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愛の挨拶

挿絵(By みてみん)

 央南大学文学部棟史学科持永研究室では、象牙の塔とも思えぬ酒気と賑わいに満ちていた。空となった純米吟醸の青い硝子の一升瓶のみが、沈黙して応接セットの隅に無造作に転がっている。中身を呑んだ者たちは、最早その容れ物に頓着することなく、肴を摘まんでは談笑している。一際、甲高い声を上げているのは菫である。


「あはははは! ぬらちゃん、あはははは」

「かような笑い上戸は初めて見るのう、月光姫。銀の遣い手よ」


 普段はどちらかと言えば無駄口を叩かず冷静な菫が、酒の一定量を越し、爆笑している。何を見ても聴いても可笑しい。そんな状態である。華絵と駿も酔眼だが、菫程にはたがが外れていない。


「銀の隠師が特別だって?」


 それでもかなり、呂律は怪しい。そもそも常日頃の駿であれば、男の肩に腕を回したりなど絶対にしない。相手が老体の妖怪であれば尚更だ。それが今は長年の旧友のようにぬらりひょんの肩に親しげに腕を回し、湯呑をくい、と干している。無論、中身は酒である。


「うむ。銀、金。それに黒白は特別であると言うのう」

「はいはい、聴いたことあるわ、それ」


 酒臭い息を吐きながら、華絵が挙手する。


「おう、流石は御倉が娘よな」

「あれでしょ。世に霊刀多しと言えども、金と銀、加ふるに黒白。其に抗するものなし。世の行く末は彼の色共が決するものとす。よね? ね? 合ってる? ぬらちゃん」


 しかつめらしい顔でぬらりひょんが頷くと、大きく張り出した後頭部もゆら、と動く。如何にも自分だけは素面を貫いている体だが、頬がほんのり桜色に染まっていることは誤魔化せない。


「それじゃ。金は先を視、銀は時を統べる」

「何、タイムトラベル? あははははは」

「すげーな、菫。お前、そんなチートだったのか」


 菫と駿が顔を見合わせ、同時に、盛大に噴き出す。

 笑い声と酒気に満ち満ちた空間を、ぬらりひょんは居心地良さそうに眺め回した。酒の入っていない状態であれば、菫も駿も、華絵も、ぬらりひょんの話にもっと深刻に耳を傾けたかもしれない。けれど辛気臭い空気はぬらりひょんの最も苦手とするところであった。ゆえに酒のもたらした効能は、彼にとって好都合だった。作った肴も底を尽き、彼らはピーナツとアーモンドを齧りながら今度はビールで呑み始めた。学生の、いや、院生の本分とは何ぞやと、持永が見たら説教が始まるところだろう。ポリポリと、木の実を齧る音が響く。


「炙った烏賊とかねえの」

「演歌か。あんたねえ、居酒屋じゃないんだから」

「あはははは」

「タイムトラベラーがまだ笑ってやがるぞ」

「可愛いわね。食べちゃいたい」

「ちょっと華絵さん、問題発言ですけど? 菫を食べるのは俺ですけど?」

「はあ? 莫迦仰い。あんたみたいなちゃらい青二才に菫は三百九十八年早いっての」

「何ですか、そのさん、きゅ、ぱ! 俺はセール品かい!」

「あははは、にい、きゅ、ぱ!」

「菫! なにげに値段下げないで!」

「いや、上がってるでしょ。私が言ったの、三百九十八円だもの。菫は二千九百八十円って言ったんでしょ。あらあら、お優しいこと」

「せいぜい買えてTシャツ一枚……」

「良かったわね。今度からTシャツ君って呼んであげるわ」

「やめてマジでやめて。酒の場の流れで定着しそうなあだ名なんて嫌だっ」

「良かったな~。Tシャツくう~ん」

「菫、しなだれかかる時はもっと台詞選ぼう!?」

「その前に相手を選ぶ必要があるわね。菫、お姉さんのとこいらっしゃーい」

「はあーい」


 良い返事をして菫は、招かれるまま、華絵の隣に侍った。ぬらりひょんの隣に置き去られた駿は酔眼且つ渋面である。ぬらりひょんはにこにこと彼らの会話の行方を見守っていた。ポリポリ、木の実を齧りながら。菫はそのまま、華絵の膝の上ですうすうと健やかな寝息を立て始めた。心底、羨ましいポジションだと駿が指をくわえてそれを見る。羨んでいるのはもちろん、華絵のことである。


