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恋雨前線

挿絵(By みてみん)

 イギリスの、異国情緒思わせる京史郎の書斎で、暁斎と京史郎は向かい合っていた。京史郎は暁斎に一人掛けのソファーを勧め、自らも肘掛け椅子に座していた。今日は日曜で出勤もない。尤も、京史郎は県庁職員でありながらしばしば無断で仕事を抜け出している。霊能特務課からの異動で来た彼を、上司は咎め立てすることなく、触らぬ神に祟りなしとばかりに沈黙を守っている。


「菫が知ったと?」

「汚濁を生む者らを束ねる司祭・玲音の発言を、僕が認めました」

「――――なぜ」


 京史郎の書斎に下がるペンダントランプの、水色のウラン硝子の緩やかな波線が、午後の微睡むような陽射しを浴びてその模様を暁斎の白髪にまで投げ掛けている。白に宿る水の色。薄紫の双眸は、それらの色を凌駕して強く、京史郎のいる方向を向いていた。


「菫はんは戸惑うてはりました。直感で、玲音の話を嘘やないと察していたんですやろ。事ここに至っては、知らん振りするほうが酷やと、そう思いました。結果、どちらにせよ酷な思いを彼女にさせることになってしもうた」


 父に殺されそうであったという事実。

 暁斎に殺されそうであったという事実。

 これまで最も頼みとし、強者として尊敬もしていた相手から殺意の対象として捉えられていた。それを知った菫の心中は如何ばかりか。


「私は、心から菫を殺そうと思ったことはありません」

「知ってます」

「あれは私の娘です」

「はい。せやかて、殺意の一切を否定出来しませんやろ」

「……あの子に嫌われたな」


 微苦笑混じりに、京史郎が言う。暁斎と玲音に対する恨みがましい思いも、その声音には少なからず入っていた。

 暁斎の白髪がさらりと揺れる。


「一過性のもんですやろ」

「貴方もだ」

「はい」


 京史郎の微苦笑に対して、暁斎はどこ吹く風といった風に平然と答える。


「暁斎さん。貴方は菫を好いているのですか?」


 それは父親の声だった。娘の殺害を視野に入れたことのある男の声とも思えない、親の声で京史郎は尋ねた。誤魔化しも逃げも許さない意志を籠めて。

 沈黙が下りる。

 暁斎の口角が吊り上る。


「京史郎はんには、答えにくい話ですね」




「あ、降り始めたわね、雨」


 華絵が束ねられた白銀色のカーテンを掴み、硝子戸の外を眺める。菫の風邪は治りが悪く、未だに高熱が続いていた。だがそれも、少しずつ、僅かにではあるが下がりつつある。いずれにせよ菫は、嘗てない間、ベッドに臥していた。興吾が菫の看病に奮戦し、華絵もまた足繁く菫の部屋に通い、その手伝いをした。しずやかに降り始めた音は暁斎の銀滴を思い出させる。そしてまた、母・美津枝が倒れた日を思い出させる。熱のある頭で考え始めれば思考は止めどなく渦巻き、荒み、菫の精神を削った。


「こういうのも秋雨って言うのかしら」


 華絵は独り言のように言ってから、菫を振り向く。常には生気に満ちた菫の目は今は茫洋として、天井のあたりを彷徨っている。熱に潤んだ双眸が哀れで、華絵は菫の額にそっと手を置いた。まだ熱い。興吾が先程から病人食と、自分と華絵が食べる昼食とを作っている。オリーブ油の香ばしい匂いは、食欲をそそるが、菫にはきついようで、嘔吐を堪えるように手で口を覆った。慌てた華絵が、彼女の横に新聞紙を敷いた洗面器を差し出す。さして中身のない胃の、内容物を吐き出した菫は肩で息をしていて、非常に苦しそうだった。こんなことであれば炒め物はしないように興吾に言っておけば良かったと華絵は思った。菫の嘔吐の声がキッチンにまで届いたのだろう。興吾が調理の手を休めずに声を掛けてくる。


