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罪作り

挿絵(By みてみん)

 暁斎の銀滴主は強く美しく、菫の憧れだった。その刃が自分に向けられる日が来るなどとは夢にも思わず。冷酷な態度、言葉。一切の情け容赦なく、菫に銀滴主を振るった。嘘だと思いたかった。何かの間違いで、自分は夢を見ているのだと。だがこの身を駆け巡る激しい苦痛が、菫に現実をまざまざと思い知らせる。即毒明王の毒は、黍団子を以てしてもその命を留めるのがせいぜいで、菫を苦痛から解放してはくれなかった。菫は駿の手で、ベッドに横たえられた。


「何とかならねえのか」


 興吾が焦りと苛立ちの混じった声を駿と華絵にぶつける。八つ当たりだと解っている。彼はまだ若い。華絵も駿もただ黙って興吾を見て、それから喘ぐ菫の顔を見た。


「霊力を分けるのが手っ取り早い対処法ではある」

「そんなこと出来るの?」

「俺がやる」


 駿の言葉に疑問を呈した華絵を置いて、興吾が断言した。遙に霊力を分け与えた菫の手法は、今でも憶えている。


「出来るのか? 未熟な奴がやれば却って命を損なうぞ」

「出来る」


 駿は測るように興吾の眼を見た。駿と興吾はしばし睨み合った。駿が先に視線を逸らし、興吾は得物と化す植物を摘みに外に駆け出た。少しして、豚草を手に戻ってくる。バタン、と激しくドアが閉まる音がした。華絵は黙って見守る姿勢を取ることに決めた。


「飛翔する影は陽の鉄槌を受け足下に座す。八百緑斬」


 再度顕現する、若草色の霊刀。その切っ先を、菫の胸元に向ける。流石に黙視していられず声を上げかけた華絵を、駿が制す。興吾に任せろと目で促す。

 八百緑斬はやわやわとした穏やかな光を発し、菫の胸元に沈んだ。興吾には初めての試みだった。己の中を巡る霊力を、八百緑斬に注ぎ込み、その刃から更に菫の体内へと注ぐ。慎重に。菫の肌を寸毫たりとも傷つけないように。ふらつき、後ずさった興吾の身体を駿が支えた。若草色の霊力は、菫に流入している。


「もう止めとけ。これ以上はお前がやばい」


 駿の声に、八百緑斬を菫の身体から抜き、無に帰す。霊力の著しい消耗は、体力にまで響いた。けれど信頼し、敬愛していた暁斎の裏切り程には響かない。菫を殺そうとした。失望、落胆、疑惑、諸々の感情が胸の内で渦を巻き、興吾の息を苦しくした。駿は冷静に菫の顔色を窺う。顔色が先程よりは良い。興吾による霊力供与は成功した。黒白でやっても良かったが、悪食の霊刀でこの処置を菫に施す気にはなれなかった。リスクを鑑みて、駿は興吾に譲った。

 華絵が駿と興吾をキッチンに追い遣り、菫の身体をお湯で濡らして絞ったタオルで拭き、寝間着に着替えさせる。その間に興吾は、駿をアシスタントに夕食を作った。どんな夜でも、人は食べなければいけない。例え裏切られても。絶望に打ちひしがれていても。血肉と化す栄養を、だからこそ摂取しなければいけないのだ。興吾の手元はやや危うかったが、調理する手際は常と変らず滑らかだった。今日は口に入らないだろうと思いつつ、菫用にお粥を作り、駿や華絵、自分用に椎茸、人参、玉葱が入った鶏肉の水炊きを作り辛子蓮根を切った。

 ローテーブルの横、リビングの隅に立てかけられた霊弓雪羅が異彩を放っていたが、彼らは気にせず晩餐とした。三人の誰もが無言で、時折、菫に視線を投げ掛ける。菫は目を閉じたまま、ピクリとも動かない。

 食べ終えたあと、興吾が言った。


「どんな事情があるにせよ、菫を殺そうとした、暁斎おじを許さねえ」

「……早まるなよ。気持ちは解るが、お前の手に負える相手じゃない」

「暁斎さんは菫を好きだった」


 華絵の呟きが落ちる。


「それは今でも変わらないように思える。好きな女を殺そうとする時、男は自分自身も殺してるのよ。駿。あんた、暁斎さんが死ぬ覚悟をしてるようなこと言ってたわね。あながち、的外れじゃないかもしれないわ」