「仲良きことは麗しきかな」

「そらどーも」

「黒白の坊主」

「――――何だよ」


 酔いが半ば醒める心地で、駿は答える。ぬらりひょんの声は、長閑なそれまでの調子と異なり、冷えた鉄のようだったからだ。


「お前さん自身も予言に組み込まれていること、忘れんほうが良いぞ。銀のお嬢ちゃんも、銀の男も、お嬢ちゃんの父親の金も、予言にある。そしてそれらの色の中で、唯一黒白だけが、具体的に何を為すか伝えられておらん。良くも悪くも転ぶということじゃろ」

「脅しかよ」

「忠告じゃ。酒宴は真に楽しかった。礼にほれ、これを受け取れ」


 ぬらりひょんが、スーツの上着から取り出した物は、どう考えても上着に収まる容量を超えている品々だった。

 黄味を帯びた白い団子の入った布袋。

 これはまだ解る。

 弓と矢筒に入った矢がどうやってスーツに収まっていたというのか。妖怪だった、こいつ、と駿は改めて思った。白木で出来た弓は新雪のように清々しい美しさがあり、矢も純白の矢羽がついた、弓に相応しい代物だった。


「なあに、それ?」


 華絵が、菫を起こさないよう、声量を落として訊いてくる。


(きび)団子(だんご)と、(れい)(きゅう)(せつ)()じゃ」

「黍団子って、あの、昔話の?」

「んむ。死んでない限り、これを喰わせればどんな病人や怪我人も命を保つ」

「この弓矢は? 霊弓雪羅って、何か聞いたことあるな」

「霊弓雪羅は宝具の一つ。狙って射抜けぬ物はない。そしてその矢筒から矢が絶えることなし」

「うわあ、ぬらりひょんってやっぱすげえんだな」

「我らは歓待には礼節を以て応じる。お前さんたちは儂に試された。そして見事、それらを勝ち得た訳じゃ。この先、幾多の試練があるやもしれんが、ゆめ諦めるでないぞ」


 それからぬらりひょんは、眠る菫を横目で見た。


「銀のお嬢ちゃんによろしくな」


 弓矢と黍団子に見入っていた駿と華絵は気付かなかった。ぬらりひょんが姿を消す直前、可哀そうにと呟いたことを。

 気付かなかった。


 

「しんっじらんねえ!」

「うわ、興吾、怒鳴らないでくれ。頭に響く……」


 興吾にしてみれば怒鳴りたくもなる。学校帰りに研究室のドアを開けると、室内には酒と食べ物の匂いが立ち込めていて、出来上がった大人たちが気怠く興吾を迎えたのだ。しかも、その中でも酒により、惰眠を貪っていたのが自分の姉だったのだから、情けないことこの上ない。引き摺るようにして菫をアパートまで連れ帰り、持永に代わってと言う訳ではないが、姉に説教を始めた。心なし、白髪が尖っている。


「菫」

「はい……」

「お前は大学院生だな?」

「はい……」

「大学院生の本分は何だ?」

「学問と研究です」

「そしてお前は今日、何をしていた」

「ぬらりひょんと酒盛りを」

「この莫迦娘っ」


 興吾の罵声は、正座して身を縮めていた菫の頭にがんがんと響いた。今の興吾は毛を逆立てた猫のようだった。威嚇するようにして姉を叱りつける。元来、興吾は生真面目な性分だ。義務として課せられたことは気が向く向かないに関わらずこなし、完遂する能力を持つ。学校に行きたくないと言いながら、学業を疎かには決してしない興吾に、今日のような醜態を晒した菫が口答えする余地はなかった。


「とっとと風呂に入れ。酒の匂いを落としてこい」

「はい」


 項垂れ、小声のままで弟に返事した菫は、とぼとぼと浴室に向かった。興吾が呆れるのも怒るのも無理はない。それに、ぬらりひょんは何か大切なことを言っていた。金、銀、黒白が何とか。もっとしっかり聴いておくべきだったと、菫は特にその点を反省していた。ぬらりひょんの置き土産である黍団子と弓矢は、ひとまず華絵が持ち帰った。無論、自宅から車を呼んでである。得難い宝を頂戴出来たことは良いとして、興吾の説教と引き換えにしてもぬらりひょんの話は素面で聴いておかなければならなかったと、菫は浴槽の中で悶々として悔やんだ。興吾は嫌がるが、風呂にはラヴェンダーのバスソルトを入れている。穏やかで優しい香りと、淡い紫に染まったお湯に、気持ちが緩んでいく。それはアルコールのもたらす弛みとは異なる安堵感だった。後悔の、激しくちりつくような感覚が消える。