「おい、菫、大丈夫か」

「うん」

「嘘だろ」

「じゃあ訊くな」


 尤もな菫の返答に、興吾は視線をフライパンに戻す。烏賊とセロリを炒めているのだが、油の匂いがきつかったらしい。煮込み系に徹すれば良かったなと反省する。

 出来上がった料理は、菫用にささみと梅肉を入れ、三つ葉を散らした雑炊と、華絵と興吾用には烏賊とセロリの炒め物、小松菜と海老のお浸し、茸の炊き込みご飯だ。

 ローテーブルに興吾と華絵用の料理を置き、菫は起き上がった状態で、布団の膝の上にお盆に載せた雑炊を置いた。しとしとと雨が降る中、三人は黙々と食事に集中した。供する話題に困っているせいでもある。駿がいれば場が和むのにと華絵が思い、彼の赤い目と、複雑であろう胸中を鑑み、それもまた問題の一つだと思い直した。駿はあれ以来、ここには来ていないようだ。


(気になる癖に)


 暁斎がネックとなって近寄れないのだとしたら、存外、小さい男と言うべきか、気遣いの男と称するべきか。


「興吾、美味しい」

「俺を喰うな」

「雑炊だよ」

「解ってるよ」


 ぼそぼそと交わされる姉弟間の会話が微笑ましくはあるが。


 鳴り響いたチャイムの音に、興吾が席を立つ。


「誰かしらね」


 菫と華絵は顔を見合わせた。駿だろうか。一瞬、二人共、そう思った。


 ドアを開けた興吾の前に立つのは、牡丹の振袖を着た少女。長い髪は水色で、後頭部で高く結い上げ、値踏みするように興吾を見る目は海を思わせる蒼。


「……どちらさん?」

「さしずめ貴殿が神楽興吾か。良い目をしておる。強い目だ。将来が楽しみと言ったところだな。今のところ、ただの小童に見えるが」


 美少女と見て、当たりの柔らかくなった興吾の顔が引きつった。極めて上から目線で物を言う、この少女は何者なのか。その異相から、隠師であるのだろうと見当はつく。それも極めて力の強い。


「私の名は千羽忍。バイオレット……、神楽菫に逢いに来た」

「お嬢ちゃん。今、菫は病人なの。またにしてくれるかしら」


 剣呑な空気を感じて玄関に足を運んだ華絵が、忍にそう諭す。小童と言われた興吾の仕返しも、さりげなくすることも忘れずに。

 蒼い双眸が華絵を見る。


「御倉の家の者か。千羽の名は知っていよう。同じく隠師と称される名家だ。私を門前払いすると、後々厄介なことになると思うが?」


 覚束ない足取りで、菫が出てくる。


「どうぞ、上がってください」

「菫」


 興吾と華絵が反発の声を上げるが、忍は構わずさっさと草履を脱ぎ、部屋に上り込んだ。

 丁度、三人が食事を終えた時であったのは幸いだったかもしれない。

 食器を流しに置き、空いたローテーブルの卓上に、興吾が淹れたアップルティーが置かれる。アップルティーは部屋にいる全員分あり、菫の分は蜂蜜入りだった。穏やかに甘い香りが部屋に満ち、興吾や華絵のささくれ立っていた心を落ち着かせる。忍は堂々として威厳ある佇まいで、静かにティーカップを口に運んでいた。


