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告白はディナーのあとで

挿絵(By みてみん)



挿絵(By みてみん)




 小池嘉治の家には地下室がある。御師が集い、霊能に関する調査研究をする場所だ。地下室とは言っても調度などには木の温もりがある物がふんだんに使われ、床には暖色を多用したキリムのラグが敷かれている。冷暖房も完備され、ベッドも置かれて宿泊も可能という、快適空間だった。


「……どういうことだ」


 御師の一人が、忍が持ち帰ったストラを手にして呻く。その持ち主の波動から、霊能を分析する作業をしていた彼は、到底、有り得ない事実に突き当たり、驚愕し、困惑していた。その作業を横で見ていた御師もまた、目を見開いている。


「これは。こんなことは、人間業じゃない」

「隠師の枠にも、まして御師の枠にも入らない。あえて当て嵌めるなら巫術士の類と言えるだろうが。余りにイレギュラーだ」

「未知の異能だ。霊能特務課長の言う、時が鍵だとはこういうことだったのか」

「玲音とか言ったな。とんだモンスターだ」


 御師たちは隠師を知る。巫術士をも知る。それらの頂点に立つ百瀬や宮部、鶴、そして別種としてイレギュラーと言える菫や駿をも知っている。その彼らをしてモンスター、化け物と言わしめる存在が玲音だった。



 優雅なクラシック音楽が流れている。

 菫は玲音と向き合って、真っ白なクロスの掛かったテーブルに着いていた。彼女にこの席に着いた記憶はない。玲音から、食事に誘われたが興吾が待っているので断ろうとした。そこまでは憶えている。問題は、いつ、自分がこの、如何にも高級そうなレストランまで歩いて来たのかだ。――――歩いて来たのだろうか?まるで空間そのものを歪ませたような。または空間そのものを現出させたかのような。巫術にも似ていると菫は思った。目の前の人物が常人でないことは、明白だった。


鵞鳥(がちょう)のフォアグラテリーヌ。アピシウス風です」


 給仕が運ぶ料理からフレンチだと判る。

 金色に縁取られた白い丸皿に点々と置かれた料理。まるで余白の美だ。

 だが菫はそんなことはどうでも良かった。玲音を睨めつける。


「貴方は誰」

「玲音。玲瓏の玲に音と書いて玲音。そう呼ばれるしがない司祭だよ。バイオレット」

「玲音……。遙君が言っていた人?」


〝後押しする力と意志があった。玲音は、ここにはいないけど〟


「そうだよ」

「何の目的でこんなことを?」

「食事を楽しまないかね、バイオレット。毒などは入っていないよ。私はただ、君と話したかっただけだ」


 玲音はそう言うと、自らナイフとフォークを持ち、菫の厳しい視線にも構わず食事を始めた。


「私はロシア料理が好きだ」

「そうか。それなら次の晩餐はロシア料理にしよう」

「次は来ない」

「解らないさ」


 菫は開き直った心境で、ナイフとフォークを手に取った。玲音はともかく、Tシャツにジーンズという自分の恰好が、とてもこの店のドレスコードに適っているとは思えないが。


「胡瓜とパプリカのサーモンサラダです」


 菫は改めて店内を眺める。菫たちの他に客はない。白薔薇の華麗な壁紙が全体の雰囲気を上品に作り上げ、クリスタルであろうシャンデリアの輝きは飽くまで派手過ぎず控え目だ。それを補うかのように店の中心にはカサブランカが豪勢に飾り付けられている。花がある。そのことに菫は僅かに安堵する。植物即ち隠師にとっては武器となるからだ。


「安心したかね?」


 心を読んだかのような玲音の問いに、菫は唇を引き結ぶ。口中はフレンチの油の風味に満ちている。


「良い店だろう。今日は私と君の貸し切りだ」

「素直に喜べないのが残念だ」

「そうか。それは私も残念だ」

「なぜ汚濁を招く? 遙君たちを解放しろ」


 菫の言葉に、初めて玲音が冷笑のようなものを洩らした。


「私は遙たちを拘束していないし命令も強要もしないよ。私のもとに彼らが集ったのは、彼らの自由意志だ、バイオレット。そしてその前の質問に答えるなら、人民の救済の為だ」

