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落涙禁止令

 怖い子だと、暁斎は思った。

 学校帰りに龍切寺に寄った興吾は、暁斎に真っ直ぐ、強い視線を向けた。盲目の暁斎でさえ、痛いと感じる程の視線は、興吾の抱く感情そのものだった。きっと彼は、自分を糾弾しに来たのだろう。菫も怖いが、興吾はまた別の意味で怖い。この姉弟は鬼門だなと思う。


「菫が熱を出した」


 暁斎の、茶筅を動かす手が止まる。


「さよですか。そら、あきませんなあ」

「菫に何を言ったんだ、暁斎おじ。昨日、菫の身に何が起きた?」

「菫はんは汚濁を生む首魁の司祭の結界内に囚われてはりました。せやさかい、助けました」

「それだけじゃないだろ」

「僕と菫はんの問題です。子供が口を出すことやあらしません」


 ぴしゃりと撥ねつけられ、興吾は悔しそうに唇を噛む。差し出された茶碗を掴むと、中のお茶を一気に飲み干した。苦さに、顔をしかめる。添えられていた落雁を口に放り、噛み砕く。苦味を甘味が駆逐し、それで少し人心地ついた。


「暁斎おじ。俺はあんたを尊敬してるけど、菫を泣かす奴は許さねえ」

「――――泣いてはったんですか」

「昨日、帰った時な。今も、もしかしたら」

「……そうですか」


 物思いに耽るように、暁斎が首を僅かに巡らした。見えぬであろう視線の先には流水と紅葉を象った砂利が敷かれた枯山水。その姿勢のまま、暁斎が口を開く。


「興吾はん。許せんいうような言葉は、軽々しく使わんほうが良いです。まして相手の実力が、自分より上やて解ってる時には」

「それでも俺は、信念を貫く。そういうのが男だと思ってる」

「若いですねえ。僕は手加減して君と仕合うことも出来ます。せやけどそれは君には屈辱でしょう。君の言わはる、男の矜持を尊重して本気でやろ思うたら、君の命の保証は出来ません。そうでのうても、君が怪我したらまた、菫はんが泣きますえ」


 興吾が言葉に詰まる。暁斎の指摘は正鵠を射ていた。


「お茶を飲んだら帰りなさい。菫はんに、お大事にて伝えてください」


 暁斎は興吾に向き直り笑顔でそう告げた。駄目押しに等しい言葉に、興吾は俯く。自分の視界に映る両の拳はまだ余りに小さい。霊刀を交えずして、言葉だけで暁斎に敗れた事実を、湧き上がる激しい悔しさと共に噛み締めた。



 時は少し遡り、駿が買ってきた食材は、主に興吾が調理する用であり、彼自身はレトルトのリゾットをレンジで温めるのがせいぜいだった。リゾットを食べたあと、菫は眠りに就いた。今は布団から顔を出し、涙の流れた跡の残る頬を空気に晒している。昼食前に測った時も、まだ熱は高く、今も息が荒く苦しそうだ。市販の風邪薬を飲ませたが、長引くようなら病院に行ったほうが良いかもしれない。駿はコンビニで買ったお握りを食べながら考える。


(……睫毛長いな)


 こうまじまじと、菫の寝顔を見る機会はこれまでになかった。駿は役得とばかりに菫の顔を凝視した。熱で紅潮した頬、赤い唇。唇は熱によって乾燥し、荒れているのが解る。荒れて、爛熟したような唇は、魔力のように蠱惑的でもあった。つい、吸い寄せられる視線を、駿は意志の力を総動員して引き剥がす。興吾の信頼をうっかり裏切りそうな自分が恐ろしい。女って怖い、と、駿は自分の誘惑に負けそうな心を菫含め世の女性全員のせいにした。

 そろり、そろり、と菫から後ずさる。

 成る程、誘惑の果実という物を前にした最初の人類もこのような心持ちであったのかもしれない。()に恐ろしきは知恵の実である。講演が終われば華絵もこちらに来ると言っていた。それまでは、心清らかに、平らかに保たねばならない。


(拷問かよ)


 前髪を掻き上げながら駿が嘆息していると、チャイムの音が鳴った。

 華絵だろうか。予想より早い。事情を聴いた教授が気を利かせて早めに彼女を解放してくれたのだろうか。持永は菫にはどこか甘いところがある。

 煉瓦の壁の横を抜け、玄関のドアスコープを覗いた駿は、まず目を見開き、視線を彷徨わせ、次いで何とも言えない微妙な表情になった。何だこの展開は、と思う。そしてドアを開けるか開けまいか迷う。相手に菫への害意がないことは知っている。いや、害意より寧ろ――――。

