黄昏時の革財布
ふわふわと、百瀬は宙を漂っていた。空間には水が満ち、あらゆる種類の魚がたむろしている。金や銀の細かく四角い紙片もちらちらと舞う。水は桃色かと思えば正常な色を取戻し、取り戻したかと思えば金色に輝き、果ては青にも紫にも黄色にも緑にも変じた。
人魚が百瀬の前を、手を振りながら横切ってゆく。
百瀬も愛想よく手を振り返す。人魚は上半身の裸身を惜しげもなく晒し、下半身の鱗は虹色に光っていた。その、鱗がほろり、と剥がれたりするが、剥がれる端からまた再生してゆく。海亀が百瀬の前に寄ってきて、ぬうと頭を差し出す。撫でてくれということらしい。百瀬はかわゆいのう、と言いながらその頭を撫でてやる。
百瀬の脇には根が銀、茎が金、実が真珠である蓬莱の玉の枝が神々しく生えている。かぐや姫が車持皇子に要求した世にも稀なる至宝が、惜しげもなく百瀬の脇に鎮座する。まるで百瀬が蓬莱の主であるかのように。事実、この空間は蓬莱と言っても差し支えなく、百瀬はここの絶対的な支配者であった。
「相も変わらず出鱈目な巫術だな。百瀬」
百瀬は緩慢に首を巡らす。気配にはとうに気付いていた。自らが生み出した夢現の領域。侵入者があればそうと知覚出来る。排除しなかったのは、百瀬にその気がなかったからであり、百瀬がこれを除こうと思えば、空間から弾き出すことも可能だ。相手が凡庸な使い手であれば。しかし千羽忍は、凡庸な使い手ではなかった。
「忍。やれ、顔を見るのは何年振りか。相変わらず若いのう」
「貴殿が言えた台詞か」
「まあ、そうよな。我らの肉体年齢は、現の定めを無視しておるからの」
忍が懐かしそうに百瀬の作り出した空間を見渡す。百瀬は隠師であるが、巫術の腕前も一流で、このような夢現の空間さえ造作なく創造してしまえる。出鱈目と忍が称したのは、一種の賛辞であった。
「貴殿子飼いの神楽京史郎と、少しばかりやんちゃをしたぞ」
百瀬が顔の前で十二単の袖を振る。
十二単の百瀬と、牡丹の振袖姿の忍は、ただでさえ幻想的な空間の中、一幅の絵のようだった。
「あれはわらわの子飼いなどではないよ。それに収まる器でもない」
「であろうな。単独で動いている様子だった。さしずめ孤狼か」
「やんちゃの内容が気になるの」
「気になるか」
「うむ。焦らさで教えてたもれ」
すい、と百瀬の前に黒塗りの漆箱が出てくる。忍の帯と同じ、橙色の組紐が箱を封じるように結ばれている。忍が顎をしゃくる。開けてみろということらしい。
百瀬は五弁の花の形を模した組紐飾りを取り、組紐を解いた。
中には小さな京史郎と忍がいる。彼らがいる場所は教会で、どうやらそこに密かに侵入しているらしいことが判る。箱の中で、京史郎たちの動きが再現される。百瀬は興味深く、それを見守っていた。
やがて小さな箱内での上映会が終わり、百瀬は箱の蓋を閉じた。
「やんちゃにしては、火傷を負うたな? プライドに」
「そこはそれ。いずれは倍にして返す」
「おお、怖い」
くすくす笑う百瀬だが、ふと真顔になる。
「玲音と申す男の異能、面妖なり」
「然り。今、御師たちに解明させている。貴殿の見立ても聴きたい。百瀬。貴殿は生臭坊主の能力を何と見る?」
「答えれば村崎を見逃してくれるかの」
のんびりと訊き返した百瀬の言葉は、彼女たちの目下懸案事項の一つだった。
「……確約は出来ん」
「やれ、石頭め。変わらぬの。そなたが村崎を弑せんと動けば、わらわが阻まねばならぬではないか。面倒な」
