刀持つ手の迷い人
赤い着物に萌葱色の兵庫帯を締めた幼女が、菫たちの前に姿を現す。不興げな顔つきを隠そうともせず、白けた目で暁斎を見ていた。
「ちょっとふざけただけよ。それに、即毒明王を使った貴方がそれを言うのは滑稽だわ、安野暁斎」
くるり、と彼女が身を一回転すると、赤い着物に可愛らしい小花や紙風船の柄が浮かんだ。
「せやから、その僕から菫はんを守るんが、君の役目やったんでしょう」
暁斎が菫の身を地に降ろしながら言う。その声音に棘を感じるのは、菫の気のせいか。言い終えた暁斎のすぐ真横、菫の鼻先を掠める近さで岩が突如として屹立した。
「知った風な口を利くな。二律背反の輩が」
「今では君の同胞ですえ」
「私はそうは思っていない」
「えらい悲しいことですなあ」
「思ってもいないことを。玲音は騙されているのだ」
「玲音司祭が、そんな生易しい御仁ですかいな」
「縛瞬の候。千代萌葱」
真紗女が手にした彼岸花が、短刀に変じる。刀身は春の芽吹くような萌葱色。とん、と身軽に地を蹴ったかと思うと、瞬時に暁斎に肉迫した。暁斎もまた、地に突き立てていた銀滴主を素早く抜き、これを防ぐ。単純に間合いの大きさで言えば暁斎が圧倒的に有利の筈だが、真紗女の身のこなしはまるで軽業師のようで、右に左に、上に下に身体を自在に操り、銀滴主の銀滴をも避けている。思わぬ仲間割れを目撃することとなった菫は、どちらに肩入れすることも出来ず、ただ成り行きを見守っていた。真紗女の巫術により創生されたこの空間内での戦いは、創生の主である真紗女に有利に働くのではないかと思える。暁斎がその程度のハンデで敗れるとも考えられないのだが。
「千代萌葱。燦々(さんさん)叫喚」
真紗女の呪言が、灼熱の太陽を呼ぶ。その苛烈な熱は瞬時に人体の水を干上がらせる程で、暁斎は結界を張り、菫は傘下対手を為すことでこれから逃れた。避けることしか許されない、致死の技である。じりじりと、太陽が寂寞とした風景を照らしつける。暁斎が結界を総身に纏ったまま、動く。
「銀滴主。雨霰。驟雨」
毒持つ銀滴が、刃の一振りで真紗女に襲いかかる。真紗女がこれをかわす為に大きく一歩後退し、その弾みで燦々叫喚の技は霧消した。致死性が高い技である為に、極めて高い集中力を必須とするのである。銀滴の毒に怯んだ真紗女の心の隙が、致死の技を無効とした。
「……つまらない。私、帰るわ」
「ほな、さいなら。足元にお気をつけて。人攫いに遭わへんように」
暁斎の皮肉に鼻白んだ顔を見せて、真紗女は踵を返した。
その瞬間、暁斎と菫は中州の混戦状態の真ん中に戻っていた。牛鬼は消えている。華絵が興吾の援護に回り、煉獄真紅を相手にしていた。昌三と虎鉄の戦いは、明らかに昌三が有利だと判る。駿の黒白と遙の二刀流は良い勝負を演じていた。菫は一瞥でそれらを見て取り、暁斎の出方を窺う。暁斎は今では銀滴主を振るうでもなく、ただ静かに立っている。仲間に加勢しようという気はないらしい。しかしその唇が、呪言を唱える。
「隠滅の嘆き。放たれよ、闇に涙の舞い落ちる」
胸の悪くなるような臭気と共に、汚濁が具現化する。数多のそれらは口々に不明瞭な雄叫びを発し、誰彼と構わず襲い掛かろうとする。戦いに集中する華絵たちに、その対応は適わない。菫が銀月を構える。
「銀月。月下銀光」
天から降る銀の串。ヘドロのような醜悪な汚濁たちを凛冽とした輝きで貫く。
「銀月。斬」
可視化した銀の巨大な刃がそこに留めを刺す。
暁斎は菫が銀月で汚濁を滅する間、攻撃を仕掛けようとはしなかった。観察するようにじっと動かずにいる。銀の気配があたりに満ちる。それは汚濁の悪臭を消し去り、清澄な風を呼んだ。
「ほな皆さん、帰りましょか」
暁斎の一言に、遙、虎鉄、樹利亜が目を向ける。暁斎の戦意が消失した以上、この場においてこれ以上の戦闘は遙たちに不利なだけだった。
「逃がすかよ」
樹利亜を追おうとした興吾の八百緑斬を、暁斎の銀滴主が受ける。軽々と。若草色の霊刀は決して非力ではない。だが刃の押し合いにおいて、銀滴主に明らかに圧倒されている。
「暁斎おじ……っ」
「強うならはりましたなあ、興吾はん。せやかて、まだまだです」
弾かれた八百緑斬の衝撃に、興吾が後ろに倒れる。菫が駆け寄って助け起こすと、もう、暁斎や遙たちの姿はなかった。すぐに現状を受け容れたのは、昌三だった。藍獄碧華を無に帰し、娘である華絵の無事を確認してから全員を見渡す。
「君たちだけではやや心許ない相手と思えてね。無粋ながら手出しさせてもらったよ」
「昌三おじ様……」
「菫君。良い戦い振りだった。銀月は美しいな」
昌三は見極める者の眼差しで、菫を見る。緑の目には娘に向けるような慈しみが微かに感じられた。
「お父様。ご助力に感謝します」
「何。造作ないことだ。しかしこれでまた、匡子がお前に隠師を止めろと言うのは目に見えているな。お前たちはこれから、どうするんだ?」
