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燈籠土産

挿絵(By みてみん)

 暁斎の薄紫の目は空の青も雲の白も映さない。人の顔も判別出来ない。幼い頃に病気で失明した彼には、世界の構築を肌触りや匂いで知るより他に術がない。術はないが、彼には言わば心眼とでも言うべきものが備わっており、視力を補ってそれは正しく、彼に世界を伝えていた。対人においても、脈拍、発汗等の諸要素から、暁斎は相手の心理状態、健康状態を推し量ることが出来た。花の色は見えずとも、霊刀の発するオーラや燐光は心に反映される。さくり、と下草を踏んで、暁斎は花壇の手入れをしている玲音に声を掛けた。玲音が今現在、静穏な心持ちのもと、何か作業をしているらしいとのみ把握して。


「何をしてはるんですか」


 いつもの司祭服ではなく、ガーデニング用の作業着に着替えている玲音が暁斎を振り向く。水色の瞳は穏やかで驚いた様子もなく、暁斎が歩み寄っていたことを知覚していたことが察せられる。


「やあ。花壇のね、手入れをしているんだよ」

「貴方自らですか」

「おかしいかな? ここに植えているのはコキアと言ってね。もうすぐ真っ赤に紅葉する。君には見えないだろうが卵形をした可愛い植物で、花は食用にもされてとんぶりと呼ばれるんだ」

「とんぶり。聴いたことがあります」

「うん。プチプチした食感が美味しいそうだ」

「長閑ですね」


 とても汚濁を生む集団の元締めとも思えない声音と態度を、暁斎は揶揄した。


「どんな時でも、平時の心持ちを保つことは大切だ。誰が死に、誰が生きても。世界とはそのようにして運営されている」


 暁斎自身、異論のない玲音の返答に、軽く顎を引く。銀色の彼を求めた玲音に、暁斎もまた求め、望むことがある。例え離反を非難されようと、何ら痛痒を感じない。常に平時の心持ちを保つことは、暁斎にとっても欠かすべからざる姿勢だった。ただ、時々、菫が泣いている気がして。その涙の雫が暁斎の心の水面に波紋を生む。そんな錯覚に囚われた。




 暁斎は戻らない。

 菫にもその事実は解っていた。ただ、遙の姿を認めた途端、暁斎が戻ったのではないかという一縷の望みが湧き、気付けば彼に問い掛けていた。


「暁斎おじ様は?」


 皮膚の柔らかいところを針で突かれたような顔を、その場にいる誰もがした。菫の澄み切った瞳の直撃を受けた遙は尚のこと、繊細な神経も伴い、菫の問い掛けは堪えるものがあった。


「……安野暁斎はここにはいない」

「じゃあ、どこにいるの」

「……菫ちゃん」

「返して」

「菫ちゃん」

「暁斎おじ様を返して?」


 叶わぬ望みを口にする菫に、遙はこれ以上答えようがなく、視線を下に落とした。フローリングの床は適度にワックスの艶が光っていて、木調が大きく見えた。菫の白い手が伸びる。暁斎を求めるように、ほっそりした骨格の、腕が布団から宙に向かう。その手を引き取ったのは華絵だった。霊刀を振るい慣れた掌の皮は、互いに厚い。白くても華奢でも、闘う者の手だと知らしめる。


「菫。暁斎さんは戻れないわ。……戻らないわ」

「どうして?」

「私にも解らない。男は黙って去る時がある。女が泣いても。暁斎さんはきっと、何かの思惑があって彼なりに最善と思う行動を取っている。私はそう思う」


 その言葉は突き放すように冷静な正論で、しかし誠実で菫への思い遣りに満ちた返答だった。握った菫の手を布団の中に戻し、額に手を置く。華絵の柳眉が微かにしかめられる。銀滴主のもたらした毒による熱は続いている。この状況下で、菫に甘い言葉だけを掛けようとはしない華絵は、ある意味肝が据わっていた。男気があると言っても良い。彼女の菫に寄せる親愛の情の深さが、見て取れる。男たち三人は些か所在無げに、彼女らの様子を見守っていた。遙は項垂れ、目線だけを菫に向けて。実際のところ、遙のこの場における立場は微妙だった。菫の幼馴染で、彼女が気掛かりだったとは言え、敵陣に単身、乗り込むような真似は短慮と言える。なぜか曖昧に受け容れられていることが、彼の立場をますます浮いたものにしていた。自分がここにいる意味が掴めず、自分が玲音たちと共にいる意味さえ掴めず、途方に暮れた迷子の気分だった。

