狂想曲は高らかに
忍の目は白々としていた。彼女の耳にも暁斎出奔の報は届いていた。それに右往左往する大衆の当惑も。彼女にしてみれば、幾ら強力であろうと、たかが隠師、それも霊能特務課課長補佐如きが消えたぐらいで、何を騒ぐかと言った心境だった。そして暁斎がどこに消えたか、忍にはあらかたの見当もついていた。ついていたが、それを教えてやる程、優しさも親切心も持ち合わせていないだけの話だ。それの何が悪いと、堂々と開き直るのが忍だった。小池家の縁側に座り、空の月を眺める。月光、地に注ぐ。月光姫を思い、菫は嘆いているのだろうかと考えた。けれどそれすらもどうでも良かった。忍には凡そ人の喜怒哀楽、生死に興味がなかった。心は常に無風の凍土のようであった。忍はすっくと立ち上がると、庭に咲いていた野菊を踏みにじった。花びらが土に塗れ、無残に汚れ引き裂かれる。緑の茎がへしゃげ歪に折れ曲がる。二度、三度と草履を履いた足で花を執念深く踏みにじる。そうすると苛立ちが多少、紛れて薄くなった。細い肩にも月光が降り注ぐ。
興吾は早熟な子供だった。暁斎が消えた今、菫にどう接すれば良いのか、彼は正しく理解していた。深手を負った動物を労わるように、彼は姉に接した。温和な声を掛け、温かな料理を作り、無駄な話はせず、菫の感情を細心の注意を払って見守りながら、彼女の望む声を、言葉を発した。一方で、暁斎に対する憤りは、無論あった。泣かせたら許さないと言ったすぐあとにこの始末だ。どうしてくれようと思うこと、二度や三度ではない。尊敬していた相手だけに、ショックでもあった。何か思惑があるにせよ、菫をここまで追い詰めて、一言の弁解もなく姿を消すことは、興吾にとって裏切り行為の他の何物でもなかった。菫は涙を見せなかった。見せれば興吾が暁斎にますます腹を立てると知っていたからでもある。だからこそ興吾は歯痒くもあった。いっそ泣き、喚き散らせば少しは気も晴れるだろうに。淡々として、興吾の言葉に答える。食事が美味しいと言う。ありがとうと言う。大人は不便だとも思った。泣きたい時に泣けない。泣かない。
ただ一つ。
菫は興吾に甘えた。共に寝て欲しいと望んだ。
初秋の候だ。一つ布団に二人で寝ても、暑苦しさはほとんどない。興吾は頷いた。
姉の隣に枕を並べ、電気を消した。菫の頭を抱いてやった。菫は何も言わなかった。興吾は姉の髪を梳き、肩を撫でた。痛みを分かち合うように、身体を密着させて、低く小さな声で、今日、学校であったことなどを話した。菫がその内容を聴いていないと承知の上で。翔が生きていてくれたなら。そうも思った。歳の離れた兄。ほとんど話でしか知らない存在は、興吾には頼みになる強く優しい男性と思えた。翔であれば、こんな時、もっと大きな包容力で菫を包むのだろう。自分の腕より、手よりはるかに大きなそれらで菫を撫でるだろう。こういう状況になって改めて思い知る。自分が如何に日頃、菫の庇護を受けて守られているか。どんなに尊大な態度をとっても、所詮はまだ小学生。自分は子供に過ぎないのだ。
「菫」
「ん……?」
「暁斎おじはきっと戻ってくる」
「…………」
「菫のもとに戻ってくる。だから待ってろ」
「うん」
「俺がいてやるから」
「うん」
菫の返事が童女のように澄んだあどけない声で、興吾は切なくなる。ふと、水色の髪、蒼い双眸の少女の姿を思い出した。なぜなのかは解らない。彼女には感情の揺らぎがないように見えた。誇り高く高慢で、遠い。その遠さが、どこか暁斎を連想させる。常人より遠くに在るのは、隠師ならではだからだろうか。水色の髪、銀の雪。美しいそれらの色彩は、だが興吾の胸に寂しさをもたらすばかりだった。