「大学の研究室に戻ります」
戻り、シャワーを浴びるなり食べ物を食べるなりして人心地つく必要がある。そして今後の方針を決める必要も。
「では大学まで送ろう」
「え、でも人数が」
「リムジンを待たせてある」
流石は御倉昌三、と駿は半ば呆れながら思った。黒塗りの大型高級車の中にはテレビやカクテルキャビネットが内装され、興吾は物珍しげに中を見渡し、華絵は既に一杯呑んでいた。昌三はそんな愛娘の様子を苦笑しつつ、温かな目で見守っていた。真紗女の結界の中で予想外に体力を消耗させられた菫は、完全にオーバーワーク状態であり、頭を華絵の肩にもたれかけて眠っていた。駿が華絵を羨ましそうな目で見るが、華絵は一向に気にしない顔で無視し、時折、菫の髪を梳いてやっていた。
大学に着くと、昌三はそのままリムジンに乗って帰宅した。起きた菫と華絵たちは文学部棟研究室まで戻り、菫はシャワーを浴びて着替えた。駿は近くのコンビニで酒と食糧を買い込んできて、華絵は早々にカップ酒を開け、興吾はお握りを平らげた。菫はレトルトのナポリタンを食べ、駿はおでんの卵、蒟蒻や牛筋などを食べていた。霊力の使役も体力同様にカロリーを消費する。夕食済みの彼らが食欲旺盛なのではなく、身体が欲するに従っているだけだった。
「村崎。遙君は無事か?」
「菫。それ、訊くとこ間違ってる」
気持ちは解るが、と思いつつ駿は突っ込む。
あの、儚く繊細な青年は、戦場にこれからも立ち続けるのだろうか? 揺れる心を持て余しながら。あれでは早晩、死んでしまうだろう。戦士としては十分な実力を持ちながら。
「ポエム野郎は、何だって戦ってるんだろうな。ありゃ戦闘には不向きだよ」
「私もそう思う。そもそも、彼が玲音たちに与している動機も、人への憐れみからだ。根が優しい人に、人を殺すことは酷以外のなにものでもない」
それでも彼が蒼穹天女を出す限り、火炎天女を出す限り、こちらとしても応じざるを得ない。情けを掛ければ死ぬのはこちらなのだ。
「そう言えば菫、暁斎さんと仕合った途中、消えなかった? 私も牛鬼のほうに回ってたからよく解らなかったけど、銀月の気配が消えた時間があったわ」
「玲音サイドの隠師の巫術結界に囚われてました。名前は真紗女。まだ幼い女の子です。……見掛けは」
「成る程ね。――――銀滴主の気配も消えたわ。暁斎さんも、そっちに行ったってこと?」
「はい。……助けられました」
微妙な沈黙が下りる。暁斎は、躊躇なく菫を殺そうとしていたのではなかったか。即毒明王を彼女に向けて発動させ、瀕死にまで追い込んだのは暁斎だ。
「バイオレットを殺すな。玲音はそう厳命しているらしいな。だからだろう」
缶ビールを呑みながら駿がドライな声音で断じる。彼は暁斎の行動を冷徹な思考で判断していた。同じ女に惚れる同士、嗅覚のようなものが働く。暁斎は心底から菫の死を望んではいない。悲惨な状態となった菫を見ても尚、駿の中でその確信は消えなかった。
「ちょっとまとめるわよ」
華絵が研究室のホワイトボードに「汚濁」と書いて名前を書き込んで行く。中ヶ谷遙、四王寺虎鉄、樹利亜、真紗女、暁斎、玲音。字は適当に当てる。これが目下のところ、敵陣営の内情だ。玲音以外の能力はあらかた明らかになっている。そして「要注意」の欄に千羽忍、と書き込む。京史郎と忍が一戦交えたことは、興吾から聴いていた。次に、「隠師」サイドとして自分たちの名前を書き込んで行く。京史郎や昌三の名も書き込まれる。
「小池静馬も要注意に入れとけ、華絵」
「小池静馬? 誰?」
「兄貴のダチだったらしい。俺と仕合った」
「聴いてないわよ」
「言ってないからな」
不満げな顔をしながら、華絵が「要注意」の欄に小池静馬と書き込む。そして「巫術士」の欄に田沼鶴。
「こんなとこかしらね。長老や特務課まで入れたらきりがないからこのへんで止めるわよ」
こうして書き出してみると確かに解りやすい。ただ、どの陣営が今のところ優勢なのかどうかまでは読めない。隠師が総勢で力を結集すれば、汚濁サイドのそれを凌ぐのは確かだろうが、そう簡単に事が運ばないのが現実だ。誰ともなく吐いた溜息の音が静かな研究室に響いた。正直、投げたくなってきている心情が、彼らには少なからずある。一体どうして、ここまで混迷した事態になってしまったのか。確かに言えるのは、どの陣営もが菫を欲していること。物事の渦中にいるのは菫であるらしいこと。それだけだ。そしてその理由までは解らない。月光姫であるからか。それだけではないだろう。全ての謎を解く鍵は、翔が死んだ日にある。誰も口に出さないが、そう考えていた。そして、「時を繰る銀」。この二つの要素が解明出来れば、菫さえ知らない真実が明らかになる。けれどそれは、菫にとって酷なことかもしれない。
ナポリタンのあと、ブルーベリーの果肉入りヨーグルトを食べる菫を、誰もがそこはかとなく眺めていた。その図はまるで、菫以外の皆が共犯者であるかのようだった。