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先の未来の君を悼む

挿絵(By みてみん)



挿絵(By みてみん)



 暁斎に触れた。暁斎が自分の身体を抱き留めた。あの感触が忘れられない。菫はベッドの上で寝返りを打ちながら、今日起きた出来事を反芻していた。玲音の殺さない方針に従ったとは言え、暁斎はいつかの奈良での時のように、真紗女の結界に囚われた菫を助けてくれた。命が拾われた。そのことに、踊る心がある。尽きぬ思慕の念が、菫に歓喜を感じさせた。一方で、この程度で喜んでしまえる自分の弱さと浅はかさを嗤う。恋は人を愚かにすると思う。白銀色のカーテンに目を遣る。月光が淡く透けて室内まで射し込んでいる。菫の銀月に馴染み親しむ光。昼間にも目に見えない月があるように、銀月の月下銀光は日中でも使える技だ。そして人外にも業界でも彼女は呼ばれる。月光姫、と。菫自身にとっては重苦しく、仰々しいとしか思えない二つ名が、畏怖の念と共に囁かれている現状を、菫は苦い思いで受け留めていた。


(昌三おじ様はどうして来られたのだろう)


 やはり華絵が心配だったからだろうか。彼は妻子に対して非常に愛情深い男性だ。藍獄碧華を華絵たちの為に振るうのに、何の抵抗もないのだろう。敵陣の人間を斬るのにも。

 もしも彼が遙と対峙していたらと思うとぞっとする。想像出来るのは地に伏した遙の躯だ。昌三は敵と見なした相手に一切の手加減をしない。どうにかして遙をこちらに引き込むことは出来ないものか。そんなことを考えながら、菫はうとうとと眠りに就いた。


「ほい、菫」


 興吾がそう言って朝食後、菫に手渡したのは、どろりと濁った沼のような緑色の液体。今朝は興吾が朝食を作ってくれ、鮭の塩焼きとブロッコリーのマヨネーズ焼き、豆腐の味噌汁に舌鼓を打ったところでの急襲だった。興吾のスタミナスペシャルドリンクがここで登場するとは、菫の誤算だった。


「病み上がりにバトッて消耗してるだろ。飲め」

「いや、遠慮しておくよ……。身体は十分、快復したし」

「飲め」

「遠慮する」

「飲め」

「嫌だ!」


 ついに菫は悲鳴を上げた。逃げようとする彼女の腕を興吾が掴み、口元に無理矢理、硝子コップを持って行く。必死に顔を背ける菫。だがこのまま、弟の好意を無駄にするのも気が引ける。菫は思い切ってスタミナスペシャルドリンクを一気に飲み干した。何とも形容し難い、苦味、酸味、辛味等々が口中に押し寄せる。吐いては駄目だと思い、目に涙を滲ませながら飲み下す。そして、ばたりと倒れた。気を失ったのではない。精魂尽き果てたのだ。このドリンクはエネルギーチャージとは逆行する作用をもたらしてはいないか。しかし興吾はご満悦の表情だった。


「よしよし、良い子だ、菫」

「興吾……。それは弟の台詞じゃない。お前はいつからSに転向したんだ」

「気付くのおせーな。俺は元々、Sだぜ?」


 自身、Sである菫が弟の性質もまた同じであったことについてとやかく言える訳もなく、ドリンクの後味の残る口を開けたり閉めたりしながら、菫はがくりと項垂れた。



 研究室にいつもより遅めの時間に行くと、華絵も駿ももう来ていた。いつも通りだ。このいつも通りが、一歩間違えれば簡単に突き崩されることも、菫は知ってはいたけれど。


「おはよう、菫。何だか顔色悪いわよ?」

「昨日ので消耗したからか?」

「おはようございます。いえ、興吾のスタミナスペシャルドリンクが強烈で」


 そのドリンクの実情を知らない華絵と駿は、それでどうして顔色が悪くなるのかと不思議そうな顔をしている。知らないほうが良いこともこの世には多い。菫は一人、そっと嘆息した。ホワイトボードにはまだ昨日、華絵が書き込んだ勢力図がある。史学科の研究室に不似合いなそれらだが、持永が容認することは確かだろうと思えた。「汚濁」の欄に掛かれた中ヶ谷遙の名前を見る。暁斎の名前を見る。これらの名前が、汚濁の欄にあることが悲しい。