「汚濁は人に害を成す」

「些少な被害だ。救済の割合のほうが大きい。すべからくして、善への傾斜が大きいほうの行動を、人は採るべきなのだよ」

「同意出来ない」

「それは困ったな」


 全く困っていない口振りで玲音が言い、赤ワインが入ったグラスに口をつける。


「ビシソワーズです」


 音もなく、黄色い液体を湛えた皿が置かれる。


「救済の根源は君だ」

「何の話だ」

「君は汚濁を生み出す新世界の先駆けとなる。君はメシアだ。私は君を崇めている」

「正気じゃない」

「では尋ねるが、正気とは何だね? 人々の悲しみや怒りを蔑ろにし、抑圧することか?さにあらず。それら負の感情は解放されてこそ、人民の救いとなるのだよ。バイオレット。立つ瀬が違うだけなんだ。視点を少し変えてごらん。違った世界が見えるだろう」


 菫は赤ワインを飲んだ。玲音の話を聴くには素面では耐えられない。アルコールの力に頼り、幻惑するような玲音の話術を撥ね退けようと考えた。窓の外を見れば地上の星々が眩いばかりで、このレストランが高層ビルの中にあると知れる。

 次にはパンが運ばれてきた。厨房に設置された石窯で焼かれたパンだと言う。香ばしい匂いと温かな熱が伝わる。


「まるで政治家の考え方だ。犠牲の大小を天秤にかけ、少数を切り捨てる。切り捨てられるのは大抵が弱者だ。己を守る術を持たない」

「君のその、高潔さこそがメシアたる資格であり、また、メシアである為の障害となっている。慈悲が深過ぎると弊害も生まれる」

「慈悲ではない。一般の良識を知る者の意見だ」

「だが君は一般の枠には当て嵌まらない、バイオレット。お兄さんのことは残念だった」

「鯛のポワレ、ラタトゥイユとピストゥ添えです」


 翔を話に持ち出されたことで、菫の態度はより硬化した。


「兄さんの、何が解る」

「少なくとも君よりは解るよ。恐らく彼は祭壇に捧げられた子羊……。尊い犠牲者だったのだろう」

「何の話だ」

「君の話だ。そして君の兄の話だ。私は今、君に関する話しかしていない」

「――――兄さんがなぜ死んだか知っているのか?」


 玲音は赤ワインを口に含んだ。そして測るような目で、菫を見る。


「大方の予測はついている。君の周囲にも、そうした人間はいるだろう。彼らに、君が殺されずに済んでいることを、私がどれだけ安堵しているか、君は知るまい」

「誰が、何を知ると」

「例えば君の父・神楽京史郎。安野暁斎。君は情が深い。肉親、身内に剣を向けられないだろう。例え殺されそうになったとしても」


 ガタン、と音を立てて菫が立ち上がった。


「言って良い冗談と悪い冗談がある」

「もちろん、冗談ではないとも。賭けても良いが、神楽京史郎も安野暁斎も、一度は君の命を絶つことを考えた筈だよ。だから私は言った。安堵していると」

「檸檬のソルベです」


 菫はまるで悪酔いしたような気分だった。しかし手はワイングラスに伸びる。目の前に置かれた檸檬のシャーベットは涼やかで、食べればさっぱりとするだろうと思えた。京史郎や暁斎が自分を殺そうなどと考える筈がない。その理由もない。ない筈だ。だが玲音の、確信に満ちた口振りと言ったらどうだろう。


