金と銀
華絵が夕方まで菫の部屋で粘り、興吾はローテーブルに置かれた砂時計を弄ぶ菫に、早く布団に入れと小言を言いながら、キッチンで駿の買ってきた食材で夕食を作り始めた。華絵が帰宅する際、降り出した雨を菫は心配して折り畳み傘も持たないと言う彼女に、傘を貸そうとしたが、それより早く華絵はスマートフォンで家の車を呼び出した。暮らし振りの違いというものを見せつけられながら、しかし華絵が濡れずに済むと菫は安心して彼女を見送った。正確には見送ったのは興吾であり、菫は玄関まで出るなと厳命されてしまった。
夕食の匂いが漂ってくる。穏やかで、温かな匂いが菫の気持ちをほぐす。餌になれと言った忍の申し出、または命令には面食らったが、あの玲音という司祭が自分に執着を見せているのは確かであり、彼を倒すことに役立てるのであれば、菫は喜んで一命をも賭す覚悟だった。白い砂がさらさらとこぼれ落ちる。何となく、暁斎を思い出す。この色と、同じ色を持つ身だからだろうか。忍の口調が、銀月と銀滴主を並び頼みにしている風であったのが、菫には仄かに嬉しかった。暁斎との共通点を持てた。ただそれだけで喜ぶ自分は愚かだろうかと思う。それでも良い。恋は人を愚かにさせる。
やがて興吾が、キャベツと蟹缶のスープと、生姜粥を運んで来た。自分用にはスープに加えて煮しめと鮭の塩焼き、昼の残りの小松菜と海老のお浸しと炊き込みご飯を準備したようだ。興吾の紫の双眸が、卓上に置かれた白い砂時計にちらりと向く。菫に体温計を渡し、熱を測らせている間も、砂時計を意識しているようだった。
「あの女の言いなりになる積りか」
「ああ。それが最善ならな」
「菫が危険な目に遭う必要はないんだ」
菫は咽喉で笑う。少しひりついた。
「私たちはそもそも、危険と隣り合わせが生業だ」
「けど、汚濁を生む奴らの元締めだろう。これまでとは次元が違う」
「それでも為さねばならない時はあるさ。隠師に生まれついた私の宿命だ」
「俺が守ってやる」
「ああ。頼みにしている」
「あの千羽忍……。異相だったな」
「そうだな。お前や、……暁斎おじ様と同じ」
「色が違う。水を思わせる色だった。清流とか、海みたいな」
珍しいと菫は思った。興吾は異性の容貌に頓着しない。忍の水色の長い髪と蒼い双眸は確かに目を惹くものがあったが、それでも一顧だにしなさそうなのが興吾なのだ。気になるのだろうか。ふと心に湧いたのは、姉としての好奇心だった。
翌々日、雨ももう上がった快晴の日。ようやく熱の下がった菫は研究室に向かった。駿がいて、華絵がいる。それだけなのに、ほっとする光景だ。
「菫、おはよう」
「熱はもう良いのか?」
口々に、自分を案じる声を掛けてくれるのも有り難かった。
「はい。心配おかけしました、華絵さん。村崎も、ありがとう」
雨に洗われた空気のように澄んだ笑顔で礼を述べた菫を見て、駿はひとまずは安堵した。京史郎や暁斎に対する恐怖の念からは、とりあえず脱したらしい。華絵や興吾の看病の成果だろう。無力だった自分を情けなく思いながらも、菫の元気な姿を見るのは嬉しいものだった。暁斎への忌避感は、持続していてくれたほうが駿にとっては好都合だった。しかし、菫の心身を守るのに彼という存在が絶対的に欠かせない以上、自分の都合はこの際、後回しにするしかない。黒白か銀滴主か。どちらがより菫を守るのに適するかと問えば圧倒的に後者であることは駿自身が一番よく解っている。
「……ところであそこに座っている、後頭部が張り出したご老人は」
菫が応接セットのソファーに座した紳士を指して小声で二人に尋ねる。
「あー……」
「何と言うかその」
「ぬらりひょん氏だ」
「冗談だろう?」
「いやマジで」
菫は改めてその老人を凝視する。張り出した後頭部は確かに妖怪・ぬらりひょんの特徴と一致するが、それ以外はごく普通の人間に見える。渋い茶色のスーツがよく似合っている。だが菫の直感がこれは異形だと告げている。
〝その形ぬらりひょんとして、たとへば鯰に目口のないようなもの〟
文献にそう評されもするぬらりひょんだが、普通に人界に紛れて暮していけそうな風貌である。だからこそ、華絵たちもうっかり招き入れたのか。害はないとされる。ちゃっかり院生の内に紛れ込み、これから茶や食べ物などを催促するのであろう以外は。可愛らしいレベルで済まされる話だ。
