑に進むだろう」


 菫は京史郎の言葉を半ば夢見心地で聴きながら、美津枝の身体に寄り添った。美津枝の身体からはいつも彼女が使うシャンプーの良い香りがして、肌にはまだ温もりがある。溢れ、流れ落ちる涙はもうどうしようもなかった。

 やがて駆けつけた興吾は、倒れた母に寄り添う父と泣く姉を見て、茫然自失の状態だった。喘ぐように尋ねる。


「……心筋症か?」

「興吾。よく聴きなさい。美津枝は七年前、既に死んでいたのだ」

「意味解んねえ」

「菫が膨大な霊力を注ぎ込み、今まで辛うじて永らえていた」

「今までの母さんは何だったんだ」

「母さんは母さんだ。それ以外の何者でもない」


 強い紫の双眸が、今は力なく瞬き、膝の力が抜けたように興吾はその場にへたり込んだ。

 今だから理解出来る。

 うそなしのはなしの台詞。山童の言葉。

 それに過敏に反応した菫。駿もまた、勘付いていたのだろう。だが菫の為に口を噤んだ。


「……もう、動かないのか」

「そうだ。この先、葬式の手配などで忙しくなるだろう。お前も明日は学校を休みなさい」

「興吾、すまない」

「何で菫が謝るんだよ」

「すまない……」

「泣くなよ」


 そう言う興吾も、涙を堪えるようにぐっと奥歯を噛み締めていた。大人びていてもまだ小学五年生。母親の擁護と包容、愛情が必要な年頃だ。その年齢で母を喪う弟を、菫は心底哀れんだ。紫の瞳は潤んだように輝くが、落ちる雫は一滴もなかった。


「父さん……」

「何だ」


 こんな時だが、菫には京史郎に訊かなければならないことがあった。自分に喝を入れ、涙を拭う。


「玲音たちの拠点を知っていますか?」

「一度、千羽忍に導かれて辿り着いたことはある。だが二度は無理だろう」

「解りました。私は、大学に戻ります」

「その必要はあらしません」


 凛と響いた初老の女性の声に、菫たちが虚を突かれる。興吾は反射的に、美津枝を庇う体勢を取った。

 田沼鶴が、(とき)色の道行を着て立っていた。


「鍵が開いてましたよって、勝手に上がらしてもらいました。お取込み中のところ、すみません」

「構いません。さしずめ、菫の問いにも貴方が関わっているのだろう」

「ご推察、畏れ入ります。この度は孫が巫術で攫われまして。菫はんたちにご助力願うた次第です。そちらも」


 そう言って、鶴は美津枝の亡骸を一瞥する。


「緊急の事態やとお見受けしますが」

「はい。ですがもう、これは過ぎたこと。菫が貴方のお役に立つのなら、お連れください」

「ええんですか」

「どうぞ」


 恬淡とし過ぎた京史郎の言葉に、寧ろ鶴のほうが戸惑っていた。美津枝を見た鶴は、事のあらましを大方理解したようだった。それゆえ、傷心の菫を気遣ったのだ。


「お鶴さん。私でよろしければ」

「……おおきに。ほなら、望を攫った巫術の主の気配を、菫はんを介して追わせてもらいます。村崎はんたちとも、あちらで合流出来るよう計らいますよって」

「はい」


 はい、と答えた次の瞬間には、菫は草原に佇んでいた。隣には鶴が立ち、隙のない視線で左右を見渡している。草原には川が流れている。その川縁には幾つもの風車が立ち並び、風を受けて回っていた。水遊びをしている幼い姉妹らしき幼女たちが見える。二人共、赤い揃いの着物を着て。その片方は真紗女だった。もう片方は。


「望っ」


 鶴が悲鳴のような声を上げる。二人が気付き、望は長閑に鶴に手を振る。真紗女は薄い笑いを浮かべて、これ見よがしに望の肩に手を乗せていた。


「――――結界術。数珠繋ぎ」


 鶴が呪言を唱えると、菫たちからそう遠くないところに駿と華絵が現れた。二人共、菫たちと真紗女らを視認して、身構えている。真紗女の意図が、菫には掴めなかった。幾ら巫術に秀でるとは言え、彼女一人で、巫術士の長と菫たち隠師三名を相手に、何が出来ると思っているのだろう。他に助勢する味方がいればともかく、見る限りこの空間には玲音側の人間は真紗女以外見受けられない。


「お嬢さん。望を返しなさい」

「自分の立場、解ってる? 命令出来るのは私のほうよ」


 真紗女は勝気にそう告げると、望の首元にしなやかな手つきで千代萌葱を突きつけた。鶴が息を呑む。悲鳴をも呑んだ気配が、隣にいる菫にまで伝わった。


「巫術士の長。田沼鶴。玲音に忠誠を誓いなさい」

「わたくしに、貴方たちの陣営に属しろと?」

「お孫さんが可愛いでしょう?」


 上手い手だとは思えない。けれど原始的且つ効果的な手段ではあった。菫は真紗女に気付かれないよう、草原に生えていた溝蕎麦(みぞそば)の可憐な花を摘んだ。華絵は霊弓雪羅を持って来ている。もちろん真紗女は敵の面々をよく観察したあとで、菫たちを牽制するように、千代萌葱をこれ見よがしに望の咽喉にちらつかせる。鶴が諾と言わない限り、この膠着状態は続くのだろう。鶴の中では今、孫の命と一族の矜持、命運が激しくせめぎ合っているに違いない。風車が、鶴や菫たちを嘲笑うようにカラカラと回る。日は中天にあり、風はそよぐ程度に穏やかだ。この平穏な結界の中、幼い命の遣り取りが行われようとしている。実際のところ、菫の感情は飽和状態にあった。母を亡くした胸にはぽっかりと大きな穴が空いたようで、そこを極寒の冷風が吹き抜けて行く。精神力を奮い立たせて、やっとのことでこの場に立っているのが実情だった。


「玲音には人を実力で心酔させる器がないのか」


 駿の挑発に、真紗女が嗤う。


「玲音の素晴らしさを知る為の、一手段よ。こちら側に来れば、貴方だって歓迎してあげるわ。村崎駿」

「そりゃどうも」


 真紗女と望が密接し過ぎている。これでは折角の飛び道具である霊弓雪羅も使えない。華絵が弓弦を引き絞っていた姿勢から、腕を下ろした。望の顔は、恐怖で引きつっている。もがくにもがけず、暴れるに暴れられない。首に刃物を当てられていては。望がこの世で最も頼もしく感じている祖母が、凝固して動かない。


「嫌だあっ」


 望の悲鳴が響いた。


〝嫌だあっ〟


 それは、美津枝が死んだ時、菫が放った悲鳴と同じ言葉だった。


                     <第八章・完>



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