忍ばずの水、戻らずの声
菫がどうしてるだと?
興吾は危うく、遙の胸倉を掴むところだった。菫に助けられた身でありながら、汚濁を生む陣営の男が、よくものこのこと姿を現せたものだ。だが、ふと思い出した映像が興吾の怒りの熱を冷ます。確か遙は、菫に銀滴主を振りかざした暁斎を止めていなかったか。直接、敵地と言えるこのアパートを訪れての菫の安否の確認は、彼が心底から菫を心配していることの証左ではないか? 少なくとも今、目の前にいる青年から、敵意や害意は感じられない。菫への思い遣りは単純な幼馴染への想いを越えている気がする。不味いと言いながら自分の作ったスタミナスペシャルドリンクを律儀に飲んでいた姿を思い浮かべる。
「無事なら良いんだ」
「おい、ちょっと待て。あんた」
「――――何」
「菫が好きなのか?」
遙の紅潮した頬を見て、興吾はその答えを知る。これまでの遙の、諸々の行動の所以も。
「俺が出る間、菫を頼めるか。男としての頼みだ」
「何があったんだ?」
「説明してる暇はねえ」
「――――解った。君の留守の間、菫ちゃんを守ると誓おう」
「頼んだぞ!」
叫びながら興吾はそのまま駆け出した。念の為、華絵たちにもメールを送りながら走る。途中で途切れた京史郎との会話。京史郎をして強者と判断せしめた相手が今、父と対峙している。来るなと言われて大人しく引き下がる興吾ではなかった。
広大な結界の中に京史郎はいた。美津枝に頼まれた買い物の帰り。密やかな殺気に、道端に生えていた蔓穂のピンクの花を手折った。相手を知った瞬間、興吾に警告を発して通話を切った。買い物袋は地に落ちている。水色の結界の地に。
天も地も水の色だった。目に映る建物、草木さえ。異常な結界だ。莫迦げていると評したくなる、膨大な霊力の為せる業だ。
「貴殿でも子息が可愛いか」
水色の髪、蒼い双眸の忍が、玉水宴を構え、唇をちろりと舐める。好餌と思われる敵と対面した時の、彼女の癖だった。
「無論」
「父が死ねば嘆くだろうな。玉水宴。風浪ぼかし」
「王黄院。宙と和せよ」
京史郎の首を絞めようと伸びた玉水宴を、双翼の形となった王黄院が防ぐ。瞬時に、二人は切り結ぶ。苛烈な剣戟の音が響く最中にも、忍は興じる姿勢を変えない。互いに離れ、間合いを取る。忍の牡丹の振袖が、鮮やかに翻る。
「王黄院。陽炎埋め」
王黄院の消えた刀身に、一瞬、忍は目を瞠ったが、すぐに京史郎の手元を見ることで次に刃が来る方向を察知し、これを避け、弾いた。だが攻撃までは仕掛けにくい。防戦一方となる。それでも忍は怯まなかった。
「この襲撃の、所以を訊こうか」
「貴殿に種明かしをされてはつまらないからな」
「それだけで?」
忍が嗤う。
「王黄院、手応えのある霊刀と仕合いたいと思うは戦う者の常だ」
「くだらぬ。王黄院。加力密葬」
ふ、と、電気が落ちたかのように水色の空間が無明の闇と化した。圧縮される空気。玉水宴の風浪ぼかしより尚確実に、相手の息の根を止める密閉空間の技。忍の水色の髪も、蒼い双眸も、牡丹柄の振袖も闇に塗り潰されて見えない。言霊を発しなければ霊刀は起動しない。それが基本だ。忍の気道は見えない力に圧迫され、気を飛ばす寸前だった。赤い鶴が煌々として輝き、闇を照らした。京史郎の姿が露わになる。一瞬の隙が、王黄院の効力を緩めた。
「玉水宴。三千囃子」
ぴーひゃらら、と鳴る笛の音。太鼓の音。賑々しい楽の音が、京史郎の聴覚を刺激し、それは痛覚にまで達した。赤い鶴が忍の伸べた白い手に留まる。
「百瀬を真似て、式神を戯れに作ってみたが。何が幸いするか解らないな」
