箱入りの謎
「とーりゃんせー、とーりゃんせー、こーこはどーこの坂道じゃー」
高く澄んだ幼女の声が聴こえる。
菫が振り向くと、五、六歳と思しきおかっぱの幼女が赤く、丈の短い着物を着て、風車を手に立っていた。笑顔で菫を見ている。くりくりとした目は年相応の無邪気さを有し、尚且つ聡明そうだ。彼女は歌うのを止めて、くすくすと笑った。
「初めまして、バイオレット」
「……貴方は?」
「玲音の陣営の者よ。貴方が間違っても安野暁斎に殺されないよう、言いつかって来たの」
「隠師か」
「巫術を得意とする隠師よ」
「そうか。ここは巫術の結界の中か」
「そう。私は貴方を守ってあげてるの。どう? 嬉しい?」
残念ながら菫に喜びはない。自分が戦線を離れるということは、他の誰かが暁斎を相手にするということだ。そして暁斎と五角に戦い得る者は極めて限られる。少女は菫の顔つきから、自分の行為が歓迎されないことを察したらしい。
「嬉しくないのね」
「私を元の場所に戻してくれ」
「出来ない、と言ったら?」
菫の、銀月を持つ手が力む。幼女の目が、打って変わって冷やかになる。彼女の持つ風車は、いつの間にか彼岸花と化していた。その彼岸花を弄ぶ。
「私を斬る? バイオレット」
「斬りたくはない」
「まるで自分の優位性を信じているような台詞ね。ここは私の結界の中なのよ?」
「どんな場所でも、私は私の為すべきことを為すだけだ」
「そ。じゃあ、せいぜい頑張りなさい。ここから出られると良いわね?」
幼女の姿が掻き消える。
菫が消えたあと、暁斎はしばらく動かなかった。こんなことが以前にもあったと思う。田沼鶴に菫を連れ去られた時だ。今回もまた、巫術の施された気配がする。何の為にか。誰が動いたのか。暁斎の耳には四方八方から剣戟の音が聴こえてくる。乱戦状態なのだ。もし自分が誰かに肩入れしたら、今保たれている均衡は崩れる。暁斎は誰の戦いにも加わることなく、菫の行方を追うべく、神経を集中させた。
菫は一人残された闇の中、小さな祠に目を向ける。中には白い狐の像が二体、見える。赤い前掛けをしている。如何にも牧歌的な、そこらにありそうな祠だった。近所の信心深い老婆が毎日、水を汲んで運び、備えそうな。カラカラカラ、という音に、祠の屋根に回る風車に気付く。風車はどんどん、数を増していく。風もないのに、その羽は勢いよく回るのだ。カラカラカラカラと。その回転に惑乱され、いつしか菫は切り立った岩が密集したうすら寒い場所にいた。まるで賽の河原のようだ。小さく平たい石が何個も積まれている。一際高い岩の頂上を、目指さなければならないのだと菫はなぜか思い込んだ。銀月を岩に突き立てながら、懸命に登る。誰かに名前を呼ばれた気が何度もする。それは駿の声であったり、華絵の声であったり。時には暁斎と思われる声まであり、菫はうっかり手を滑らしそうになる。滑ったら、地面に転落して一巻の終わりだ。そういう仕組みなのだ、と菫は朧げに理解していた。息が苦しい。手が痺れる。脚が重い。それでも菫は、登り続けなければならない。それはまるで彼女の人生を投影しているかのようだった。
「赤秀峰。混沌烈火」
「藍獄碧華。風刺の覚え」
虎鉄の赤秀峰が生んだ紅蓮の炎を、昌三の藍獄碧華が幾重にも強固な壁となって防ぐ。その壁は天まで聳えると同時に、鋭利な突起を虎鉄のいる側に向けて生やし、防御と攻撃を兼ねていた。赤秀峰が、巧みにこれらの突起を切り崩す。幾つかの突起が虎鉄に軽い傷を負わせた。相手の間合いは槍どころではない。そう悟った虎鉄は、赤秀峰を構えた。
「赤秀峰。死屍僥倖」
巨大な杭が出現し、何層にも重なった壁を打ち破る。その杭は昌三にまで届いた。昌三がこれを藍獄碧華で防ぐ。
「ほう」
にこやかな笑みが、昌三の口元に浮かぶ。鮮やかな緑の目には愉悦。骨のある若者との仕合を、彼は喜ばしく思っていた。隙なく着こなしたスーツに、異国の血が混じる彼の風貌は、まるで俳優のように華やかだったが、目に宿るものは完全に戦士の闘志だった。
槍の間合いは当然ながら、刀より大きい。虎鉄は技にしても得物にしても、そして経験や実力にしても明確に格上と解る相手を敵に戦わなければならなかった。
父の戦い振りを見る余裕はなかったが、華絵は優勢を保ち、牛鬼を追い詰めていた。もう、息絶える寸前の牛鬼を見る華絵の目には哀れみがあった。剛毛の生えた脚のほとんどはもうそこここに散らばって落ち、あとは胴体と頭部を残すのみである。それでもまだ赤い目は狂気じみて、華絵を睨んでいた。憎悪と憐憫の眼差しが交錯する。華絵は乱朱を振り上げ、下ろした。牛鬼の首がごとり、と音を立てて落ちる。それが最期だった。牛鬼の躯は塵と化し、さらさらと風に流れる。
