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マゾヒストに募る慕情

 闇の中、京史郎と暁斎が並んで立っていた。二人して何事かを話し合っている。大切な、重要な話だろうか。聴いてはいけない気がする。自分は、聴いてはいけない気がする。菫は二人の様子に気後れして声も掛けられず、突っ立っていた。やがてそんな菫に彼らが気付く。菫を見る目は、笑っているのに冷たくて。京史郎がこっちにおいでと手招きしても、菫は彼らに近づくことを恐れた。特に、暁斎の薄紫の、過たず菫を射抜く瞳が怖かった。彼の目には氷と熱とが共存していた。いつの間にか暁斎は銀滴主を手にしていた。その切っ先が、自分に向かうのではないか。菫はそう思った。薄紫の中の、氷と熱は揺らぎ、せめぎ合っているように見えた。


〝君は死ぬべきや〟


 暁斎が言う。


〝君が死んだら僕の心も死ぬ〟


 暁斎が言う。

 それなら暁斎は、自らの心を、銀滴主で殺そうとしているのだろうか……。


 菫が目を開けると、曙光が白銀のカーテンを透かして部屋を仄かに明るくしていた。身体が怠い。熱い。今、見ていた夢の中では、心胆が冷えるようであったというのに。寒い。熱い。菫はガタガタと震えた。


「三十八度七分」


 興吾が体温計を見て酷い渋面を作る。


「季節の変わり目の風邪にしちゃあ、熱が高いな」


 菫はぼんやりした頭で、熱に潤んだ目で弟を見た。興吾が怯む。日頃、タフな人間が弱っているところを見ると、妙に落ち着かないと言うか、ほだされるものがある。一体昨日、暁斎と何があったのか。キッチンで林檎を摩り下ろしながら、興吾は姉の発熱の原因について思いを巡らせた。


「ほら」


 マグカップに、摩り下ろした林檎と少量のお湯、そして生姜と蜂蜜を入れたものを菫に差し出す。菫は咳をしながら礼を言って、マグカップを受け取った。興吾は柄の長いしずくバースプーンも菫に手渡す。


「それで掻き混ぜながら飲め。ゆっくりな」

「うん。興吾、学校の時間は」

「まだ大丈夫だ」


 本当であれば、今日は休んで、菫についていてやりたかった。しかし当の菫がそれに反対するだろうという予測が安易につく以上、通常通り、登校するしかない。学校が終われば龍切寺に行こうとも考えていた。弱った菫に何があったかを問い質すのは忍びない。この上は暁斎に直接、疑問をぶつけるしかないだろう。

 ―――――場合によっては八百緑斬を顕現させることになるかもしれない。

 自分の霊刀が銀滴主に及ぶとは興吾も考えていない。霊力の差の前に、圧倒的な経験値の差がある。暁斎がどれだけの修羅場を潜り抜けてきたかは定かではないが、自分のそれよりはるかに勝っていることは確かだった。それでも譲れないことはある。

 さら、と髪を梳かれて、興吾はびくりと身体を揺らす。深い色合いの双眸で、菫がこちらを見ていた。


「興吾。無謀なことはしないでくれ」


 見抜かれている。

 しかも弱々しい声音で懇願してくる。興吾は菫の身体を横たえさせ、空になったマグカップとスプーンを引き取った。


「しねえよ」

「本当だな?」

「ああ」


 笑って頷いて見せた興吾に、それでもまだ猜疑の残る眼差しを菫は送る。


(信じてねえな)


 所詮、腹芸が苦手な性分だと自分でも知っている。

 興吾は更に菫にお粥を食べさせ、自分はいつも通りの朝食を適当に作って食べ、それらの食器を洗い片付けてから、菫に聴こえないよう、キッチンでスマートフォンを手に通話ボタンに触れた。


 行ってきますの掛け声と共に興吾が部屋を去ってから、菫は微睡んでいた。ここまでの高熱で寝込むのは久し振りだ。ゆらりゆらりと漕ぐ舟に乗る気分で、そしてまた、熱湯に浸かっている気分で、ベッドの住人と化していた。

 熱い。熱いのに寒い。身体の節々が痛い。咽喉の痛みは興吾が作ってくれた林檎ジュースで幾分、緩和されていた。しかし熱のせいか、辛い夢を見た。辛くて、起きたあとには複雑な心境に陥る夢を。玲音の声が蘇る。同時に、京史郎のこれまでの言動、暁斎がこれまで菫に見せた顔も蘇る。

 親しく、愛情を持っていた相手に、殺意を抱かれていたという事実は、菫をこれまでになく打ちのめしていた。血の繋がりが絶対的なものだとは考えないけれど。


 白く靡く髪。薄紫の瞳。黒い単衣の着流し。


 恋しく思うのはやはりその姿の他のどれでもなく。


(貴方になら殺されても良かった)