そのぬらりひょん氏が、菫を見てにたりと笑んだ。流石に笑顔は妖怪じみている。バンバン、とテーブルを叩く。
「月光姫。儂は咽喉が渇いた。腹が減った」
「はいはい……」
「菫を名指すあたり助平爺だな、あいつ」
「駿、私には色気がないってこと?」
「いや、好みなんでしょ、菫みたいのが」
ぬらりひょんを助平と駿が評したのは嫉妬心からであり、決して女性としての魅力において華絵が劣ると思っている訳ではない。寧ろ色気で評価するなら華絵に軍配が上がるだろう。だがぬらりひょんは〝月光姫〟を指名した。好みなのは霊力の色合いか。業界で名高い月光姫に酌でもしてもらいたいのかもしれない。
確か教授のお中元の残りの純米吟醸がまだあった筈、と駿は思い出していた。持永のお歳暮はすべからく院生たちによって簒奪されている。
まず菫が緑茶を淹れてぬらりひょんに供し、それから華絵と二人で冷蔵庫にある食材で鰺のカルパッチョやピーマンやチーズ、トマトなどを載せたカナッペ、『パブーワ』をまねたオムレツなどを作り、ずらりとぬらりひょんの前に並べた。持つべきは潤沢な食材の揃った研究室の冷蔵庫である。
「美味、美味」
ぬらりひょんは喜色満面で純米吟醸を呑み、肴を喰らっていく。そのスピードは速く、人間であれば大した健啖家であったろう。
「月光姫、酌をしておくれ」
「はいはい、その呼び名は好かないのだけど」
甘え声で要求するぬらりひょんに、やっぱりなと駿は思う。菫はこのまま、害意ない妖怪の気が済むまで付き合ってやる積りらしい。人の好さにつけこまれたわね、と華絵が言い、全くだと駿も心中で同意した。
「しかしの、お前さんも難儀な生まれよの」
「何がだ」
「銀を持っておるじゃろ」
「銀月のことなら私の霊刀だが?」
「そんで、隠師じゃろ」
「如何にも」
「銀を持つ隠師は特別じゃ。お前さん、知らんのか」
「砂のこぼれ落ちるが如く古より曰はく。先を視る金、時を繰る銀、と。金の霊刀携えし者、先の世を視ること適い、銀の霊刀携えし者、遍く時を統べるなり。草木含め数多の命、滅びんとせし時、金と銀とは目覚め得たり。水の色、若緑、青、朱、世に霊刀多しと言えども、金と銀、加ふるに黒白。其に抗するものなし。世の行く末は彼の色共が決するものとす」
京史郎は書斎で古い巻物を紐解いていた。隠師や人外にまで伝わる夢物語のようなこの予言が、まさか現実のこととなろうとは。先程の忍よりの報せで、京史郎は己が金足り得ることを知った。だがまだ、彼は先を視たことはない。視えていれば翔や美津枝を救えていたかもしれない。肝心の時に役立たないらしい力が、この先開花するのかどうか。京史郎自身にもそれは解らない。
そして銀。
黒白。
菫と暁斎、駿を暗示する言葉。
京史郎には迷いがあった。
濃い緑のジェフレラに、迷いの先を託すように視線を注ぐ。ウラン硝子のペンダントランプは今は消灯しており、外の明るい光が薄暗い部屋に射し込んでいた。その清澄は部屋の薄暗さも手伝って、朝だというのに王黄院よりは銀月を思わせる。尊い銀光を。
〝草木含め数多の命滅びんとせし時〟
玲音の生む汚濁の脅威は、そこまでの規模に達するというのか。それとも脅威は既に、始まっていると考えるべきか。玲音は菫と会った。遠い遠い昔より定められた運命の輪は、回り出しているのだろうか。そしてその渦中には京史郎自身もいるのだ。安野暁斎もまた然り。菫を殺そうとした男。恐らくは菫を愛している男。彼が、菫と同じ銀の霊刀の持ち主であったことは運命の皮肉だろうか。
こうしている間にもさらさらと時の砂は落ちる。
流砂は人の都合など待ってはくれない。京史郎は硝子ペンのペン立ての横に置いた、電話の受話器を取った。スマートフォンを彼は余り好まない。自宅では専ら、家用電話を使用する。何回かのコール音のあとに相手が出る。
『はい、安野です』
「神楽です」
『京史郎はん。何のご用でしょうか?』
「草木含め数多の命、滅びんとせし時、金と銀とは目覚め得たり」
『またえらい古い話を持ち出しはりましたねえ』
暁斎の笑い声に、一瞬、京史郎は戸惑った。しかし彼は戸惑いを殺した。
戸惑いと共に胸中で暁斎をも殺した。
「暁斎さん。貴方に頼みがあります」
『何ですやろ』
「死んでいただきたい」