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花の心眠る

挿絵(By みてみん)

 持永が、研究室を見回して慨嘆した。


「何とまあ。我が研究室の花二輪と謳われた内の一輪の姿が、ここのところしばしば消えるのう」


 無論、彼は菫の不在の理由を知っている。暁斎が叛逆し、汚濁を生む側についたということも、長老直下の彼には既知の事実だ。教え子の身内の叛逆を、そしてそれが与える教え子への打撃、衝撃を、持永は憂慮していた。長老の中には、菫含め、神楽の家の者も暁斎と通じているのではないかなどと危惧の念を抱く者あり、それを杞憂として宥めるのに持永も骨を折った。

 華絵が持永に手を振る。


「教授。花一輪の淹れたコーヒー、飲みますか? インスタントの」

「神楽君がいないと君はそこまで儂を蔑ろにするのかね」

「冗談ですよ、豆から淹れます」

「あ~、菫さん、俺も」

「誰が菫さんよ」

「すいません、混じりました」

「愛の浅さが知れるわ」

「どっちへの?」

「花二輪、両方への」


 ぶつくさ言いながらも、華絵はコーヒーミルで豆を挽き始める。一命を取り留めたものの菫はまだ予断を許さない状態で、土曜日で学校が休みの興吾がつきっきりで看病している。恐るべきは銀滴主の毒である。

 薬缶の湯が沸騰し、華絵はそれを少し置いて冷まし、フィルターに入れたコーヒーの粉に注ぐ。父親が動いたらしい。それも、華絵の思惑を超えて。神楽家に牽制しに行ったとは、穏やかではない。匡子からの報せを受けた華絵は、昌三の行動を危ぶんだ。昌三は匡子と華絵に対し、非常に愛情深い夫であり父親だ。もし華絵が、そして万一匡子が、傷を負うような事態になれば彼が黙ってはいまい。その霊刀の刃が、菫に向く可能性とて皆無ではないことを、華絵は何より懸念していた。御倉家は名の知れた隠師の家柄だ。加えて有する財力、権力は霊能特務課にも長老たちにも一目置かれる。その御倉家当主の動きは、当然のことながら諸勢力より注視されている。昨日、昌三が神楽家を訪れたことも、耳聡い者には周知のところとなっているだろう。

アラビアのカップでコーヒーを飲む持永を華絵は観察する。彼は、暁斎の叛逆や昌三の動きをどう捉えているのだろう。持永の思考を探ることは即ち、長老らの思考を探ることであった。貰い物のアーモンドチョコを口に放りながら、華絵はコーヒーを飲む。黒い革張りのソファーの上で同じくチョコを食べながらコーヒーを飲んでいる駿も、華絵と似たようなことを考えているだろう。持永がコーヒーカップをソーサーに置く。小さな音が、やけに大きく室内に響いた。

 持永が視線を窓の外の銀杏に移す。色づいてきた銀杏の葉は、もうじき金色の鳥と化すだろう。まだ黄に染まり初めしその葉を、一枚一枚数えるように、ゆっくりと持永が言葉を紡ぐ。


「安野暁斎殿の思惑は知らねど、長老も霊能特務課も彼を反逆者・敵と見なした。致し方あるまい、彼の行動はそうとしか取り様がない。巫術士の一族は静観を決め込んでおる。御師の出方は定かではないが、暁斎殿に好意的ではあるまいよ。四面楚歌じゃな」


 白髭を撫でながら続ける。


「儂もまた、可愛い教え子を害されたゆえ、暁斎殿のことは許せぬ。度し難いと、思うておる。御倉昌三殿が危機感を持たれるのも、解らぬ話ではない。それでも、暁斎殿の行動に何がしか止むを得ぬ仕儀があったのではないかと、そう考えるのは、儂の希望的観測であろうかの。……年を経ると、何事も穏便に見たくなるものじゃ」


 暁斎に憤りながら、彼の思考を慮っている。

 持永の発言からそれを感じ取った華絵は、どこかほっとする思いだった。暁斎を全き敵と見なしたくないのは、研究室に集う顔触れの総意なのだ。駿の頬のあたりに窺える安堵に、華絵はそう思った。



 安野暁斎叛逆の報を、忍はさしたる衝撃も感慨もなく受けた。縁側に座すのがそろそろ寒くなってきた為、小池家の居間でせっせと鶴を折っている。赤、青、緑、紫、黒に白に金、銀。目に鮮やかな色彩が居間の畳に並んだ。嘉治たちには踏むなよと釘を刺してある。居間の座卓に置かず畳に置くのは、そのほうが絵になるからだ。特有の美意識が、時として忍に奇矯な言動を取らせる。銀色の鶴を折りながら呟く。


