表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
68/104

影すらも

挿絵(By みてみん)

 暁斎のいなくなった離れは、畳に燦々と朝の光が入っていた。整頓された中にも、書籍に満ちていた部屋は今では跡形もなくがらんとして、清々しい程に八畳間が広く感じられた。立つ鳥跡を濁さずという言葉が、菫の頭をよぎった。埃一つ、塵一つ落ちていない畳の目をそっとなぞる。暁斎とはあの、夕食を共にした日以来、連絡が取れない。別れの挨拶だったのかと、菫は漠然と察した。彼がいなくなっても、彼の私物が一切消えても、八畳には変わらず陽が射し、その事実が菫にはほんの少し憎かった。名前だけで呼べと言った時、もう暁斎は消える心積もりをしていたのだ。それでも菫は、誰か暁斎の行方を知る人はいないかと、彼の上司である霊能特務課課長の百瀬や、父・京史郎に尋ねてみた。彼らは一様にして菫の抱いた可能性を否定し、暁斎から何も聴いていないと答えた。


(どうして)


 なぜ、暁斎は去ったのか。


(私を殺せなくなったから? 私の存在の有無が貴方の心の生き死にを左右するから?)


 へたり、と畳に座り込む。彼は銀の雪。心に触れれば融ける雪。触れてしまったから、融けたのだろうか。ならば触れねば良かったと思う一方で、暁斎に対して募る恋心を、いずれは留められなくなっていただろうとも思う。遅かれ早かれ、菫の気持ちは暁斎に洩れ届いてしまっていた筈だ。思い上がりかもしれない。けれど菫には、暁斎の失踪が自分のせいであると考えずにはおられなかった。近づいたと思った銀の雪。またはるか孤高に消え去ってしまった。


(貴方はそんな風にしか生きられない)


 冷たく透き通った独りでしか在ることが出来ない。歓談に、団欒に、心安らがせることが出来ない。だから暁斎は強くて寂しい。菫はその心を埋める者でありたかった。心の底からそうあることを望んだ。例え殺されそうになったとしても。

 恋しい。

 あの白髪が、薄紫の双眸が、――――菫に向いた心が。



 暁斎が消えたことは、興吾にはもちろんのこと、華絵や駿にも知れるところとなった。一縷の望みを胸に、長老のほうで何か掴んでいないかと尋ねた菫に、持永は静かに首を横に振った。研究室内で明らかに意気消沈し、憔悴している菫を、華絵も駿も心配しつつ見守った。万一、と思い、田沼鶴にまで問い合わせた菫だったが、これも空振りに終わった。打てる手は全て打った。結果は、暁斎の不在に終わった。駿は憤りのようなものを腹に抱えていた。暁斎は、菫の心身を守れる唯一の男だった。託せると思えた。何をどう足掻いても、自分が勝てる見込みのない男。銀色に冷たく光り、その残照を傷のように魅せて消えてしまった。菫がまた泣くかもしれないのに。今の彼女は傍目からは平然として見えるが、その姿勢を必死に保っていることが容易に推し量れる。押し殺した泣き声が聴こえるようで、駿は遣る瀬無かった。御師のほうで何か掴んでいないかと思い、静馬に連絡を取った。


『珍しいな、駿』

「静馬。暁斎さんの行方を知らないか?」

『――――いや。安野暁斎がどうした』

「姿を消した」

『襲撃でも受けたのか』

「意図的にだ。暁斎さんは、そこらの奴の襲撃でどうこうなる人じゃない」

『そうだろうな。だが僕らに関知するところじゃない』

「そうか」


 通話を終えて、スマートフォンを凝視する。そこに答えがあるかのように。こんな風に、唐突な幕切れなど許せない。菫の前から、鮮やかな陰影だけを残していなくなるなど。生易しい感情で、感傷で、動く男ではない。何かあるのだ。暁斎をして、姿を消さしめた何かが。菫の心にひびが入る。ひび割れたビー玉のように痛ましくも美しいけれど、そんな美しさは駿には要らなかった。ただ笑っていてくれれば良いのにと思った。例えそれが他の男の為の笑顔でも。

 華絵が駿を呼び出した。空を切り取ったような窓のある、廊下の端。

 華絵の目は据わっていた。くっきりとした顔立ちの美形が、ある種の凄みを帯びて、駿に迫る。


「どうして暁斎さんはいなくなったのよ」

「俺にも解りません。解ったらとっくに菫に話してますよ」

「……男同士は時々、結託することがあるから」


 疑り深い目で駿を見遣る。緑がかった瞳は虹彩が美しく煌めく。何かの野生動物のようだ。


「菫と暁斎さんの心情を秤にかけるなら、俺は迷わず菫を取ります」

「そうよね……」

「華絵さん」

「何よ」

「これ、性質の悪い冗談みたいに聴こえるかもしれないけど、俺の勘です」

「何?」

「暁斎さん、死ぬ覚悟をしてる気がします」

「――――冗談であって欲しいわね。菫が泣くわ。もう、あの子の泣き顔を見るのはたくさん。暁斎さんは、菫を振り回し過ぎてる。嫌ね、良い男って。女を翻弄するんだから。駿、あんたは良い奴だわ」