 

「何の用だよ」


 ドア越しに声を掛ける。多少、喧嘩腰になったのは相手が相手だけに仕方あるまい。その相手の声を聴くまでに間があったのは、住人でない駿の声に彼が戸惑ったからだろう。


「菫ちゃんが玲音に会ったと聴いた。彼女は無事か?」


 そう、問いを返したのは、息を切らした遙だった。


「…………」


 沈思黙考の末、駿はチェーンを外し、ドアを開けた。

 招き入れられた遙の第一声は。


「どうして君がここにいるんだ」


 やっぱり入れるんじゃなかったと駿は思った。時既に遅しで、遙は靴を脱ぎ、お邪魔しますと礼儀正しく言って、煉瓦の壁の向こうに踏み込んで行く。駿が慌ててあとを追う。


「おい、気安く入ってんじゃねえよ」

「君に指図される謂れはない」


 そこでベッドに横たわる菫を目にした遙は、ぴたりと黙った。歩みも止まる。


「予め言っておくけどな、菫は風邪ひいてるだけだ。玲音とかってのに会ったのは初耳だが、攻撃されたからとかじゃねえよ」

「……そうか。最近、涼しくなってきたからな」

「お前らの元締めに菫は会ったのか」

「うん。僕はそう聴いた。食事しただけだと言っていたけれど、心配になって。彼が菫ちゃんに危害を加える筈がないことは重々、承知してるんだけどね」


 これで繋がったと駿は思った。玲音に恐らく一方的に招かれた菫は、暁斎によってその場を脱したのだ。そして暁斎に本音の話を聴かされた。


「愛の告白も考えもんだな……」


 ぼそりと呟いた駿の声を、耳聡く遙が拾った。


「愛の告白?」

「菫は意中の相手と両想いだって話だよ」

「…………」

「おい、何してる」

「放っておいてくれ。今僕は、心に迸った傷心の稲妻を詩にしているんだ」

「お前もう、出てけよ。菫の無事は確認出来たろ?」


 スマホにポエムを書き込んでいるらしい遙に呆れ、駿はそう声を掛けた。はっきり言って、この場に遙がいても邪魔者以外の何者でもない。するときっ、とした眼差しで遙が駿を睨んだ。


「嫌だよ。君と菫ちゃんを二人きりにするなんて。君も菫ちゃんのことが好きなんだろう?」


 確かに遙がいれば菫に不埒な真似を働こうとする自分の煩悩は消えるかもしれないが、これはこれで非常に面倒臭い展開だと駿は思い、風邪でもないのに頭痛がするようだった。

遙がふと真顔になった。


「村崎駿。君は知っているのか?」

「何を」

「菫ちゃんの……お母さんのことを」


 駿も真顔になる。なぜ、遙の口からその話が出るのか。菫の母・美津枝に関する秘事は、京史郎が、菫が、何よりも守り通そうとしていることだ。幾ら菫を好いていても、言わば敵陣営に属する遙の、感知するところではない。考えを巡らせる駿の顔を見て、遙は察したようだった。


「知ってるんだね」

「……他人が安易に踏み込んで良い領域じゃねえだろ」

「間違ってる」

「お前が決めることじゃない」

「なぜ放置している? 菫ちゃんも知っているのなら、なぜ彼女を諌めない? 正しい道を示さない」


 逆巻き、荒ぶる海にも似た憤りが、駿の内に湧いた。

 駿は強い眼光で遙を睨めつけた。刃そのもののような、意志の力を乗せて。


「正しさって何だよ。汚濁を生むお前がそれを口にするのは滑稽だ。悲しみをも解放したい、救いたいと考えるのなら、どうして菫をそっとしておいてやろうとしない。お前の言動は矛盾している」


 遙が言葉を呑み、視線を右に、左に動かした。


「それでも納得行かない、この件を暴露したいってんなら、俺が相手になってやるよ」


 つまり遙の口を封じるということだ。遙を殺すということだ。淡々とした思考が、駿の頭を占める。そもそもが敵陣営の相手だ。殺戮に、躊躇いの余地はない。例え菫の知己であっても。

 駿は簡略結界を張った。病人である菫の枕元で戦闘する訳には行かない。

 美津枝の真相が暴かれれば、美津枝が消えてしまえば、菫はきっとまた泣くだろう。もうこれ以上、菫の涙を見るのはご免だった。




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