「なぜ父や暁斎おじ様が私を殺す」

「隠師が営々として汚濁を滅してきたことは知っているね?」


 玲音は菫の問いに直接答えず、そう念押ししてきた。当然、菫は知っている。その業は今でも受け継がれ、結果として菫や興吾がいる。


「汚濁を滅してきた血統……。換言すればそれは、汚濁に最も近しい血筋と言えるのだよ」

「滅するべき敵としてなら、確かにそうだ」

「君は、雪は好きか?」

「何?」


 菫は先程から、玲音の話術に良い様に振り回されていた。唐突な話題転換に、咄嗟についてゆけない。


「雪は清かに静かに振り積もる。しんしんとして。根雪という言葉があるね。中々、融けない雪だ。北国では豪雪が住民の悩みの種でもある」

「フランス産バルバリー合鴨のコンフィ、レンズ豆の煮込み添えです」


 しんしんとして降り積もる雪。それは興吾の、暁斎の白髪を連想させる言葉だった。


(暁斎おじ様)


 ―――――自分を殺したかったのか。

 あの、優しい薄紫の眼差しの奥に、秘めた殺意があったと言うのか。

 そう思う一方で、菫は暁斎に助けを求めていた。この優雅な牢獄から救い出して欲しいと切に願った。


「バイオレット。私はそれでも雪を美しいと思う。雪を愛でる」

「だから?」

「だから私は君を崇めているのだよ」

「まるで禅問答だ。貴方は仏教徒ではないだろう」

「私が信仰するのは君だけだ。君の前になら喜んで跪こう」

「迷惑だ。跪かれ、信仰される謂れがない。貴方は私にどんな重石を課す気なのだ」


 玲音の唇が弧を描く。


「いつの世でもメシアに苦難はつきものだ。バイオレット。君は、」

「おばんです」


 不意に現れた暁斎の姿に、菫は一瞬、幻を見ているのかと思った。だがすぐにそうでないと気付く。暁斎の纏う紫の燐光、手にした銀滴主の気配。いずれもが菫の感覚に明瞭に訴えかけ、これが現実であると告げていた。


「興吾はんが心配してはったさかい、お迎えに来ました」


 にこにこと、暁斎がその場の緊張感を無視した笑顔と口調で告げる。


「君を招いた憶えはないが……」

「巫術の一種ですねえ。ここまで来るんに往生しましたわ。ほな菫はん、帰りましょか」

「はい」

「待ちたまえ」

「はい。仕合いますか? ここで」

「君のその玩具は大層な代物らしいが。私には勝てんよ」

「試してみましょか」


 暁斎は笑みを絶やさずに言う。殺気の籠った笑みだった。

 玲音が懐から金の柄の短剣を取り出す。それと刃を合わせる前に暁斎が囁いた。


「銀滴主。雨霰。驟雨(しゅうう)


 暁斎が銀滴主を何度か振ると、銀滴が玲音に向かい降り注ぐ。遙たちから話は聴いている。遅効性の毒があると。しかしそれすら、玲音には効かない。その筈だった。


「――――ぐ」


 遅効性の筈の毒が。効かない筈の攻撃が。なぜか今、玲音に届き、効果を発揮している。


「中ヶ谷遙あたりから聴きましたか。遅効性の毒やて。せやけど、銀滴主の驟雨は、即効性の毒なんです。中ヶ谷遙たちに遅効性を盛ったんは、彼らの背後を知りたかったからです」

「毒が効く時間を、コントロール出来ると、」

「そうです」

「まさか私にまで効くとは。君の霊刀は……」


 そこまで蒼白な顔色で呟くと、玲音の姿は煙のように掻き失せた。


「逃げられましたね。驟雨で即死せえへんとは、規格外のお人や」


 菫は呆気に取られて暁斎を見ていた。規格外なのは暁斎も同様ではないのだろうか。得体の知れない敵の首魁をして退散せしめた。


「帰りましょか、菫はん」


 暁斎が張った簡略結界が解け、給仕係が突然現れた暁斎と消えた玲音に混乱し、動揺している。暁斎は、この先のメニューは不要と給仕に告げ、会計を済ませていた。菫がいたレストランは、福岡の繁華街、天神の中心部だった。


