あの子の好きなあの男
小池家の縁側で、染まりゆく庭の枝葉を眺めながら、忍は亀甲つなぎの桜と名付けられた手毬で遊んでいた。掌の上で転がし、糸の感触を確かめるように表面を撫で、空に放り投げる。手に落ちてきたそれを、またくるくると掌の上で転がす。実際の齢長じた彼女が、童女の児戯に興じる有り様は、忍の内面を知る者にとっては不可解だった。幾つになっても女性は女性ということかと、嘉治はそう結論付けることにする。
「ご機嫌麗しいようですな」
「左様に見えるか」
「はい」
嘉治の言を裏付けるように、忍は水色の髪を揺らし、楽しげにくすくすと笑う。汚濁を生む、その頭目の能力の一端が解明出来たことは地下室に籠る御師たちから報告を受けていた。忍の上機嫌の所以は、そこにあるのだろうと嘉治は見当づける。
「真、珍妙なる異能よ」
「侮れませぬ。未だ、その全てが詳らかにはなっておりませぬゆえ」
「そうだな」
海のように蒼い双眸を細めて、忍はにっこりと笑む。気位の高い彼女は、自分の虚仮にした相手を忘れず、またその報復をも忘れない。忍の力を知る嘉治は、玲音に微小の同情を覚えた。楽には死ねまいと思う。いや、玲音の異能は、〝楽に死ねない〟点にこそ、その真価があるのだ。その事実を知った嘉治は驚愕した。そんな人間がいるのかと。隠師と称するには余りに異端。彼の異能を破るには、技量ではなく、それに見合うだけの異能が必須であった。
「どういう光景よ、それは」
持永の講演会の付き添いを終え、菫のアパートに来た華絵は、チャイムの音に無言でドアを開けた駿が、力ない足取りでとぼとぼと菫のベッドから最も離れた位置、且つ、菫の寝顔が見れる位置に身を置き、体操座りをして膝に顔を埋めたことに、そんな感想の声を上げた。声には呆れが混じっている。無理もない。差し入れに持ってきたプリンやゼリー、
ヨーグルトを冷蔵庫に入れ、煉瓦の壁の向こうに改めて歩み入る。どうやら駿は打ちひしがれているようだが、大の男が身体を縮めても可愛くない。そして菫から距離を取りつつも、その寝顔が見える場所をキープしているあたり、彼の下心との葛藤やら何やらが窺えて、尚更、同情の余地はなかった。
「華絵さん、俺、今、傷心だから優しくして」
「でかい図体して何言ってんのよ。――――何があったの。菫と、あんたに。暁斎さんが菫に何か話したらしいことは興吾から聴いたわ。菫の風邪はそのせいなの?」
「俺と菫とどっちが大事?」
「菫」
「ですよね」
「質問にさっさと答えなさい」
「菫は暁斎さんに告られましたとさ、めでたしめでたし」
「殴るわよ」
「いってぇ……。殴る前に言ってください」
「暁斎さんに告白されて、どうして熱を出すのよ」
「多分、暁斎さんが」
「暁斎さんが?」
「いや、やっぱり何でもないです」
そう言って駿は飛びずさった。華絵の拳骨から逃げる為である。空振りした拳を握り締め、華絵はちっ、と舌打ちした。
「あ、俺、さっきバトりました」
「みたいね。相手は?」
「中ヶ谷遙」
話の方向を変えたと知りつつ、華絵は駿を見逃してやった。
「何であの子がここに来るの?」
「菫は昨夜、汚濁を生む主犯の玲音司祭に囚われた。助け出したのが暁斎さん。中ヶ谷遙は玲音が菫に危害を加えたんじゃないかと心配してました」
「初めからそう言いなさいよ。ん? 何、遙って子、菫のことが好きなの?」
「ぽい。昔の知り合いらしいです」
「それはまた――――複雑ね」
「複雑ですよ」
華絵が眠る菫に視線を向ける。
「危なっかしい子」
「誰が」
「あんたも菫も、遙って子もよ」
「ポエマーストーカーと一緒にしないで」
「熱は?」
駿の苦情を無視して華絵が尋ねる。見たところ、かなりの高熱のようだ。見ているほうまで辛くなり、華絵はハンカチで菫の額の汗をそっと拭った。頬に涙の跡があるのに気付き、それも柔らかく拭う。菫が泣いた。いつも気丈な彼女が。よく見れば駿の目も赤い。
「三十九度。上がりました」
「……ねえ。本当に、何があったの?」
華絵の心底、案じる声に、胡麻化し切れないと感じた駿が、重い口を開く。