「だから斟酌しろと?」


 華絵に向いた興吾の紫の双眸は底光りしていた。


「そうは言わない。けど、事を単純に捉えてはいけないような気がする。私が言いたいのはそれだけよ」

「確かなことが一つだけある」


 華絵と興吾が駿を見る。


「俺たちは、最強と言って差し支えない相手を失い、敵に回したってことだ」


 重く圧し掛かる事実。だが駿の指摘が正しいことは、華絵にも興吾にも解っていた。痛い程によく。



 華絵たちの声を、菫は水中にいるかのように遠く聴いていた。身に注がれた温かな霊力は、古くから馴染んだ気配で、興吾のものだとすぐに察せられた。きついぐらいに真っ直ぐな気性に似合わぬ温和な春の色。八百緑斬を介した霊力は、辛酸を舐め、手酷い傷を負った菫の心身を優しく慰撫するようだった。今でもまだ信じられない。暁斎の言動。これまでの彼との間に築き上げた信頼、数々の思い出。その全てを打ち砕く銀滴主の毒。


〝苦しんで死ぬより、ここで楽にしたほうが、菫はんの為ですやろ〟


 冷やかな声。銀の雪が、菫の心を凍てつかせた。あの言葉は暁斎の本心だったのだろうか。その是非を、彼の攻撃から判じることは容易かったが、菫はそれから目を背けた。確かに暁斎は、菫に殺意を抱いたことがあると告白した。けれどそれは行動に移されず、移す気も失せたように語っていた。菫を殺すと、自分の心も死ぬからと、あんな告白をされて、喜びを僅かにでも覚えない人間がどこにいるだろう。自分の生死が暁斎の心の生死を握っている。過去の殺意に嘆きながら、そのことに歓喜した自分。暁斎の考えていることが解らない。氷の中の微細な気泡のように、手が届かない。暁斎はなぜ、汚濁を生む側に寝返った? 玲音の薫陶を受け、易々と信条を変えるなど、彼に限っては有り得ない。だが、有り得ない行動を、現に暁斎は取った。今も身に在る、毒の残滓がその証だ。毒。銀滴主の毒。そして裏切りという名の毒。暁斎は二種の毒を菫に盛ったのだ。


(暁斎おじ様)


 敬称を止めろと言った。あの晩から彼は既に離反を決意していたのだ。それでも変わらず、呼び掛けたら答えてくれる気がする。何ですか、菫はん、と。薄紫の双眸を細めて、口角を僅かに吊り上げる、あの微笑で。ずっと自分を庇護し、守護してくれていた大きな存在が、霞のように失せ、気付けば敵陣営に立ち、菫を冷たい目で視ている。


(……死ねば良かったんだ)


 暁斎が望むなら、命を差し出しても良い。愛する人に殺されるなら、本望ではないか。しかしそう思うと同時に、興吾の、華絵の、駿の顔が浮かび、そしてそんな考えを抱く自分を菫は責める。生を簡単に放棄することは、それこそ彼らへの裏切りだ。――――苦しい。辛い。悲しい。泣き喚きたい。こんなになってまでも、菫の想う相手は暁斎以外になく、報われず、救われない心に、菫は微睡みの中で死にもの狂いでしがみついていた。いっそ手放せれば楽なのにと思いながら。




 御倉昌三は美津枝に歓迎の笑顔で迎え入れられた。運転手付きの車は、神楽家の駐車場に黒光りして停まっている。


「まあ、御倉さん。いらっしゃい」

「ご無沙汰しております、美津枝さん」

「どうぞ、お上がりになって」

「お邪魔致します」


 美津枝が京史郎の書斎のドアをノックする。


「貴方。御倉さんが。昌三さんがお見えになったわよ」

「――――ああ、解った。美津枝、済まないが、摘まみになるような物を少し見繕ってくれないか」

「はい、解りました」


 やがて入室した昌三を、京史郎は普段と変わらぬ態度で迎えた。旧交を温めると言うには、やや他人行儀だった。昌三に一人掛けのソファーを勧める。室内を見回した昌三が、口元を緩めた。


「久しくお邪魔しませんでしたが、良い部屋ですね」

「些か、手狭ですが」

「そこが心地好い」

「ありがとうございます」


 ペンダントランプが照らす室内はどこか幽玄の趣を漂わせ、異国情緒香る部屋に立つ緑の目の昌三と相まって、不思議な空気が醸し出されていた。美津枝が運んできたブルーチーズとオリーブの塩漬けを肴に、京史郎が戸棚から取り出したバカラのグラスにデカンタの赤ワインを注ぐ。自分のグラスにも注ぐと、昌三に手渡した。チン、と軽い音を立てて、二人は乾杯した。


