銀色涙は静かに流す
菫が通常の状態に快復するまで、それから凡そ三日を要した。銀滴主の毒を受けて尚、その日数で快癒出来たのは、黍団子を一日一個、食べた効能が大きかったようだ。自分の為にこの貴重な食物を減らすことに菫は抵抗を感じたが、興吾が無理矢理に勧めた。こんな時こその黍団子だろう、と。本当は通常の状態に戻ることが怖い思いも菫にはあった。平生に戻れば、即ちそれは戦線復帰を意味し、暁斎と刃を交える可能性を示唆するからである。しかし、興吾たちに心配を掛け続けることもまた、抵抗があった。
久し振りに吸った外の空気は涼しく澄んでいて田んぼの稲穂も黄金で、もう季節は秋に移ろっているのだと実感する。空の高いところで鳶が旋回していた。あのように自由にあれたら、と僅かな羨望を感じ、菫は大学の研究室に向かった。
「花二輪が揃ったのう」
にこにこと、好々爺の顔で持永が迎えてくれた。研究室に常にいる立場ではないだろうに、菫の復帰に合わせて都合をつけてくれたのか。ほい、と既に淹れてあったコーヒーが入った、アラビアのカップを手渡してくれる。
「菫。もう良いの?」
「無理はすんなよ」
華絵と駿も歓待の表情で、しかし思い遣りも見せながら菫に接する。菫の受けた痛手が、身体のみに留まるものではないと知るからだ。
「はい。心配お掛けしました。村崎も、ありがとう」
二人の手にもアラビアのカップがある。どうやら一服しながら菫を待っていたらしい。菫が今日、研究室に来ることは、昨日の内に知らせておいた。有名店のドーナツ入りの箱が開いている。しかも二箱。菫の好きな生クリーム入りのドーナツが残っているのを見て、菫は顔を綻ばせた。駿の気遣いだろう。霊能特務課から十分な俸給を得ていながらそれを専ら貯金に回し、甘んじて吹き荒れ荘に住む駿は、服装以外での無駄な出費を嫌う。その彼が、菫の快癒祝いの為にドーナツを大盤振る舞いしてくれたのだ。戻ってきたな、という思いと、戻ってきてしまったなという思いが菫の中で混在し、こくのあるコーヒーを飲み下した。ここが自分の居場所だと、頭で認識する前に皮膚が、四肢が、喜んでいるのが解る。ドーナツに入った生クリームは、菫を甘やかすように蕩けた。持永は菫の顔を見ると、そのまま、講義に向かった。
駿が自分の机に座り、珍しくパソコンに何やら打ち込んでいる。
彼の修士論文のテーマは確か織田信長が京都で行った馬揃え(大規模な観兵式・軍事パレード)だった。常日頃さぼっているように見えて、ちゃっかりと進行させているのだろうと菫や華絵は思っていた。応接セットのソファーに座っていた菫の隣に華絵が座る。じっと間近で緑がかった瞳に見つめられ、多少、たじろぐ。思いの全てを見透かされそうで怖い。
「バッドニュースよ。牛鬼がまだ、人に被害を与えているわ」
「え……」
喰らいたくない、傷つけたくないと言っていた、牛鬼の悲愴な声が蘇る。汚濁を生む彼らの圧力に抗し切れずにいるのか。
「場所は」
「中州」
中州は風俗店も多い歓楽街である。夜でも人通りは多く、殺傷しようと思えば相手は容易く見つけることが出来る。加えて、汚濁も出やすい場所と言えるだろう。上川端商店街まで行くと昔の良き風情を残し、櫛田神社にも通じる観光スポットであるが。
「中州って俺、声掛けられたことあるな」
駿がパソコンのキーボードを打つ手を止め、会話に加わる。
「キャッチ?」
「じゃなくて、ホストクラブの。働かないかって」
「ああ……」
菫も華絵も深く頷き合う。駿の女好きのする容姿は、確かにホストになれば相当、稼げるだろうと思わせるものがある。
「話に乗らなかったんだな」
「だって俺、隠師だしい」
「兼業って手もあるじゃない」
「興味ない。ホストって、女泣かせんじゃん。俺、そういうのは嫌なの」
駿にしてはまっとうな答えに、菫は感心した。加えて、その台詞には暁斎への非難も織り込まれているような気がして、少しばかり胸が痛んだ。
「今晩、行きましょう」
「やっぱり菫も行くのね」
「当然です」
華絵たちを危険に晒し、自分だけ安閑と後方待機している積りはない。暁斎と仕合うことになっても、菫は仲間を守りたかった。暁斎は鏡だ。彼が傷つけば菫も傷つく。そうであっても、譲れない一線はあるのだ。