「暁斎さんは菫に殺意を持ったことがあったらしいです」
「嘘……」
「嘘だったら良いんですけどね」
「でも彼は、菫が好きなんでしょう?」
「だから、もう殺せない。そういうことなんでしょう」
「それで、菫は泣いたのね」
「…………」
得心したが、余り喜ばしくない事実の判明に、華絵は眉根を寄せた。彼女の目で見る限り、暁斎は極めて大人の男性だ。この世の酸いも甘いも知り尽くしているように見える。そして、それでいて醒めた眼差し。薄紫の目は、盲目だからという理由ではなく、執心して見る対象が皆無のようで。さらさらとこぼれ落ちる砂時計を華絵は連想した。彼はいわゆる厄介な男だ。惚れて泣きを見た女は多いだろう。菫もまたその一例だろうが、その他大勢の女性と異なるのは、暁斎にも惚れられているという点だ。これを手放しで喜べないのは、彼が菫に殺意を抱いた過去があったと聴かされた為でもある。もう少し無難な男にすれば良いのに、と華絵は思い、けれど自分も未だ翔を忘れられない事実を顧みて、少なからず憂鬱な心境になった。
駿を眺める。
明るく染めた髪の色。グレーのTシャツの上に更に黒い半袖のシャツを羽織り、ジーンズはピンクグレー。相変わらず洒落た恰好だ。暁斎に劣らず見栄えがする男であるのは確かなのだ。
「この際、あんたで手を打っときゃ良いのに」
「華絵さん、それ、俺を蔑ろにした発言です」
嘆息した華絵に、駿がすかさず再び苦情を言う。華絵の言葉はそのまま、駿の心情でもあった。自分にしとけば良いのに、と。
(何でよりによって暁斎さんなんだよ)
同じ男から見てもスペックが高過ぎる相手だと思う。盲目であるという点を差し引いて、いや、盲目であるという点すら彼は自らの強味として、凡そあらゆる難事を涼しい顔でこなしてみせる。白髪、薄紫の双眸は異相だが美しい色合わせで、顔立ちも品があり端整。霊能特務課課長補佐という、業界では押しも押されもせぬ肩書きを持ち、銀滴主の向かうところ、ほぼ敵なし。これでもかという超人振りである。暁斎に比べると駿は自分が平凡で卑小な人間であるような気すらしてしまうのだ。
「――――嫌っ」
突然、寝ていた菫が叫んだので、駿も華絵もぎょっとした。菫は目を閉じたままだ。寝言らしい。
「嫌、止めて、嫌だ、」
「菫、菫、大丈夫よ」
堪らず声を掛けた華絵を、目覚めた菫が恐怖に見開いた瞳で見た。しばらく、声を出さず華絵を凝視する。
「…………華絵さん」
「怖い夢を見たのね。もう大丈夫よ」
「華絵さん」
縋りつく菫を、華絵が抱き締める。あ、役得、と駿は思い、その光景を指をくわえて見ていた。菫の見た悪夢の内容が大体察しがつくだけに、労わりの情も湧いた。華絵は菫を抱き締めながら、彼女の背中を優しく撫でている。適任だろうなとは駿も考える。菫は興吾以外の男といたくないと言った。暁斎も、父である京史郎さえ恐れているようだった。華絵の存在は、今の菫には救いだろう。
(華絵さん)
来てくれたのだ、と腕の温もりを感じながら菫は思った。美津枝を思い出す、女性特有の柔らかな身体の感触。固く強靭な男の肌とは違う。もしかしたら遙は、と菫は思う。自分は間違っていると言った遙は、もしかしたら美津枝のことを指してそう言ったのだろうか。彼は自分を糾弾したのか。けれど自身の優しさと駿にそれを阻まれ、半ばでそれを断念した。もうすぐ興吾も帰るだろう。興吾が知れば、興吾もまた、自分を責めるだろうか。あの強い、紫色の眼差しで。今の菫にはそれは耐え難いことだった。
「ごめんなさい」
「菫?」
「ごめんなさい、華絵さん、ごめんなさい」
華絵の手が髪に掛かる。優しく撫でられる。
「菫、良いのよ。貴方は何も悪くない」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「菫――――――――」
ごめんなさい、お母さん。
兄さんの死の謎が解けるまで、貴方を繋ぎ止める、私の罪深さを許してください。
兄・翔の死の謎が解けた時、更に重い十字架を背負うことになると、菫はまだ知る由もない。