「再会に」

「確かにここ数年、足が遠のいていたからね」

「ああ」


 互いに砕けた口調になる。


「京都に行って来たよ」

「霊能特務課か?」

「華絵に泣きつかれてね。安野暁斎の行方を調べてくれと」

「相変わらず、娘御に甘いな」

「君もそうだろう」


 オリーブの塩漬けを口に放り、ワインを呑んだ昌三は鷹揚に笑う。その直後、緑の双眼が真剣になった。ランプの光を受けて緑が明るく鮮やかになる。


「安野暁斎謀叛の報は事実か」

「そうらしいな」

「君は彼とは親しかっただろう。親戚としての交流もあった筈だ」

「その通りだが?」

「前兆を、掴んではいなかったのか」

「残念ながら」

「バイオレットは重篤と聴いたぞ」

「だが助かる」

「――――自信があるんだな」

「私の娘だ。興吾もついている」

「安野暁斎への遺恨は?」

「あるさ。私怨だが」


 昌三がグラスを傾け、赤い波を揺らした。


「私には解らない」

「何がだ?」

「君も、安野暁斎も、何を考えているのか。真剣に考えればこちらがまるで莫迦を見るようで」


 宥めるように、京史郎が微笑する。部屋の主として、彼は悠然と構えていた。


(らん)(ぎょく)(へき)()の主を莫迦にする程、命知らずではない」

「王黄院の主たる君がそれを言うのか。では心したまえ。君であろうと暁斎であろうと、そしてバイオレットであろうと。華絵が傷つくようなことがあれば、その藍獄碧華が相手をするということを」

「憶えておこう」


 グラスに収まるワインは血の滴るような色で、その色を京史郎は一気に飲み干した。




 その頃、玲音の根城とする教会では、暁斎が樹利亜と遙から糾弾されていた。樹利亜が腕組みして暁斎を睨めつける。遙もまた、厳しい視線だった。


「殺す予定はなかった筈よ。バイオレットは、大事な子なんだから」

「どうして菫ちゃんを殺そうとした? 貴方が本気になれば、貴方に想いを寄せる彼女が抗し切れないと知った上で」

「敵の主力を叩くいう基本理念が、勝手に銀滴主を動かしてしまいました。えらいすんません」


 一見はしおらしく謝罪する暁斎に、しかし悪びれた空気がない。樹利亜も遙もそれが業腹だった。虎鉄は少し離れた位置から太い柱に寄り掛かり、主祭壇の前にいる彼らを傍観している。

 遙の内には混乱があった。何が正しいのかと告げた駿の声がまだ彼の内にこだまし、そして菫の慕う暁斎が彼女たちを裏切って自陣に就いたことが尚、彼を混乱させた。暁斎もまた、菫を好いていたのではなかったのか。玲音も玲音だ。強力な敵の一人である暁斎を、なぜこうもあっさり招き入れたのか。遙は彼らの間に密約の臭いを嗅ぎ取っていた。


「貴方がバイオレットを殺したら、玲音の掲げる壮大な計画が水の泡になるわ!」

「そのへんにしておきなさい、樹利亜」

「玲音……」


 身廊をゆっくりと歩いてくる玲音の水色の目は、愛娘を見るような慈しみの光宿し樹利亜を見ている。


「バイオレットは我々のメシアだ。死なせるなど以ての外。解って欲しい。安野暁斎」

「はい」

「今日はもう夜も遅い。皆、休みなさい」


 玲音の声をきっかけに、樹利亜は踵を返し、遙は無言で暁斎を睨みながら離れ、そんな彼に虎鉄が付き添う。暁斎は最後まで、教会内に留まった。そんな彼を一瞥して、玲音もまた踵を返した。



 何もかも納得行かない。

 遙は真紅の部屋の中でスマートフォンにポエムを打ち込んでいた。記録された膨大な量のポエムは戦いの武具となる。今の遙は腹立ちを詩にぶつけていた。菫が、自分の目の前で死にそうになった。自分は彼女の敵で、けれど彼女を助けずにはいられなかった。死なせる訳には行かないという考えは、玲音の方針にも沿っている。本来なら、彼女を誰より近くで助ける筈だった男の振りかざした霊刀を受けた時、暁斎の本気を感じた。彼は本気で菫を殺す積りだったのだ。その事実に遙は慄き、混乱した。自分の立ち位置もよく解らない。


「遙」

「何、鉄」

「安野暁斎を余り信用するな」

「してないよ、初めから」

「なら良いが」

「……彼は、菫ちゃんの傍にいるべきだった」

「……お前はそれで良いのか。欲しいんじゃなかったのか」

「良いよ。欲しいけど、菫ちゃんが笑ってくれるなら、僕はそれで良かったんだ」



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