 汚濁の誕生は嘆き苦しむ人々の解放。

 その筈なのに、揺れ始めている自分に気付く。それは危険な兆候だった。不安定な心境で戦場に立てば命が危うい。遙の気性からして、一度でも食卓を共に囲んだ人たちを、殺傷することが可能なのかどうか、甚だ怪しいところだった。これ以上の長居は無用。そう判断した遙は、立ち上がった。


「僕は帰るよ。ご馳走様」

「一人で帰れるか?」

「子供じゃあるまいし」


 駿の問いに笑う。けれど駿は再び尋ねた。


「〝独りで〟帰れるか?」


 駿は、遙の内にある揺れる心に気付いている。見抜く瞳で、彼は遙に問うたのだ。どちらの陣営とも就かない心で、孤独に戦い得るのかどうか。駿の目は興吾や華絵とは違い、ごく普通のありふれた黒だったが、眼力の強さは、色合いとは無関係だった。気遣われていることを察した遙が、唇に笑みを刷く。


「大丈夫だよ。ありがとう。……人はそもそも、皆、独りだ。君だってそうだろう?」


 遙もまた、霊刀をも喰らう駿の黒白を言い指して、その危険性を暗に匂わせた。黒白の特殊性は諸刃の刃。或いは味方を害することもないと、どうして言い切れるだろう。駿は暴食且つ悪食の黒白を、常に制御しなければならない。恐れと闘いながら、たった独りで。

 駿は微苦笑した。遙の意図を察したのだ。背負うものは互いに色々とある。それでも自分と彼は岸の両側に立ち、対峙するのだ。今この瞬間、遙を無傷で帰すことのほうが、敵に掛ける温情としては破格のことなのだ。静かに閉まるドアを、駿は見ていた。

 そんな駿を華絵と興吾も凝視していた。駿の対応如何によって、戦端がこの場で開かれたかもしれない可能性を、彼らとて考えない訳ではなかった。菫の身を一時、任せた恩義とそれはまた別問題だ。結果として遙を放免した駿の意志を、華絵も興吾も尊重した。



 遙がいた。

 心配そうに自分を見ていた。

 それでも暁斎がいないことに、深く落胆する自分がいた。微睡みの中で、菫は思い返していた。毒素と熱がまるで蛇のように菫の総身に絡みついている。微睡みは健やかでも爽やかでもなく、泥沼に似ていた。

 何て薄情なんだろう。

 何て薄情なんだろう。


(遙君じゃないと思った。この人じゃないと)


 どうしてだろう。唯一人しか求めないのに。

 強欲と非難されることもないだろうに。たった一人の人をくださいと、神様に逢えば願うのに。――――刃を向けられ、殺されかけた。薄紫の瞳が酷薄な冷たさで菫を敵と断じていた。華絵の言う、暁斎の理由とは何だろう。殺せなくなったと言った、その、同じ口で自分を殺す呪言を放った彼の。

 裏切られたことに対する憤りは不思議な程になかった。ただただ、胸が張り裂けんばかりの悲嘆があった。痛みがあった。痛覚に訴えるぐらい。


(……痛い)


 菫の視界は無明の闇ではなく、様々な濁りの色に満ちていた。汚濁に似ていると思う。こんなに苦しい思いをすれば、それは汚濁も生まれるだろう。そう、納得してしまう。それらを生み、人々を解放すると告げる玲音たちの行いは、全くの見当外れではないのだ。しかし解き放たれた汚濁は無関係の人間に害を及ぼしもする。つまりはそこを疎かに考えられないのが菫たちであり、些少の犠牲として切り捨てるのが、玲音たちだという違いなのだ。