「銀滴主か」


 一度、手合せしたいと思っていた。これは僥倖というものだ。忍のこうした思考回路は余人には計り知れない。それゆえのはぐれ隠師であり、御師と手を組んでいる訳でもあった。菫が害されようが傷つこうが、彼女にはどうでも良い。要は玲音をおびき出す餌として、生きてさえいればそれで。いや、屍となればそれを引き摺ってでも役立ってもらう。物騒でやや人道を外れた考えだが、忍には暁斎が裏切った理由の見当が朧気ながらついていた。


「砂のこぼれ落ちるが如く古より曰はく。先を視る金、時を繰る銀、と」


 古い伝承は隠師、御師、そして人外をも含め未だに息衝いている。玲音の異能。時を繰る銀。焦点となるのは、玲音には銀が必要であったということ。極言すれば彼にとって最善なのは、菫を手中にすることであっただろう。銀が二人いるのであれば、玲音は迷わずバイオレットを採る。だが暁斎であっても、用は足りる。菫を崇める信念は揺るがぬものとして、使える暁斎を、玲音は諸手を挙げて歓迎した筈だ。暁斎の変節の理由は、まさしく時にある。忍はそう睨んでいた。


「禁忌に触れるか。安野暁斎」


 哀れと称するには余りに強過ぎる男に、忍が同情する余地はない。彼女は淡々と鶴を折り続けた。




 元々、華奢だった菫の身体が、さらに薄くなったと興吾は感じていた。尤も、菫は布団の中、横になっているので顔と、首の細さから推し量るしかないのだが。目が大きくなったと感じるのは、頬の肉が落ちたからだ。銀滴主の毒との戦いが、菫の体力を根こそぎ奪ってしまった。それでなくてもまだ、先だってひいた風邪の影響を脱し切れていないところだった。余剰な体力などある筈もなく、一気に溜め込んだ生命力を使い果たしている状態と見える。興吾に出来ることは、見守り、少しでも咽喉を通りやすい食事を作り、菫に栄養を摂取させることぐらいだった。それだけが、十分、菫の助けとなるのだと華絵たちに励まされても、己の非力を感じずにはいられない。ふと手が空くと、暁斎へのなぜだという疑問が頭を占める。大の大人の男。それも深謀遠慮を絵に描いたような暁斎の、思考はたかだか十年そこらしか生きていない興吾には思い及ばない。


挿絵(By みてみん)


(俺が大人だったら理解出来たのか)


 違う。なぜなら華絵も駿も、興吾と同じく困惑していた。生きた年数の問題ではなく、暁斎という男の視野の問題だ。彼の考えを知る人間がいるのであれば教えて欲しいと興吾は切に思った。


(――――父さんなら)


 京史郎であれば、何か解るのではないか。暁斎が離反した情報は、京史郎ももう掴んでいる筈だ。隠師として年数を経た父は、この事態をどう見るか。興吾はスマートフォンを取り出した。菫に障らないよう、キッチンに向かう。


『もしもし』

「父さん、興吾だけど」

『ああ。菫の容態はどうだ』

「……とりあえずは落ち着いてる。だいぶ、弱ってるけど」

『そうだろうな』

「暁斎おじの話は聴いたか」

『聴いた』


 ふ、と電話の向こうで、呼気のような京史郎の笑いが聴こえた。


『お前はまだ、彼をおじと呼ぶのだな』

「…………」

『戦う者であれば感傷は捨てろ。興吾、安野暁斎の謀叛、最早明らかだ。あらゆる者がこの事実を既に知っていよう。彼は強く、そして強者の常として敵もまた多かった。この報を喜ぶ者もいるだろう。――――我々には悲報に等しいがな』

「暁斎おじは、なぜ裏切った。菫をも手に掛けようとした」

『安穏と座して答えが降るのを待つか』


 ぐ、と興吾が息を詰める。京史郎の言葉は容赦なく、そして正しかった。


『先を視る金、時を繰る銀』

「……何だ、それ」

『鍵だ』

「意味解んねえ」

『――――興吾、こちらに来るな』


 不意に変調した京史郎の声に、興吾が戸惑う。


「は?」

『良いか。お前では手に負えない。切るぞ』


 そのまま、通話が途切れたスマートフォンを、興吾は握り締めた。京史郎の声は冷静な中にも切迫したものがあった。誰かと敵対しているのだ、今現在。来るなと言われたが、すぐにでも父のもとに駆けつけたい衝動が興吾を揺さぶる。リビングに戻り、菫を見る。病床の姉を置いては行けない。せめて華絵なりと来てくれたなら。チャイムが鳴った時、興吾は祈りが通じたかと勇んで玄関のドアを開けた。そこに立っていたのは華絵ではなかった。


「……こんにちは。菫ちゃんは、……どうしてる?」


 控え目に興吾を見つめながら、遙はそう尋ねた。





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