「邪魔立てしなければ良い」
「左様な訳にもゆくまいよ。わらわも、バイオレットもな」
「月光姫か。どうして貴殿たちは私の手間を増やすのだ。たかが隠師もどきの一匹」
百瀬の目が剣呑な色を宿す。
「名目上であってもあれはわらわの部下じゃ。バイオレットの同胞じゃ。長く生きると人の世の理も忘れるか、忍」
「貴殿から説教されるなどご免だ。見立てを言え」
「この玲音なる男、霊能を無効化とはしておらぬ」
「何?」
「そなたは無効化されたと思うたのであろ?」
「事実、玉水宴は届かなかった」
「否」
百瀬が首を静かに振る。豊かな黒髪の艶が水の中、嫋やかに揺れた。
「届いておる。玉水宴は、玲音に達した」
「……霧散した」
「さにあらず。鍵となるのは時じゃ」
「時?」
「左様。それがわらわの見立て。いずれそなたが顎で使うておる御師共が、司祭の能力を詳らかにするであろ」
夢現の波揺らめく空間で、十二単の少女と振袖の少女は向き合う。二人の間をゆったりと海豚が通り過ぎて行った。
興吾は不機嫌且つ憂鬱な顔をしていた。
もうすぐ夏休みが終わるのだ。終われば、隠師としての務めより小学生としての務めを優先させなければならず、大学の研究室に顔を頻繁に出すことも出来ない。何より白髪、紫色の目の異相をからかいの的とされる。苛めを受けるようなしおらしい性分ではないが、不快なものは不快なのだ。彼の気持ちを察する菫は、せめて少しでも励まして元気づけようと、プレーンなパウンドケーキを焼き、カルピスを添えて興吾の前のローテーブルに置いてやった。興吾は姉の気遣いの産物をちらっと一瞥して、黙ってフォークを手にした。さっぱりした味のケーキと、甘やかすような味のカルピスが好相性で、興吾は無言で食べつつ飲んだ。菫も一緒に食べて、飲んだ。
「学校行きたくねえな」
「興吾……」
「俺は霊能特務課に所属してるんだぜ? 仕事しながら小学生する子供なんているかよ」
「小学校は義務教育だから」
「つまんねえ制度」
興吾がぼやくのも無理もないと菫は思う。異相によって爪弾きにされ、しかも学業のレベルは大学生にも引けを取らない程なのだ。苦痛を呑んで、どうして小学校に通う必要があるのだと、彼でなくても思いたくなるだろう。
「父さんはきっと無理して行く必要はないと言うだろう」
「解ってるよ。けど母さんに心配かけたくもねえしな……」
母・美津枝に話が及び、菫は京史郎からの忠告を思い出した。
〝中ヶ谷遙がうちに来た。美津枝のことにも気付かれた。お前は何も知らないことになっているが、くれぐれも気を付けろ〟
遙にまで知られたと聴いて、菫は恐れを感じた。美津枝のことを知っているのは駿だけだと思っていた。駿はこの件に関して口出しせず、知らぬ振りを通してくれている。遙が全て、暴き立てようとする人間ではないとは言え、やはり内情を知られたことは菫を動揺させた。
〝お前には話さないと、そう言っていた。彼は他の誰にも口外しないだろう〟
(遙君)
敵陣営にいる相手だが、懐かしい幼馴染だ。彼は自分を慮ってくれたのだ。今のところ、玲音初めとする汚濁を生み出す面々とはまだ直接対決に至っていない。けれどこのまま時と事態が進めば、総力戦になることは必至だろう。自分は遙に銀月を向けることが出来るのだろうか。遙はどうだろう。自分に刃を向けるだろうか。
「興吾」
「ん?」
「お前、このままうちに住んだらどうだ」
「え?」
「うちから小学校に通えば良い。多少、通学が不便にはなるが、央南大学には行きやすいだろう」