「遠回しに俺を良い男から除外しないでください」


 華絵が駿を睨みつけた。相手が暁斎であるかのように。身長差があるので、見上げる形になる。


「駿。私はね、お嬢育ちなの」

「よく知ってますよ」

「お嬢ってのは、自分の意に沿わないことが何より嫌いなの」

「はい」

「我が儘と高慢さが売りなのよ。何がどうあっても暁斎さんを見つけ出して、首根っ子掴んで菫の前に引き摺り出してやるわ」

「――――頼もしいですね」

「菫は伝手を辿って暁斎さんの行方を掴めなかったみたいだけど、誰かが嘘を吐いてる可能性は低くないと思う」

「確かに」

「百瀬課長や長老あたりから、まず探り直してみるわ」

「華絵さんが?」

「……いいえ。こんな時に親に頼りたくはないけれど、お父様にお願いしてみる」


 御倉昌三(みくらしょうぞう)。神楽家や千羽家と並ぶ隠師の名門にして御倉財閥を束ねる男。政財界に与える影響は大きく、また、霊能特務課や長老たちも彼の意向を疎かには出来ない。日頃は会社経営に携わるが、自身もまた現役の隠師であり、一人娘の華絵を溺愛している。成る程、適役だと駿は思った。昌三自ら動くとなれば、菫をあしらったようには行くまい。嫌な話ではあるが、こと経済にも関わる力関係の話になると、菫よりはるかに昌三のほうが影響力を持つ。


「華絵さん」

「何」

「女王様って呼んで良い?」

「ヒールで踏まれたいならね」




 暁斎出奔の噂は、たちまち隠師、人外の間を駆け巡った。

 その件に関する問い合わせは、当然のことながら彼が属していた霊能特務課に寄せられ、課員たちはその対応に追われた。暁斎の存在の大きさを、その事実は指し示している。中には課長である百瀬に直接問い質してくる剛の者もいて、百瀬は少なからず不興であった。ふわふわと室内を浮きながら、檜扇で顔を扇ぐ。泳ぐ鯛や烏賊を突いて、無聊を慰める。


「暁斎の奴め。消えるなら消えると一言申しておけば良いものを」


 無言で立ち去ったのは彼らしいが、後始末をするこちらの身にもなれと言うのだ。百瀬の漆黒の髪がゆらりと靡く。長く長く、靡く髪は高麗端の畳を超えて床にまで這っている。その先端をくわえる海亀を、手でいなしながら、百瀬は欠伸をした。腹立ちの混じった欠伸だった。


「百瀬課長」

「何じゃ。わらわならおらぬと伝えよ」

「いえ、それが」

「こんにちは。百瀬殿」

「…………」


 百瀬はくるうりと一回転して、捲れば壁しかない御簾を眺め遣った。相手にしたくない相手が来た。面倒は百瀬の最も厭うところだった。


「こんにちは。百瀬殿」

「娘御に、泣きつかれたか。御倉の」


 二度まで無視する訳に行かず、百瀬が渋々応じる。

 長身に、栗色の髪。彫りの深い顔の、緑の目の紳士がにこりと微笑む。


「丁度、こちらにまで足を運ぶ用がありまして」

「左様か。そなたの足は長いの~」

「畏れ入ります」

「暁斎の居所なら知らぬぞ。わらわを探るは無駄足と言うものじゃ。長かろうともな」


 緑の双眸が細められる。


「安野暁斎殿は百瀬殿の補佐だったと聞き及んでおります。何一つ、知るところがないと言うのも奇異な話」

「奇異であろうとなかろうと、知らぬものは知らぬのじゃ。邪推は傍迷惑というもの」

「御倉を、軽んじられるか」

「控えよ、無礼者!」


 しなる鞭のような声で、百瀬が一喝した。室内に満ちていた波が一瞬、炎のような赤に染まった。


「わらわを脅そうなぞ百年、早いわ。若造が」

「……失礼致しました」

「帰りや。親莫迦も、程々にするのじゃな」


 深く一礼し、昌三は霊能特務課をあとにした。

 あの様子では本当に百瀬は何も知らないようだ。華絵の懇願する声を思い出す。滅多に父に甘えてこない娘の、切迫した声には私情と仕事を別とする昌三も突き動かされるものがあった。華絵は自らのことでは昌三を頼らない。以前、村崎駿が長老らに囚われた時も。駿の為に、昌三を頼った。今回は。


「月光姫か……」


 地上へと戻り、空を見上げると白い月が浮かんでいた。華絵は月光姫の、菫のどこまでを知るのだろう。随分と心許し、濃やかな愛情を注いでいるようだが。昌三は我が子が可愛い。菫が華絵の害になるなら、菫を排除することも検討するくらいには。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