過去の手が掴む
ココアを飲む菫はどこか幼子のような風情があった。あどけなく無垢に見える。彼女の本質はこちらなのだろうと華絵は考える。身に備わった能力が余りに突出している為、闘いに身を投じているが、菫は花鳥風月に親しむほうが似合う。翔が死ぬまでの菫は、事実、そうだったのだ。隠師としての修業さえ父から施されていたものの、それは自分には不向きなことだと華絵に洩らしたこともある。翔が死んでから、菫は変わった。甘えを捨て、隠師としての修業、鍛錬に没頭した。華絵は翔の死を嘆きながら、そんな菫を心配しつつ遠くから見守っていたのだ。
「昌三おじ様は、やはりお強いのですね」
菫自身は真紗女の結界内にいて見ることが叶わなかったが、興吾から話を聴いた。槍は刀の三倍段と言う。昌三の藍獄碧華は単なる得物としても、刀剣を圧するのだ。
「そうね。お母様が恋に落ちたくらいだし」
「恋ですか」
黙り込んだ菫に、華絵は禁句を出してしまったと、己の迂闊さを悔やんだ。菫の想う相手である暁斎は彼女を殺そうとした。
(でも)
結界から救出したのも暁斎だと聴いた。この矛盾は何なのだろう。心胆の読めない男というのはこれだから厄介だ。同じ読めない男でも、駿のほうがまだましではないかと華絵は思ってしまう。暁斎は、難があり過ぎる。彼と刃を交えた菫の胸中は如何程のものだっただろう。窓の外の空。空に浮かぶ雲を見る。どこがどうとは言えないが、やはり夏ではなく秋の空と思わせるものがある。空気が澄んでいるからだろうか。それとも空を見る人の心が反映されているのだろうか。澄んだ空気。澄明たる心の持ち主。菫の心は秋の空に似ている。どこまでも高く澄んで突き抜けて、人に物悲しささえ感じさせる。今からでも遅くはない。暁斎が、こちらの陣営に戻ってきてくれれば。有り得ない可能性でも、華絵は夢想してしまう。宮部長老たちはともかく、百瀬はきっと許すだろう。長年、彼女の元で務めてきた部下なのだ。裏切られた怒りはあるだろうが、同時に惜しいと思う心もある筈なのだ。
「暁斎おじ様は、毒を加減してらしたように思います」
考えに耽る華絵に言うともなく、菫がマグカップに視線を落としてそう告げる。
「加減?」
「はい。銀滴主の雨霰・驟雨は即効性の毒。そして即毒明王はそれすら上回り、銀滴を介さずとも対する相手を包む空気を毒素に変える。そんな技だと感じました。おじ様が本気でそれを放っていれば、今頃、私の命はなかったでしょう」
菫の目がついと動き、華絵の視線と向き合う。冷静に落ち着いた菫の双眸に、華絵は息を呑む。決して庇護されるばかりに甘んじない彼女。繊細な心根と共に戦士たる気風を併せ持つ稀有の存在。その両極端の性質のバランスを、絶妙な按配で取っている。いっそどちらかに大きく傾けば、まだしも楽かもしれないものを。菫が単なる希望的観測で話しているのではないことは、華絵にも理解出来た。彼女の慧眼に誤りはないだろう。その冷静な判断が、華絵に物悲しさを感じさせもしたけれど。
「黍団子と興吾の霊力がなければ死んでたのは事実だぜ」
切り込むように、駿が会話に割って入る。極めて乾いた口調だった。彼は菫にとって痛い事実を容赦なく指摘した。
「私にもよく解らないが……。おじ様は事後のフォローまで計算に入れていたのではないかと思う」
「都合の良過ぎる解釈じゃないか?」
「或いはそうかもしれない。けれど本気になった暁斎おじ様相手に、半端な覚悟しかなかった私が生き延びられたことは単なる僥倖とは思えないんだ」
「ならどうして暁斎さんは裏切った」
信頼する同胞たち。菫。それら全てを捨ててまで、玲音の元に奔った理由とは。彼にそこまでして得るものがあるとは思えないのだ。寧ろ失うもののほうが大きい。けれど暁斎は確かに秤にかけた。損なうものと、得るものを。そして得るものが大きいと判断したからこそ、汚濁を生む側に回った。