紫の瞳に抑えがたい歓喜の念が宿る。
「良いのかよ。迷惑じゃないのか、菫」
「興吾は家事もこなしてくれるし、私は随分、助かってる。それにお前がいなくなると、私も寂しい」
それは菫の、飾らないストレートな本音だった。
興吾がいることでこの部屋は活性化されていた。まだ年若い命の躍動が、菫に過去を振り返らせる時間を少なくする効果を発揮していた。彼がいなくなればまた、兄や母のことで不毛に思い悩む時間が増えるだろう。
興吾は目を丸くしていた。そうすると年相応に幼く見え、尚更、菫には彼が愛しく思えた。心細い、遣るかたない思いをしていたのは、菫だけではなかったのだろう。
「母さんたちには、私から話してみるよ」
「ああ」
言葉少なに答えた興吾の顔を、直視しないようにして菫はカルピスを飲んだ。興吾もまた、いつの日か美津枝の異変に気付くかもしれない。同居していないほうがその危険性は少なくなる。そうした計算もまた、確かに存在することに、菫は後ろめたさを覚えていた。
結果として興吾がこのまま菫の部屋に居続けることに、両親は賛同した。美津枝は流石に寂しさも手伝い、最初は少々渋っていたようだが、京史郎の説得で菫の迷惑にならないのならと承知した。美津枝は京史郎がいれば耐えられる。彼女は夫を愛し、京史郎もまた、美津枝を愛していた。心の底から。菫はそのことを知っている。
両親の許可が下りて、得意満面の笑顔で興吾は必要な荷物や勉強道具を菫の部屋に運び込んだ。男手が必要だったので、駿がそれを手伝った。菫が頼み、二つ返事で引き受けた駿を、興吾は手伝ってもらっている身でありながら、どこか哀れみの眼差しで見た。お礼は菫の唇で良いよと言った駿は、興吾から回し蹴りを見舞われた。懲りない男だなと思いながら、菫は駿に夕飯を御馳走することで貸し借りなしとした。それでも菫の手料理と言って喜ぶあたり、現金であり、可哀そう、と菫でさえ思ってしまった。
九月も後半に入ると猛暑も鳴りを潜め、秋の気配が感じられるようになった。飛頭蛮と汚濁を滅してから、菫たち隠師に働く機会はなく、ここしばらく平穏な日々が続いていた。
菫は修士論文を書いたりプールで泳いだり気儘に過ごした。学校帰りに研究室に寄る興吾の相手を専ら務めるのは駿で、あいつはいつ論文を書いてるんだと菫は危ぶんだ。そんな菫の心配も知らず、駿と興吾は妙に意気投合して、時に体術の鍛錬も一緒にしているらしかった。
興吾が研究室に顔を出さなかった日の夕暮。菫はやはり弟の来訪がないと研究室も寂しいものだと思いながら大学の門を出た。紅葉した欅道を歩いていると、前方に前屈みになり、探し物をしているらしい男性がいた。グレーの三つ揃いのツイードを着て、身なりの良い白髪の男性だ。
「どうしましたか?」
「ああ、落し物をしてしまったようで。革財布なんだが……」
初老と思しき男性は菫に困惑した声で答えた。菫も一緒になって探すと、道の脇の草叢の中、ぽつねんとしてその革財布は落ちていた。
「ありましたよ。これじゃないですか?」
「そう、これです! ありがとう、お嬢さん」
「いいえ。良かったですね。それにしてもどうしてあんな所に落ちてたのか」
「さて、なぜでしょう」
その声に、含みがあると感じたのは気のせいか。菫は改めて紳士を見た。
「お嬢さん。財布のお礼に、晩餐を御馳走させていただけませんか?」
そう言った彼の瞳は、夕日に照らされて、水色に橙が浮かんでいるようだった。