(戻ってこい、暁斎おじ)
菫を泣かせてまで、姿を消す理由など、あって良い筈がないのだ。
深沈とした凪のような日々が過ぎた。
研究室の誰もが菫の様子をそこはかとなく窺い、気を遣っていた。そんな中でも修士論文に目途がついた菫は、オセロゲームを一人でやっていた。白と黒。黒と白。手触りでその違いが判ると暁斎は言っていた。菫には全く解らないし、盤上の図を頭に思い描くことも出来ない。視覚に頼る情報は、思った以上に膨大なのだ。では、その膨大さを持たない暁斎の中には何があるのだろう。見えず。視えたる。心の眼に映るものはどんな景色だったのだろう。自分は、暁斎にどう捉えられていたのか。憎まれていただろうか。そんな思いが胸をよぎり、自分でも驚く。心に入り込んだ菫を、暁斎は忌々しく思っていたのではないか。だから姿を消した。自虐的な考えと知りつつ、菫はそんな可能性を思い描いていた。
可哀そうに。
唐突に、意識の深層から浮かび上がった言葉があった。
誰が言ったのだったか。誰かが自分のことをそう言った。まだ、暁斎が消えるよりも前。あれはそう、予言の話をしたあとのことだったか。金は先を視て銀は時を統べる。そして黒白。そんな話を、ぬらりひょんたちとした。ぬらりひょんは不意に現れて不意に消える。
消える直前、可哀そうにという声を聴いたような。聞き間違いだろうか。あの時の菫はほぼ泥酔状態にあり、眠っていた。
可哀そうに。
何を指してぬらりひょんはそう言ったのだろう。もしかして、暁斎が消えることも知っていて?
「Tシャツ君」
「止めて菫、その呼び名」
「ぬらちゃんにもう一度、会えないかな」
「ん~? 難しいんじゃね? あれは気儘が身上の妖怪だろ」
「おびき出せないかな。捕まえられないかな」
「おいおい、どんどん単語が物騒になってきてるぞ」
「酒盛りしてたら来るんじゃなあい?」
二人の会話を聴きつけた華絵が参加してくる。
「いや、興吾が怒るから。流石に次は」
「ぬらりひょん召喚の儀式なんて知らないしねえ」
「無理か……」
「でもどうして?」
「いえ、ちょっと訊きたいことがありまして」
「予言の話?」
「でもないんですけど」
「金、銀、黒白はスペシャルだって言ってたな。つまり、俺と菫は出逢うべくして出会った運命という訳さっ」
「Tシャツ君。その理屈で言うと父さんとTシャツ君の間にも運命があることになるぞ?」
「止めて! その呼び名も、その発想も止めて!」
「楽しそうだな」
「興吾。今日は早いな」
研究室のドアを開け、興吾が大股で近づいてきた。背中に背負ったランドセルをドン、と菫の机の上に置く。
「体育で怪我して早退」
「どこか怪我したのか!?」
「俺じゃねえ。俺をいびろうとした相手がだ。でも俺も今日は帰れって言われた」
「どういうことだ」
「突っかかってきたのを避けたら相手がすっ転んで骨折」
「ああ……」
「……両親を呼び出すって言われた」
興吾の顔が暗い理由が解った。菫もまた気が重くなる。興吾を苛めようとして返り討ちに遭った生徒には気の毒だが、この件は明らかに相手方に非がある。だがそれだけで話が済まないのが社会なのだ。相手の親がモンスター・ペアレントだったとしたら目も当てられない。京史郎のことだから、上手く場を丸く収めるだろうが、興吾にとって、自分の不始末で両親に迷惑を掛けるのが忍び難いのだろう。菫も美津枝のことが心配だった。大事に至らなければ良いのだが。