「菫、はい。ホットココア。マシュマロ入りよ」


 菫の憂い顔を見て取った華絵が、気を利かせてマグカップを差し出す。礼を言ってそれを受け取り、どこまでも甘い温もりに落ち着く。スタミナスペシャルドリンクの残滓が消えていくようでほっとする。興吾には悪いが、あのドリンクは今後も敬遠したい。マシュマロがじゅわりと溶けたココアは、濃くてほんの少しの苦味があった。




 膨大な情報量が、京史郎の内部に押し寄せていた。


 崇めよ。


 嫌だ。


 さよなら。


 行くな。


 奔流のようなそれらは、常人では御し切れず発狂していただろう。京史郎がそうならずに済んだのは、偏に彼の超人的な精神力の賜物だった。それでも彼の息は荒く、乱れていた。今日は仕事を休んで正解だったと考える。先触れのようなものを感じたから、予め手を打っておいたのだ。彼は書斎に一人籠り、これから起こる未来の出来事を視ていた。〝先を視る金〟とは実に本当のことであったのだ。王黄院の主である京史郎に、予知の力が目覚めたのはつい最近のことだった。当初は意味が解らず戸惑ったが、次第に能力の仕組みが見えて、突如、押し寄せる未来のヴィジョンにも、驚くことはなくなった。但し、気を確かに保つのは、彼と言えど至難の業だった。

 視た先の中で最も京史郎の胸を打ったのは、菫の涙だった。男親だからと言う訳でもないが、京史郎は菫に甘い。そして、菫を〝知る〟ゆえに怜悧ともなり得る。だが、いざ娘の涙を見ると、心揺らぐことは確かだった。京史郎が視たものは、絶対不可避の未来。変えようがないそれに、どう対処すれば良いのか。いや、変える余地は、或いは残されているのだろうか。

 暁斎に死んでくれと言った。その言葉に偽りはない。そして暁斎は京史郎の頼みを引き受けた。恐らくは他ならない菫の為に。


(殺そうとまでするとは、誤算だったが)


 京史郎はジェフレラの葉を眺める。緑に心憩わせる。銀滴の毒に菫が侵されたと聴いた時、京史郎は暁斎の本気を悟った。そこまでするのかと、京史郎でさえ震撼した。暁斎の本気の刃を、未だ心の定まらない菫が、受け切れる筈がない。王黄院でさえどこまで銀滴主と仕合えるか解らないのだ。そこまで考えて、京史郎はふと夢想する。

 翔がまだ生きていたなら。

 あの時、別荘に行かなければ。菫と翔を二人にしなければ。

 歴史に許されないifを、京史郎はそれでも考える。だからこその、暁斎なのだ。時を繰る銀なのだ。所詮、自分には先を視るしか出来ない。だが、銀は違う。玲音はそれを知って、暁斎を迎え入れた。互いに秘めた思惑があると承知した上で。暁斎の叛逆は、単純な軽挙ではない。京史郎はそれを知っている。

 コンコン、と控え目なノックの音がする。


「貴方、御倉の昌三さんがいらしてるわよ」


 京史郎は背後の窓硝子を見た。まだ日は高い。深緑のカーテンが今は開けられて、金のタッセルがついた帯で括られている。昌三の続けての訪問に、美津枝は戸惑っているだろう。


「お通ししてくれ」

「はい。お紅茶でも淹れましょうか?」

「―――ああ、頼む」


 御倉昌三はいつもながら、優雅な所作で入室した。緑の双眸はジェフレラの葉にも似ている。

 京史郎は手振りで彼に一人掛けソファーに座るよう促す。やがて美津枝が紅茶を運んでくる。アールグレイの香りが部屋に満ちる。繊細な花柄のティーカップにはクッキーが三枚、添えられていた。


「あちらと一戦、交えたようだな」

「耳が早いね」


 昌三が紅茶に口をつけ、上目使いに京史郎を見る。緑の目には何かを探ろうとする意志がある。


「隠師の動向は他の隠師に把握されやすい」

「そうだな。それが我々の業界の常識だ」


 ティーカップをソーサーに置き、昌三は京史郎を見据えた。逃すまいとする眼力に、京史郎も応じる。


「安野暁斎はなぜ裏切った?」

「なぜだろうな」

「京史郎君。君は何を知っている。――――何を隠している」

「先を視る金、時を繰る銀」

「……ああ、古来よりの言い伝えだな。それが?」

「私は先を視た」

「―――どんな」

「あらゆる未来を断片的に。そして知った」

「何をだ」

「安野暁斎は死ぬ。私が殺す」




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