マイブラザーマイシスター
嘗て世間を騒がせたスキャンダラスな事件があった。
名家の令息が別荘の庭で惨殺されるというものである。マスコミや大衆はドラマに飢えている。殺され方が猟奇的であったこと、現場に被害者の妹が居合わせたこともあり、週刊誌は生き残りの少女を悲劇のヒロインに祀り上げ、こぞって涙を誘う記事を書き立てた。中には被害者の青年が惨禍に自ら飛び込んだのではとする、憶測の域を出ない無神経な記事もあった。
青年の死を皮切りに、名家の投資先の会社が倒産するなどして、家はあっと言う間に落ちぶれた。そこに因果関係があったのかは解らない。しかし名家は今や名ばかりの存在と成り果てた。
神楽家が現在に至るまでの経緯である。
死んだ神楽翔は、当時二十歳、菫は十二歳、興吾に至っては一歳という幼さだった。だから興吾には兄の記憶がない。ただ、兄が惨殺され、その場に菫が居合わせたことを知るのみである。菫が、時折、当時の記憶を思い起こして頭痛に悩まされることは今の興吾には既知であり、介抱することもしばしばだった。
浴室で倒れた菫だが、興吾の出現により何とか気力を奮い起こし、タオルで濡れた身体と髪を拭うと新しい衣服を身に着けた。
やっとのことでリビングに行くと、ローテーブルに素麺の入った硝子鉢が置かれていた。
興吾が用意したのだろう。小学五年生にしては手際の良いことだった。その硝子鉢は切り込みが精巧に入り、光を受けて輝く。菫が自宅から持ってきた逸品の一つだ。
ベランダを眺めていたらしい紫の瞳が菫に向かう。
手にはドライヤー。
「座れよ。乾かしてやる」
菫は弟の命令と申し出に従順に、彼の前に後ろ向きに座った。
ゴー、と温風が菫の髪をなぶる。
「これ、マイナスイオンとか出る奴か」
「うん。確かそうだ」
身なりに余り気を遣わない菫に、華絵がこれを使えと気前よくくれたのだ。水分を含んだ髪が、温もりと共に徐々に軽くなっていく。興吾のまだ小さな手が時々、菫の髪を梳き、くすぐったい。だが、こうして弟に甘やかされていると、頭痛の種である記憶、翔、静馬、母たちのことも思考の外に緩やかに退場していくようだ。姉思いの弟の優しさと配慮に、菫は感謝した。興吾の、次の言葉がなければ和むままに済んでいただろう。
「汚濁を倒した」
「……何だと?いつ」
興吾はドライヤーを扱う手を止めない。
「一週間程、前だ。うちの近くに気配を感じたから」
「単独で狩ったのか」
「そうだ」
堪らず、菫は後ろを振り向いた。
そこには白髪と紫の目。紫水晶にも似た強い光が、菫を見返した。
隠師の家系には稀に異相の者が生まれる。そして異相は力の強さの証とまことしやかに伝わる。興吾はその例に洩れず、子供の身ながら既に高い霊力を保持し、自らの霊刀を操る術を心得ていた。
だがまだ十一歳だ。菫が十一の頃は汚濁を単独で滅するなど考えもしなかった。当時は長兄の翔も健在で、菫は父と兄に守られ、隠師としての実践を積む機会もなかったのだ。
「興吾……。急いて戦場に出ようとしないでくれ。私は……、」
「俺は!」
興吾が菫の懇願を遮る。猛るような声で。
「俺は、兄貴のようにはならない。菫のことも、俺が守ってやる。そしていつか、兄貴の仇を討つ」
「私にお前まで喪う恐怖に怯えろと言うのか」
「俺は死なない。この、」
興吾は白髪と双眼を指し示す。
「異相に懸けて。汚濁だろうと妖怪だろうと斬ってやる」
興吾が汚濁や人外の存在に敵愾心を異様に燃やすのは、兄の死ばかりが原因ではない。
異相が彼に異相ゆえの大きな力を付与するのでなければ割に合わない。そうも考えているのではないだろうか。
(溶け込めないのか……)
菫は悲しくそうと察する。
子供は無邪気で残酷だ。異相である興吾が、学校でどのような扱いを受けるか、想像するに難くない。興吾は自分を排除する領域より、重用される領域に行きたいのだ。菫は姉として軽々にそれを咎めることが出来なかった。それに興吾は確かに霊能において才がある。興吾の霊刀を菫は見たことがあるが、その静穏な美しさと澄明さは今でもありありと思い出すことが出来る。