興吾は鬱憤を晴らすかのように、菫の机上のパソコンのキーボードを凄い勢いで打ち込んだりクリックしたりしている。カチカチカチカチと、操作音が鳴り響く。大人組はそんな興吾を遠巻きに見ていた。華絵がコーヒーミルで豆を挽く。興吾にカフェインと甘味を摂らせて気晴らしさせようと考えているのだろう。やがてコーヒーの香ばしい匂いが部屋に立ち込める頃、興吾が歓声を上げた。
「見つけたぜ」
「ん? 何々?」
華絵がバウムクーヘンを食べながらパソコンの画面を覗き込む。右手にはアラビアのコーヒーカップ。
「牛鬼だ。博多駅周辺に出没してる。目撃者多数、被害者も出ている」
「毎度毎度、お前はどうやってそんな情報を拾ってくるんだ? 特務課が警察を通して緘口令を敷いてる筈だろ」
駿の言葉に、にやあ、と興吾が子供らしからぬ悪い笑顔を作る。
「人の口に戸は立てられねえってな。今の時代、SNSやツイッターを洗ったら、めぼしい情報も出てくる」
「あ、そう言えば特務課からその退治指令、出てたわ」
「それを早く言えよ。俺の苦労が水の泡じゃねえか」
「良いでしょ、ストレス発散にもなったみたいだし。はい、あーん」
あぐ、と口にバウムクーヘンを詰め込まれた興吾は反論を封じられ、渋い顔で砂糖とミルク入りのコーヒーを飲んだ。
「牛鬼って地獄の獄卒の牛頭鬼を指すって説もあるけど」
「今回のは違うみてえだな。蜘蛛の身体に、牛の角がある鬼の顔をした妖怪。まさしく牛鬼だ」
「やだ、グロテスク~。Tシャツ君、出番よ~」
「俺に押し付けないでください、華絵さん。あと呼び名! 切実に止めて!」
「地下鉄で行くか、バスで行くか」
思案する菫の顔は平常通りのもので、その場の面々は、心中密かにほっとした。
駅ビルなどの集客率の高さもあり、博多駅は夜でも賑わっていた。博多口にはタクシーが列を成し、バスタセンターにも勤め帰りの人々が集う。夜であって夜でない。電気の光に彩られた博多駅に、菫たちはバスで到着した。蠢く人の中に混じる妖の気配が無数にあり、いずれも小者ばかりである為、今回は放置する。博多口の前はちょっとした広場になっており、牛鬼はこのあたりに出没したという話だった。結界を張る。今回は相手が相手だけに簡略ではなく、正式な手順を踏まえたものだ。人々の喧騒、雑踏が幕一枚隔てたものとなる。手に手に吾亦紅の花を携えた一行は、散開して牛鬼の出没を待った。嵩張る荷物だったが、華絵は霊弓雪羅をも携帯していた。万一に備えてだ。今夜は空気がどこか濁っていて、如何にも妖怪が出そうな晩だ。やがて耐え難い臭気を伴い、それは姿を現した。
蜘蛛のような八本の足には剛毛が生えている。牛のように湾曲した角、目は爛々と金色に光り、口は大きく裂けて牙が覗いている。牛鬼は真っ直ぐ駿のほうに向かった。駿は缶チューハイを左手で弄んでいた。牛鬼は酒が大好物という説がある。
に、と笑って駿が吾亦紅をかざす。
「天の横溢、魔の哄笑、日陰の冷涼、縛された鮮血、黒白」
駿の最も近くにいた菫も駆けてくる。
「魂魄の厳粛なる誓約。あるかなしかと命脈に問え。銀月」
牛鬼が咆哮する。その重低音に、菫たちは耳を塞いだ。駿と目線を交わし合い、牛鬼を挟撃しようと回り込んだ菫の前に、するりと立ちはだかった影があった。菫は信じられない思いで彼を見上げた。
「隠滅の嘆き。放たれよ、闇に涙の舞い落ちる」
銀滴主を携えた暁斎は、そう唱えて、牛鬼の周囲に汚濁を生み出した。