「それで、ご用は何ですか」


 カーディガンを羽織り、小さな声でそう尋ねた菫を、忍はつらつらと眺めた。


「神楽菫。貴殿はあの玲音とやら申す司祭に執心されているだろう」

「そのようですね」

「ゆえに」


 カチャリと忍がカップをソーサーに置く。耐熱の、硝子製のティーカップは、林檎の赤い水面を透かして外にまで映し出す。


「餌になってもらおうと思ってな」

「帰れ」


 即答したのは興吾だった。険しい目で忍を睨みつける。華絵もまた、厳しい視線を忍に送った。忍が冷笑する。


「これだから若者は。血の気の多いことだな」

「私が囮になれば、貴方が彼を倒すのですか。――――倒せるのですか」


 静穏な声で菫が尋ねれば、忍が得たりという表情で頷いた。


「その存念だ。しかしそれには私の異能だけでは務まらない。貴殿の銀月、または安野暁斎の銀滴主の力が要り様となるだろう」

「玲音の異能とは何なのですか」


 忍は含み笑いをして答えない。


「教えてもらえないことには協力も出来ません」


 流石に菫がそう言うと、忍が真顔になった。


「教えぬのは貴殿や、弟御、御倉の娘の身を案じるゆえだ。知れば消されるやもしれぬ。そしてそれを防ぐ手立てを、貴殿らは持たない。今のところ、私もだ」

「自分の非力を菫にカバーして貰おうって割に、横柄だな、あんた」


 忍の蒼が、興吾の紫についと向かう。


「先に死にたいか? 小童」

「やってみろよ。油断と驕慢は命取りだぜ」

「待ってください」


 菫がか細い声で割って入る。まだ咽喉が痛く、大きな声が出せないのだ。彼女に無理をさせていると、興吾は案じると同時に、自分を恥じた。


「協力します。玲音を倒せば、汚濁を生む集団は瓦解する。そう考えて良いですね」

「確証はないが、自然に考えればそうなるだろう。玲音は異色。飛び抜けた異能の持ち主ゆえ、彼の後継となる者は現れまい。あとに残るは有象無象」


 忍の言葉が事実なら、遙をも救えるかもしれない。菫の心に一筋の希望の光が射した。それにしても玲音の飛び抜けた異能とは何なのだろう。銀月や、銀滴主であればそれに抗し得るという理由は? 思案の淵に沈めばまた熱による苦痛が身体を襲い、菫は興吾らの勧めもあり、忍に失礼を詫びてからベッドに横になった。


「バイオレットの病は重いようだな。土産にこれを置いておこう」


 忍が振袖の袂から取り出したのは白い砂が入った砂時計だった。忍はそれをくるりくるりと引っ繰り返し、流砂の様子を眺めては弄んだ。そしてそれをローテーブルの上に置く。白い手だと興吾は思った。横柄な態度と口調さえなければ、忍は魅惑的な美少女だった。



 菫のアパートを出た忍は、階段を下り、蛇の目傘を差した。


「入るか?」


 視線は空に向けたまま、問いを投げ掛ける。


「いいえ」

「雨に打たれたいか。そんな気分の時もあるだろう、安野暁斎。バイオレットの熱、未だ冷めやらぬ様子だぞ。恐らくは貴殿への熱もな」


 アパートの駐車場の隅に立つ暁斎は、傘も持たず、白髪も黒い単衣の着流しも濡れるがままにしていた。酔狂なことだと忍は思う。忍が菫や暁斎の恋愛沙汰を関知していることを、暁斎は最早驚かない。相手が相手だ。化け物が化け物じみているからと言って、驚く人間がどこにいるだろう。自分への熱を、思慕を、未だに菫が抱いているか。それを確かめることを暁斎は恐れた。凡そ恐れる者のない圧倒的力を持つ男が、たった一人の異性の、心の行方を追うことに躊躇っている。しとしとと、白銀の線が暁斎を柔らかに打つ。忍は暁斎を一瞥すると、それ以上は気に留めず、歩き出した。暁斎は雨に濡れるに任せたまま、アパートを見えぬ目で見据える。203号室のベランダはここからでは見えない。菫の心もまた見えないだろう。熱が冷めていないと忍は言った。可哀そうにと他人事のように思う。そこまで追い込んだのは自分なのに。打撃を受けた菫を哀れみ、慈しむ思いが湧く一方で、安堵する自分がいる。菫の心が自分に在る。自分の心が菫に在るように。それは途方もなく甘美で、罪深い幸福に思えた。



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