 つう、と頬を涙が滑る。

 暁斎の手に掛かるのであれば、それも本望と思えた。殺意があったのであれば、なぜもっと早く一息に、殺してくれなかったのか。

 殺せなくなった。そう言った。

 自分を殺せば心が死ぬから。

 その告白は、その真実は、菫にとって嬉しいことの筈なのに。対となって付随する悲しい事実が、その喜びをたちまち萎れさせてしまう。色褪せて遠ざかる。複雑に、入り組んだ心の迷路で惑ってしまう。

 暁斎は、とふと思う。

 彼は出逢う人間を、生かすべきか否かで振り分けているのだろうか。そんな風に考えながら、人と接し、会話し、時には食事をして。それはとても寂しいことと菫には思えた。冷たい銀の雪は、孤高で遠くて。想いを寄せてさえ。寄せられてさえ、尚、彼方に在る。

 苦しいのは熱のせいだろうか。思うままにならない恋慕のせいだろうか。


 虚ろな思考を持て余していた菫の耳に、チャイムの音が軽やかに聴こえた。

 誰だろうと訝しみ、重い身体を引き摺って煉瓦の壁の向こう、玄関ドアまで至る。ドアスコープを覗き込んだ菫は目を丸くした。


「興吾か」

「うん。電話あってさ。菫の看病頼むって」


 駿が言いながらキッチンの流しの横に買い込んできたらしい食材を並べてゆく。お前は寝てろと、菫はさっさとベッドに追い遣られた。


「……華絵さんは?」

「講演会。教授のお供。何、俺じゃ不満?」

「うん」

「否定しようよ!?社交辞令でもさっ」


 キッチンから駿が喚く。


「興吾以外の男といたくない」

「お前それ、結構、問題発言だぞ」


 事実だった。菫は昨夜以来、男性に対して恐怖心を抱いていた。唯一、興吾だけが、心許し、信頼出来る相手だった。

 駿が食材を出し終え、冷蔵庫に仕舞うべき物は仕舞い、菫の傍らに来る。菫の意志を尊重するように、距離を置いて。


「暁斎さんと何があった」

「……何も」

「嘘吐け」


 興吾が話したのだろうか。否定はあっさり退けられる。


「暁斎さんが――――、」

「今!」


 菫は強引に駿の言葉を遮った。叫んだ拍子に咽喉が激しく痛んだ。


「今、暁斎おじ様の名前を聴きたくないっ。嫌だ! 父さんも! おじ様も! 大嫌いだ!!」


 滅多に感情的にならない菫が、ここまで声を荒げたことに、駿は驚いていた。猛る菫を怖いとは思わなかった。寧ろ今の彼女は手負いの獣のようで、駿の目に痛ましく映った。駿は自然に菫の頭を撫でていた。柔らかい感触の髪を梳いて、宥めるように。菫はそれを撥ね退けはせず、されるがままになっていた。両手で顔を覆い、覆った手の隙間から、光る雫があることに駿は気付いた。昨日、一体、何があったのか。興吾は詳細を話さなかった。彼も知らなかったのかもしれない。ただ、暁斎と何かあったらしいことだけは駿に伝えた。駿の胸に、痛ましさと共に疼くものがあった。慰めたい。抱き締めたい。堪えたのは、弱っている菫につけ込むことに抵抗を感じたからだ。そこは興吾にも念押しをされていた。


〝お前を男と見込んで頼みがある〟


 信頼は裏切れない。菫は泣きながら呻いていた。低く、か細く。


「村崎」


 濡れた声が駿の胸を締め付ける。こちらまで苦しくなる。


「何」

「お前、私を殺したいと考えたことはあるか」

「ないよ」

「嘘だろう」

「どうして。ないよ。何で好きな女を殺すの」


 穏やかな声で菫に答えながら、駿は何があったか朧気に察した。

 菫の呻き声が止む。嗚咽が治まる。


「私に殺意を持ったことのある人を。そうと私に明言した人を。それでも私が好きだと言えば、お前は私を莫迦だと笑うか」

「笑わない。好きなもんはしょうがねえだろ」


 不毛な片想いだと駿は自分の身の上を思いながら、菫にそう告げた。暁斎がそこまで言ったということは、きっと彼は菫に打ち明けたのだ。抱いている情愛を。親戚の女の子以上として見ていることを。暁斎が本気になった。そのことは駿にとって脅威であり、菫には喜ぶべきことの筈なのに、今ある、この構図は何だろう。菫が泣くくらいなら、暁斎と上手く行けば良いとさえ思う自分がいる。真正のマゾヒストだったんだな俺は、と思い、駿は菫が被った布団を見た。彼女の身体の形に沿った膨らみを見て、泣くなよ、と呟いた。




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