 ふと、燈籠が見えた気がして、微睡む菫は夢の中で首を巡らす。

 その燈籠は温かで優しく、どこか懐かしささえ感じさせた。菫は美津枝を思い出した。哀れな母を。そして先程とは異なる痛みが胸に走る。

 花鳥柄の燈籠がゆらゆらと揺れて、次第に人の輪郭を成す。

 濁りを払う光伴い、現れたのは鮮やかな薄紅色の道行を着た鶴だった。温和に整った面差しは、別れた時と寸分違わない。


「……お鶴さん」

「こんにちは。菫はん」

「ここは結界ですか」

「はい。夢幻結界。菫はんの夢に渡らせてもらいました」

「どうして?」

「暁斎はんのことを伺いましたよって」


 鶴が優しげに、そしてどこか悲しそうに微笑した。全て承知していると言わんばかりに。恐らく、承知しているのだろう。巫術士の耳にも、安野暁斎叛逆の報は届いた筈だ。そして巫術士の長である鶴が動いた。


「そこは息苦しいんと違いますか。菫はん」

「…………」

「わたくしたちであれば貴方を匿って差し上げられます。悲しいことから、遠ざかって、穏やかな場所に」


 鶴の優しい声音は、抗い難い甘美な誘惑だった。鶴という人物の慕わしいところは、また、空恐ろしいところは、こんな言動にあると菫は思う。真に恐ろしい者は相手にそうと気付かせずに労わりと慈愛に満ちた姿形、声で、心弱った隙間にするりと入り込み、人に語り掛けるのだ。菫の手にはいつしか銀月が握られていた。足元には塵と化す前の汚濁の躯。死屍累々と。こんな状況では、鶴の燈籠こそが唯一の救いだと感じられてしまう。


「月光姫の名も、忘れたければ忘れはったらええんです。人は自分の生き方を選べます」


 銀月の輝きは清かに澄明として菫に何か物語るようで。これを捨てれば。月光姫でなくなれば、自分は駿たちを裏切ることになると菫は悟った。胸が悲しみに破れ壊れても。自分は銀月を手放さない。

 菫の顔を見て、鶴は彼女の決意を察したのだろう。細く嘆息した。


「茨の道を行きはりますか。よう、お聴きなさい、菫はん。暁斎はんは霊能特務課、長老たち、御師を敵に回さはりました。巫術士は目下、静観を決めてます」

「日和見を、ですか」

「何とでも。どの陣営にも属さへんのが巫術士の常であり矜持です。せやかて、局面次第では、戦線に立つこともある。暁斎はんが、わたくしたちの敵にならへん保証はありません」

「…………」


 菫は唇を噛み締める。覚悟していたことではあったが、暁斎の取った行動とは、そこまでの波紋を投げ掛けるものだったのだ。


「人の手は小さい。守れるもんはたかが知れてます。菫はん。よく、お選びなさい。もう迷いや甘えを許さへんところまで、状況は至ってます。わたくしの手を取らないなら取らないでええです。せやけど、守りたいもんの順番は、決めておきなさい。いざと言う時、泣かんで良いように。……菫はんはもう、ようけ泣かはりましたやろ」

「お鶴さん……」


 花鳥の柄の燈籠が遠ざかる。菫の手にある銀月が、光源として残された。菫の中で鶴の言葉がこだまする。極言すれば彼女は、必要なら暁斎をも斬るべしと菫に告げたのだ。月光姫と呼ばれる自分と暁斎が、本気で仕合ったら、どうなるのか菫自身にも解らない。ただ、菫の今の心では、暁斎を斬る覚悟はとても叶わず、想像して浮かび上がるのは転がる自分の亡骸だけだった。巫術士に庇護され、擁護されればどれ程安楽か、菫にも思い及ばせることは出来る。だが、鶴の手を取れば畢竟、駿たちへの裏切りとなる。心情以前の問題でも、彼らの内の誰かが傷つけば菫は苦しい。それであれば結論はたった一つだと、菫にももう解っていた。

 暁斎と斬り結ぶこと。

 ただ、とぼんやり菫は思う。そうして、例え暁斎に勝利したところで、彼を殺したところで、自分に残るものは一体何なのだろうと。誰より愛しい人を、手に掛けたあとに残るものとは。



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