〝賭けても良いが、神楽京史郎も安野暁斎も、一度は君の命を絶つことを考えた筈だよ〟


 帰りのタクシーの中で、菫は俯いて玲音の言葉を反芻する。もしあの言葉が真実であったなら。どうして京史郎も暁斎も、自分の為に動くのだろう。京史郎と暁斎が本気になれば、例え月光姫の名を冠する菫とは言え、無事では済まない。それ以前に、彼らに反撃する気力が保てるかどうかも怪しい。玲音の言葉を虚言、妄言と片付けたいと思う一方で、彼の言葉に真実が宿ると菫の直感が告げている。そのことに、菫は泣きたくなった。隣に座る暁斎は、いつも通り、黒い単衣の着流しを涼しげに着こなし、腕を組んで目を閉じている。見えずの暁斎、されど視えたる。今の自分の心境まで、ひょっとしたら暁斎はお見通しなのだろうか。


「暁斎おじ様」

「はい」

「いつから、話を聴かれていましたか?」

「救済やらメシアやら言うあたりからです」


 では暁斎は、菫を自分が殺そうと考えたという玲音の話も聴いていたことになる。確認すべきだろうが、確認するのは怖い。その通りだと肯定されることを、菫は最も恐れた。だから訊くまいと思ったその矢先。


「あの司祭の話はほぼ事実です」

「……おじ、様」

「君には酷な話やと知って白状します。……君は死ぬべきやと、考えたことが僕にはある」

「…………」


 これは暁斎の懺悔だ。懺悔であり。

 菫は暁斎の顔を見たくなくて、車窓から外の風景を眺めた。光が後ろに、後ろにと流れてゆく。


「けど、よう殺せんかった。踏ん切りがつかんまんま、ずるずると」


 後ろに流れる光がぼやける。目頭が熱い。


「そんで今はもう、菫はんを殺すことは出来ひん」

「どうしてですか」


 声が震えた。嗚咽を堪えることに、菫は必死だった。


「君が死んだら僕の心も死ぬから」


 懺悔であり、告白だった。



 タクシーの停まる音に敏感に反応した興吾は、チェーンを外し、鍵を開けた。緩慢な歩みの、足音が聴こえる。それがじれったくて、興吾は室外へと出た。そこで見たのは涙を流す姉の姿だった。


「菫」


 菫が、呼ばれた時点で初めて興吾に気付いたように目を向けた。赤く腫れた目。覚束ない足取りで、興吾に歩み寄る。興吾が駆け寄るほうが早かった。興吾は姉の身体を抱き締めた。そうしなければいけないと思った。そうして、ゆっくり、傷ついた小動物に接するように、慎重な動作で、菫を室内へと導いた。


「風呂、沸かしてる。入れ」


 菫は無言で頷く。

 誰が姉を泣かせたか。菫の入浴の間、興吾は思案したが、暁斎しか思い浮かばなかった。菫が暁斎に想いを寄せていることは何となく気付いていた。当の暁斎は大人で、興吾にその内面までは計り知れない。菫の帰宅が遅いと告げたら、真っ先に迎えに出向いた。これはつまり、そういうことなのではないか。興吾がそう見当をつけた矢先の、菫の涙だ。滅多に泣くことのない姉の涙に興吾は驚き、動揺し、憤っていた。菫を泣かせたのが暁斎であれば許せない。及ばずながらも一矢報いねばなるまいと考えた。


 浴槽の中で菫は、湯の温もりに甘えていた。甘えたい。今はその衝動に駆られていた。自分を殺そうとした男たち。自分を守ろうとした男たち。自分に懺悔して告白した男。何をどのように考えれば良いのか解らず途方に暮れた菫は、思考することを放棄した。


(お母さん)


 美津枝に逢いたいと思った。もう好い歳なのに。母の腕が、膝が、恋しい。菫はまだ母を手放せないでいた。京史郎が美津枝を手放せないように。

 美津枝はもう生きてはいないというのに。 


                                  <第六章・完>


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