 風呂から上がり、麻のミントグリーンのプルオーバーに、グレーのスウェットを合わせた菫は酒気もすっかり抜け、人心地ついた。リビングでは既にローテーブルが鎮座し、茹でた小松菜と人参、大根、柚子味噌に、椎茸や蒲鉾の入ったおかめうどんが準備されていた。あれだけがみがみと菫を叱りつけた興吾だが、ちゃんと酔っ払いに優しい献立を整えてくれるあたり、心遣いのある性分を見せる。


「お前は良い男になるよ。私が保証する……」


 ローテーブルに着きながら、しみじみそう言う菫に、照れもあってか澄まして興吾は答える。


「菫の保証がなくてもなるぞ」

「そうか」

「うん」


 僅かにはにかむような笑顔を見せた興吾に、菫も笑顔を返した。二人の団欒にチャイムの音が響く。この場面での闖入者は、はっきり言って菫にも興吾にも無粋と思えたが、菫は立ち上がり、煉瓦の壁の横を通って玄関まで出た。ドアスコープを覗き、目を瞠り、チェーンを外して開ける。


「暁斎おじ様……」

「おばんです」


 白い髪が紫紺に染まらんとする空の色を映し、青味がかっている。菫はともかく、暁斎を招き入れた。今はもう自分を殺せないと言った男を。


〝君が死んだら僕の心も死ぬから〟


 自分の魂を心に住まわせた男を。


 興吾は複雑な視線で暁斎を見た。


「余分な具はないぞ、暁斎おじ。あり合わせのうどんで良いな」

「予告なしで来ましたんや。構しません。僕は僕で、肴を持って来ましたさかい」


 暁斎が掲げたエコバッグを見て、たちまち興吾が渋面になる。


「今日はもう酒は止めてくれ。菫の奴、大学で呑んできやがったんだ」

「おやおや。そんなら僕は、一人酒と行きましょか」


 菫としてもそのほうが有り難かった。今は暁斎と和やかに呑み合える気がしない。興吾がキッチンに立つと、リビングは菫と暁斎の二人きりになった。菫は何を話せば良い解らず途方に暮れた。調理中の興吾は救いの手を差し伸べてはくれない。暁斎のほうから話し掛けてくれて、正直、ほっとした。


「熱はもう下がりましたか」

「はい」

「病み上がりに、呑み過ぎは感心しませんえ」

「はい」


 暁斎はチリ産赤ワインと牛肉のジャーキーをエコバッグから取り出した。菫がカットグラスを食器棚から取り出し、ワインのコルクを抜いてグラスに注いでやった。暁斎は礼を言うと、グラスを傾けた。傾けた拍子に、ワインの真紅と、グラスの透明なカットが反射し合い、きら、と光った。菫はその光景に見惚れた。

 興吾が持ってきたうどんには、半熟卵や豆腐、しめじなどが入っていた。うどんの湯気が暁斎の頬に当たる。


「おおきに」

「いただきます」


 不思議と和やかな空気だった。菫も興吾も、暁斎には思うところがあるのに、剣呑な空気など微塵もない。暁斎が、心からこの晩餐を楽しみたいと願っていることが、彼の挙措から滲み出ているからかもしれない。美味しい、とか、温まる、など、ありきたりな言葉が、それだけでもう十分であるように思える。そんな夜だった。暁斎は多くを語らなかった。菫はぽつりぽつりと、今日、研究室であったことを話した。他には特に話すこともなく、興吾も口数少なかった。


「そう言えば菫はん。僕のこといつまで暁斎おじ様言うんですか?」

「え、おじ様はおじ様ですし」

「他人行儀や思いましてん。もう菫はんも大人ですし、暁斎でええですやろ」

「目上の人を呼び捨てには出来ません」

「ほんなら、暁斎さんで」

「検討します」

「そうしてください」


 暁斎の微笑を見て、菫も思い切って言った。


「それなら暁斎……おじ様も、私のことを菫と呼んでください」

「俺も興吾で良いぞ、暁斎おじ」

「――――そうですねえ。検討しときます」


 暁斎の動作が、殊の外、ゆっくりと感じられた。薄紫の瞳は湾曲に、いつまでも笑んでいるようで。

 けれどそんな筈がないことを、菫は解っていた。


 数日後、龍切寺から暁斎の姿が消えたという報せが届いた。




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