楽の音が狂ったように鳴り響く。術者の忍が一人、平然としている。平然として、冷然とした蒼い双眸で苦痛に顔を歪める京史郎を眺める。玩具の転がりゆく様を、見物するように。
ぶんっ、と、王黄院の一撃が忍を襲ったのは計算外だった。三千囃子は聴く者の聴覚ばかりか五感全てに衝撃を与え、発狂する者も出る程の技だ。今の京史郎は目を閉じ、超人的な理性と自制心、感覚だけで王黄院を振るっている。
「――――とんだ化け物だな」
玉水宴で王黄院を受け、摺り流し、返す刃で斬りつける。闇の空間は水の色を取り戻している。忍が退き、天を祝福するかのように両手を広げた。刃の応酬の間においては、狂気の沙汰と言える姿勢だ。
「玉水宴。腐花瓔珞」
爛熟し、腐った花々、果実が水色の空から降ってくる。それを受け留めた地面は同じように腐り、爛れた。忍が子守唄を口ずさむ。それは鎮魂歌でもあった。京史郎はようやく戻ってきた五感で、花々と果実を避け、或いは斬り払った。これに触れれば腐り落ちる。そのことが言われずとも察せられた。忍は楽しげに歌っている。王黄院は彼女までは届かない。
「八百緑斬。払魔滅消」
新たに参入した若い声が、爛れ落ちる花と実とを消し去った。あとには柔らかな春風のような空気が満ちる。それは腐臭のしていた空間を清浄化した。
「興吾。来るなと言った筈だ」
「それより、これはどういうことだ。千羽忍」
「……興醒めだな。小童。父の矜持を傷つけるのが、貴殿の孝行か。履き違えるな」
「何と言われようと、親は親なんだよ。子供が子供であるようにな」
八百緑斬を構える興吾を、忍は蒼い目でしばらく睨んでいた。玉水宴を握る手の力はまだ緩んでいない。若草の風は一吹きしただけで、水色の結界はまだ保たれている。何事もなかったかのような、水面の静けさで。
「退けよ、千羽忍」
「……貴殿の名。何と申したかな」
「神楽興吾。俺はあんたを斬りたくない」
「ほう。大層な口を利くな。神楽興吾。まぐれとは言え、腐花瓔珞を退けた手腕は見事だった。それに免じてこの場は退散するとしよう。親子揃って、命拾いしたな」
水色の広大な空間が消えると同時に、牡丹の振袖姿も消えていた。路上に落ちていた買い物袋を興吾は拾い上げる。京史郎はもう、平生の顔を取り戻していた。
「父さん。千羽忍と闘ったのはどうしてだ」
「私が知る物事が、彼女の気に喰わなかったらしい。要は口封じだ」
「気に喰わない。それだけで?」
誰もが畏怖してその名を語る隠師である京史郎を相手に、派手な立ち回りを演じてみせたのか。命知らずも良いところだと思えないのは、目にした忍の実力ゆえである。京史郎が化け物なら、忍もまた化け物だ。その化け物に惚れた自分の立場は極めて微妙だ。父を襲撃さえしたのに。あの様子では彼女の刃は、敵味方の誰を向くか解らない。
京史郎と共に、ゆっくり実家へと歩き出しながら興吾は改めて尋ねる。
「父さんの知る物事って何だ。暁斎おじの離反と関係しているのなら、俺はどれだけ嘲られようと、それを訊き続ける」
「――――頑固な子だ。私に似たかな、美津枝に似たかな」
京史郎の目線が緩み、興吾を見る瞳に慈しみの色が宿る。その瞳に、微かな翳りがよぎったような気がして、興吾は少なからず怯んだ。美津枝という名前を発した時、その声は憂いと愛情を含んでいて。何か立ち入ってはいけないものを興吾に感じさせた。
「だが私はお前を甘やかす積りはない。さっきの一幕でも判った。お前はもう、一人前の男扱いすべきなのだろう。求める答えは自分で掴み取れ。鍵は与えた。あとはお前次第だ。……お前が答えに辿り着かないことを願う」