黍団子と霊弓雪羅は最早、戦場に赴くにおいて欠かすべからざる携帯品となった。黍団子を興吾が持ち、霊弓雪羅を華絵が持つ。黍団子はともかく、霊弓雪羅は地下鉄の中などでもだいぶ、目立ったが、華絵は素知らぬ顔を通した。そもそもが日頃から注目されることの多い美女である。人目に晒されることには免疫があるのだ。地下鉄の中洲川端駅で降り、地上に出て牛鬼の目撃情報が多い中州の繁華街に踏み込む。黒服の男性らが店の前に立ち、客引きをしている。菫は結界を張った。濁りと淀み、そして妖気を感じる。汚濁も牛鬼も時を経ずして現れるだろう。空を見ても星が見えない。曇っているからではなく、空気の透明度の違いのせいだ。その代わり、不夜城と化した風俗店の密集地帯の電飾が、地上に煌々と光を放っている。
藤袴を手にした一行は、敵の出現を待った。やがてぞろめく足を動かしながら、牛鬼が現れた。黒白によって喰われた筈の脚が生え揃っている。回復力が強いのだ。以前は金色だった目が今は赤く淀んでいる。剛毛の生えた脚で、牛鬼は菫たちに急接近した。華絵の乱朱がこれを防ぐ。肉塊が飛び、華絵の美貌にも血が飛んだ。華絵は顔色一つ変えない。
「操られているのかしらね。可哀そうに。今、楽にしてあげるわ」
「そうそう、楽にしてもらっちゃ困るのよ」
牛鬼の背後から抜け出た樹利亜が、煉獄真紅を構える。虎鉄、遙、そして暁斎がその場に出揃った。暁斎の姿を見た菫の胸に痛みが走る。無理矢理、これを宥めて、菫も銀月の柄を握る手に力を籠めた。遙の目には憂いがあった。止むを得ない。彼はそういう性分なのだ。しかしそれでは戦場で生き抜いて行けない。菫は他人事ながらに彼を案じた。
「あんたの相手は俺がしてやる」
若草色の八百緑斬を上段に構えて樹利亜を見据える。
「子供の相手は気が進まないんだけど」
「子供扱いしてたら死ぬぜ?」
樹利亜の目がきらりと光り、左手を高く掲げ、煉獄真紅を前方に突き出す。フェンシングの構えだ。
「乱朱。林立波状」
華絵が呪言を唱えると、赤い樹木がその場に何本も立ち現われ、次いで怒涛の勢いで牛鬼に倒れ込んだ。倒木は止むことを知らず、出現しては倒れる、を繰り返す。牛鬼が苦痛に雄叫びを上げる。その間にも興吾は樹利亜と対峙していた。点と線の戦いは噛み合うことなく、不協和音のように繰り広げられる。樹利亜が突けば興吾がいなしてその間に出来た隙を逆に興吾が突いて薙ぐ。樹利亜が飛びずさってこれを避け、更にすかさず突きを繰り出す。興吾の視線を惑わすように、煉獄真紅の切っ先をゆらゆらと揺らす。駿も菫もただこれらを傍観している訳ではなかった。駿は虎鉄の赤秀峰と、菫は暁斎の銀滴主と、それぞれ斬り結んでいた。遙は蒼穹天女を手にしたまま、佇んでいる。
「おい、遙っ」
業を煮やした虎鉄の叫びを受け、ようやく動く。虎鉄の補助に回り、駿を相手取る。駿の黒白が異例の霊刀とは言え、二人相手は流石に荷が重い。主の心を知らず黒白だけが、もっと喰わせろとばかりに漆黒に煌めき、赤秀峰、蒼穹天女を前に涎を垂らさんばかりであった。
「蒼海に君臨せよ。悲嘆悲愴の声を汲め。藍獄碧華」
結界にいつの間にか侵入していた華絵の父・御倉昌三の霊刀は、黒い柄の素槍だった。刃の部分が眩しい程の藍色だ。藍にも、氷海の青にも似ている。その切っ先は遙に向けられた。
「私が君の相手をしよう。それとも二人で来るかね?」
問い掛けは、虎鉄と遙への挑発だった。駿は突然現れた昌三に、どう対するべきか迷っていた。華絵は牛鬼の相手をしつつ、こちらを見る。
「駿、お父様よ」
その言葉に一応の納得を示し、駿は改めて虎鉄と向き合った。暁斎と菫の仕合の行方が気になるが、気を散らして勝たせてくれる程、易しい相手ではない。
菫は銀月で銀滴主と数度、打ち合っていた。銀滴を盛られないよう、避け、或いは傘下対手を使いながらこれを防いでいた。近くに感じる暁斎の息遣いに、胸が苦しくなる。どうして自分はこの人と闘っているのだろうと、そんな疑問が頭を占める。それは菫の隙となり、銀滴主を誘った。
「何で月下銀光を使いませんのや。菫はん」
「…………」
「甘いなあ。今度こそ、死にますえ?」
「銀月。月下銀光」
暁斎の言葉に乗る形となったが、菫は呪言を唱える。空から降る銀の串が、暁斎を目掛けて突き進む。暁斎と言えど、それら全てを防ぎ切れはしない。銀の串が彼の動きを妨げる。
「銀滴主。即毒明王」
「銀月。斬」
互いに切り札とも言える技を放つ。菫は素早く傘下対手で銀滴の毒を防ぎ、暁斎は動きを封じる銀の串を全て撫で斬りにすることで、銀光の断罪から辛くも逃れた。菫が次の一撃を繰り出そうとした時、急に空間が暗くなった。
暁斎も、他の人間も誰もいない。闇の中、小さな祠がぼう、と光った。