「父さんは何て言ってる」
「お前の好きにしろって」
「……長老たちと特務課に、今度話してみよう」
放置して、単独で汚濁や人外に挑みかかられるよりも、連携を取ったほうが興吾の安全にはなるだろう。そうすることは興吾の戦線に参加することを、より確定的なものにするのだが。
興吾の頬に朱が差す。
年相応の喜びの表れに、菫は複雑な思いだった。
「よし、向き直れ。まだ完全に乾いてねーからな。夏風邪だって莫迦に出来ねーんだぞ」
浮き浮きした口調で興吾が再びドライヤーを動かす。さっきより一段と強くなったドライヤーの音に負けないように、声を張り上げ菫は尋ねた。
「母さんは元気か?」
「元気元気。ガーデニングに精を出してるよ。……菫、いっつも母さんのこと気にしてるよな」
母がガーデニングに精を出すのは隠師の家としても悪いことではない。いつでも霊刀を出せる武器庫があるようなものだ。
「以前、倒れたからな」
「けどあれ以来、ずっと発作もないし、元気だぜ?」
「……そうだな」
ドライヤーの温風は菫の白い頬にまで当たり、菫はそれを口実として目を閉じた。
目を閉ざしたい過去が自分には多いと思いながら。
央南大学文学部史学科教授・持永誠一の容貌は、例えば幼稚園の保育士さんから「今度のクリスマス会でサンタクロース役になってください」と言われそうなものであった。ふっくらとしたお腹、白髪に、白い髭が丸顔を覆っている。鼻梁だけは高く、そこだけが鋭利と言えば鋭利であった。しかし総じて温厚そうな印象を与える持永が、実に悲しそうにクッキーの缶を持ち、しょんぼりとしていた。缶は金色に黒い英語のロゴが入った、デザイン性の高い物である。中身の味を保証したような外観は、しかし振っても最早音を立てることなく沈黙し、空であることを物語るばかりだ。
「儂のクッキーが無くなっておる……」
犯人は菫と駿である。二人共、汚濁を滅したあとに、コーヒーで勝手に教授のクッキーの缶の封を開けた。ココナッツが練り込まれたそのクッキーがまた、あとを引く味の良さだったものだから、ついつい完食してしまったのだ。追及されたら醜い罪のなすり合いが行われることだろう。
「まあまあ、きょーじゅ! 良いじゃありませんか。教授は少し糖分を控えたほうが良いんですから」
その場にいた華絵が、持永のお腹をまじまじと見ながら取り成す。
「この間、健康診断で引っ掛かったんでしょう? 血糖値」
「うぬう。しかし甘味は論文を書くにも必須の、儂のエネルギー源なのじゃよ。ところで神楽君と村崎君はどうした?」
「二人共、帰ったみたいですね」
持永が学会から帰るタイミングと重なっていることから、その帰宅が逃亡めいたものであることが察せられる。
「全く自由じゃのう。幾ら形ばかりの在籍とは言え、儂の手伝いや論文執筆も彼らの役割なんじゃが」
ぶつぶつ言う持永は、やはりサンタクロースにしか見えず、華絵は季節にはそぐわないわね、と思いながら呑気に彼を眺めていた。
クッキー食い逃げ犯の一人である駿は、コンビニを出て、マンションや一軒家の入り混じる住宅街を歩いていた。長かった夏の日が、ようやく傾こうとしている。蝉の鳴き声に混じり、蜩の鳴く声も聴こえ、駿に郷愁を感じさせた。尤も駿には帰りたい過去はない。空の青は絵具を溶かしたように淡く、遠い。傾く太陽はまだ蕩けそうな黄金でじりじりと大地を照りつける。控え目に吹く風が駿に僅かばかりの清涼をもたらした。駿はどんどん、人気のないほうへ歩いて行く。彼の住まいとは逆の方向だ。この先には公園がある。小さく、立ち寄る人もいない公園で、後ろには山と、貯水池があるだけだ。貯水池で児童が溺れ死んだのも、もう随分と昔の話になる。公園には砂場とブランコ以外の遊具はなかった。
「さて。昼間なのに出てきた粗忽者の汚濁君。このへんで君には消えてもらうよ」
駿がにこやかに、まるで友人に声を掛けるようにそう告げた。
軽やかでありながら紛う方なき宣戦布告だった。
蠢く何本もの触手を携えた、濁った灰色の塊が、駿の前に姿を現した。