「なぜ。菫は泣いたのに」
「娘の涙は痛いな…………」
寂しげに微笑して、京史郎はそれ以上を語らなかった。興吾は問い詰めることが出来ず、実家には入らず、門の前で父と別れた。空を見上げると秋らしく澄んだ青で、どことなく忍の目の色をも連想させた。白い薄絹のような雲が棚引き、何かを燃やすような秋特有の匂いが、興吾に郷愁を感じさせた。思い出したように空腹を感じる。そう言えば菫には雑炊を食べさせたが、自分の昼食はまだだった。遙や、恐らく彼と合流しているであろう華絵、駿にも、帰ったら何かを食べさせてやらねばならない。
菫の惨状は知っている。知ってはいるが、いや、知っているだけに、興吾が遙に彼女を任せて出たことを、駿は心底面白くなく感じていた。華絵がそんな彼をしょうがないものを見る目で眺めている。緑茶を淹れ、遙と駿に出しながら、菫の容態を看る。芳しくないようだ。命を落としかけたのだ。一朝一夕で良くなるものではないと知りつつ、気が急いてしまうのは仕方ない。昼もとうに過ぎ、冷蔵庫にある食材で何か作ろうと考えていたら興吾が帰ってきた。
「お帰り。で、何があったの?」
「菫をポエマー野郎に投げて行く程だ。よっぽどのことだろうな」
華絵と駿が口々に興吾に声を掛ける。
「父さんと千羽忍が闘ってた。俺はそれを止めに行った」
「――――千羽忍? 彼女がどうして京史郎さんと闘うのよ」
興吾の濃い紫の双眼が、年齢に相応しからぬ叡智の光を湛え答える。
「父さんが真相を知ることを、彼女は危険視した。口封じだと、父さんは言っていた。暁斎おじが裏切った理由も何もかも、恐らく父さんは知ってるんだ」
「なら、なぜ語らない」
「甘えるなと」
「手厳しいな。言ってる場合じゃないって気もするが」
それまで黙っていた遙が口を開いた。
「やはり安野暁斎の変節には裏があるのか? 菫ちゃんを、手に掛けようとする程の何かが」
腕組みした駿が答える。
「俺には理解出来ねえけど腹減った」
「村崎、その台詞、台無しだぞ」
「戦が出来ねえんだよ!」
「煩えな。作るから待ってろ! 華絵、手伝え」
「はいはい」
その会話をきっかけに、暗に興吾に戦力外通告された駿と遙はリビングに行き、何とはなしに二人して菫の寝顔を眺め、興吾と華絵はキッチンに立ち、食材を吟味しながら何を作るかだの話し始めた。
出来上がったのはきし麺で、鶏肉と白葱、鰹節が湯気の中に納まっている。
「病人食風なのは何でだ、興吾」
「病人がいるからだよ」
「ちょっと、えーと、」
「遙。中ヶ谷遙」
「遙君、食事中にスマホは仕舞いなさい。お行儀悪いわよ」
「見逃してくれ。僕は今、黄昏のきし麺という詩を書いてるんだ」
「今は黄昏じゃねえぞ。ポエム野郎」
「心境の問題なんだよ、食いしん坊」
子供の喧嘩のようになっている。
華絵は呆れながらきし麺を啜り、彼らの声量が大きくなるようであれば止めようと思っていた。視線を感じ、菫を見ると、彼女が目を開けてこちらを見ていた。
「菫。起きたの。気分は?」
「華絵さん。……遙君」
「うん」
「遙君、」
「うん?」
「――――遙君がいるなら、暁斎おじ様もいるの?」
この問いに、誰もが言葉を失くす。
「暁斎おじ様が、帰ってきてくれた?」
「菫……」
大きく見開かれた綺麗な瞳だった。白目が潤み、淡く青味がかって、焦げ茶色の透明度が高い。
澄んだ瞳で、無垢な童女のように尋ねる菫に、真実を告げられる者はいない。
暁斎は戻らない。
もう住む世界を異にしたのだとは。