遙の蒼穹天女には切れがなかった。明らかに、戦闘に集中出来ていない。駿が舌打ちする。
「おい、お前、死ぬぞ」
これは殺し合いなのだ。迷いがあるほうが弱く、それは死に直結する。遙は唇を強く噛んだ。中性的な風貌が、痛ましく悩みに憂いている。
「赤き唇褪せぬ間に。火炎天女」
それで良い、と駿は思う。思ってから、自分の思考に苦笑する。敵を敵と見なし得ない遙を、これではとやかく言えない。
二刀流で本領発揮する遙は、好敵手と言えた。黒白が蒼穹天女を弾くとすぐに火炎天女がその脇を攻め、黒白でこれを摺り流す。黒白が嬉々として遙の霊刀を喰らおうとする。遙は敏感にその気配を察知して、横っ飛びに間を開ける。くるり、と回転して、背後から駿に斬りつける。黒白がこれを受ける。喰われる前に、退く。
八百緑斬と煉獄真紅の戦いも白熱していた。共に身軽が身上の興吾と樹利亜だ。得物の質は異なるとは言え、戦法には通じるものがあった。舞うように跳躍し、相手の隙を突く。興吾が跳べば樹利亜がそれを迎え撃ち、樹利亜が突けば興吾がこれを弾いた。鋭い煉獄真紅の一撃は、心臓を、また、身体の中心線を正確に狙ってきており、興吾は何度かひやりとした。人の急所は身体の中心線上に集中している。樹利亜は闇雲に煉獄真紅を振り回しているのではない。計算し尽くした上で、精妙な攻撃を興吾に仕掛けてきているのだ。また、そのことは、当初は子供と侮っていた興吾を、歴とした敵として見なしたことを意味していた。
その場にいる誰もが自身の戦いに集中していて、暁斎の姿がいつの間にか消えていることには誰も気付かなかった。
急峻な岩を、菫は登り続けていた。病み上がりの身体である。体力はすぐに底をついた。今、菫を突き動かしているのは、とにかくこの岩を登らなければならないという、強迫観念にも似た思いだった。銀月の光だけが、孤独な彼女に寄り添っていた。菫はそれでも寂しいと感じた。誰かいないかとあたりを見回す余裕もない中、それでも人の気配を、温もりを欲した。
(皆はどうしているだろう)
易々と敗れる面々ではないが、暁斎の相手が務まる人間はそうそういない。自分がこの結界に囚われたことで、人数的にも劣っている筈だ。華絵の父・昌三が現れたことには驚いたが、彼が暁斎の相手をしてはくれまいかと願ったりもした。しかし昌三は虎鉄を相手取っていた。幾ら昌三でも、虎鉄と暁斎、二人の相手は難しいだろう。駿もまた、遙と闘っていた。暁斎の相手は出来ない。
(遙君)
あの、心優しい幼馴染が、揺れ、惑う心で黒白と斬り結んでいると思うと、菫は遣る瀬無くなる。なぜ、闘いに不向きな気質の彼が、容赦ない過酷な戦場に身を置くことを選んだのか。突き詰めて考えればそれは彼に隠師としての能力が備わっているからだが、汚濁を生む側に就く必要もなかった筈だ。進んで戦場に身を投じる筈は。
そう考えながらも菫は、彼に自分を重ねていることに気付いていた。揺れ、惑っているのは遙だけではない。暁斎と仕合ながら、自分もまた、迷いを捨て切れないでいた。そんな甘い心情で、立ち向かうことの出来る相手ではないと知りながら。月下銀光は本来であれば不可避の技。それがかわされたということは、菫に躊躇があったからに他ならない。
小石が落ちる音がして、はっ、と岩を掴み直す。思考に耽れば身が危うくなる。菫はもう汗だくだった。寝込んでいた間、落ちた筋力の大きさを思い知らされる。どこからか、先程の少女の歌が聴こえる。
てんじんーさまのさかみちじゃー
ちょーっととおしてくだしゃんせー
童歌が、殺伐とした風景の中、場違いに愛らしい声で響き渡る。愛らしく、どこか哀愁をも誘う歌。
菫は岩の頂上近くに来ていた。あともう少しで、到達する。
ごようのないものとおしゃせぬー
菫の手が汗で滑り、岩を掴み損ねた。あっと思う間もなく、宙に身体が投げ出される。銀月だけは手放さず、菫はやがて身を打つであろう打撃と衝撃に備えた。
菫の身体は、意に反して柔らかな何かに受け留められた。顔を上げれば暁斎の薄紫の瞳があった。暁斎は、確固とした手応えで、菫を抱き留めていた。相当な重力が加わった筈だが、彼は涼しい顔をしている。
「真紗女はん。菫はんは殺さへんやったんと違いますか?」
童歌がピタリと止んだ。