「――――解らない」
「話にならねえな」
「ちょっと、駿。言葉が過ぎるわよ」
「菫」
「何だ」
「俺にしとけよ」
真剣な声に思わず菫が駿を見ると、彼と真っ向から視線が合った。たじろぐ程に強く、迷いのない眼差しが、今の菫には眩しかった。そして答えは解り切っていた。我ながら、呆れる程に。
「すまない。私は暁斎おじ様が好きだ」
「殺されそうになっても?」
「例え殺されても、死んでも尚、私は暁斎おじ様を恋うだろう」
なぜだか胸には激痛があった。駿の真っ直ぐで真摯な想いを退けるからか。叶わない恋にしがみつく自分に、自分自身が失望しているからか。それ以上、駿の目を直視することが辛くて、菫は視線を俯けた。白いマグカップに入っていたココアは飲み干され、焦げ茶色の液体の残滓が染み付いている。
「莫迦だな」
駿の声は、これ以上ない程、優しかった。菫を愚かだと思う。けれど嗤うことはない。恋とは人を愚かにするからだ。今の自分がそうであるように。座っていた椅子を斜めに傾けて、天井を見上げる。万一、暁斎が死ねば菫は泣くのだろう。その涙雨はきっと止むことを知らない。駿が暁斎を忌々しく思うのは、彼のそうした強味ゆえでもあった。敵なのに、全力を尽くすことが出来ない。全力を尽くさなければ、死ぬのはこちらだと言うのに。最善は、暁斎も自分たちも生き残ることだった。けれどそんな虫の良い話があるだろうか。そう感じながらも、駿は願わずにいられない。
(死ぬなよ、暁斎さん)
同じ男としての勘が働く。彼は何か、大きな目的の為に動いている。恐らくは自分たちの誰も思いも及ばないような目的の為に。
研究室に設置された電話が鳴った。思いや情の錯綜した空間の中、その音は酷く無粋に聴こえた。一番近くにいた駿が受話器を取る。
「はい、持永研究室――――」
『村崎はんですか』
「……田沼さん? 田沼鶴さんですか?」
駿の声に、菫と華絵が反応する。
『望が』
「えーと、お孫さん?」
『はい、望が、連れ去られました』
「―――――相手は」
『恐らくは、汚濁を生む側の。巫術を使う人や思います』
スピーカー機能にした電話から流れる鶴の声は、菫たちにも聴こえた。菫はすぐに思い当たる。真紗女とかいう、あの幼女だ。それにしても何て大胆な。巫術士の一族の長、その孫を攫うとは。
「敵の拠点を俺たちは知りません。鶴さんのほうで探ることは出来ないんですか?」
『望にやったら夢で繋がります。せやけど、あの子がどこにおるかまでは解らしません』
「あちら側から、何か要求は?」
『今のところ、ありません』
「解りました。俺たちも心当たりを探してみます」
『お願いします。――――お願いします。わたくしもすぐ、そちらに向かいます』
受話器を置いて振り返った駿の表情は険しかった。
「お鶴さんは静観すると言っていた。玲音司祭は自ら、巫術士を敵に回したことになる」
固い声音で菫が語る。
この暴挙に、解せないものを感じながら。余りに考えなしの行為だ。田沼鶴を正面から敵に回すなど、命知らずにも程がある。これは本当に玲音の本意なのだろうか。ひょっとしたら真紗女単独の犯行という線も考えられる。ともかく、彼女の居所を知ることが急務だ。
菫は京史郎のスマートフォンに電話した。彼ならば、玲音の居所を知っているかもしれない。藁にも縋る思いで、父の応答を待った。
『菫か』
「父さん。訊きたいことが――――」
『こちらから掛けようと思っていたところだ』
京史郎の声はいつになく平淡だった。まるで激情を意志の力で捻じ伏せているかのような。
「え?」
『すぐに戻ってきなさい。母さんが動かなくなった。もう、無理だ』